電脳筆写『 心超臨界 』

神は二つの棲み家をもつ;
ひとつは天国に、もうひとつは素直で感謝に満ちた心に
( アイザック・ウォルトン )

元会儀礼にみる礼的秩序――西尾幹二教授

2018-01-10 | 04-歴史・文化・社会
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前川喜平氏は、官邸が「加計ありき」を押し付けてきたために行政がゆ
がめられたと主張しました。しかし、そんな事実はないことが7月24
日の衆院審査において証明されました。「家計ありき」は前川氏ひとり
の思い込みでしかなかったということです。しかしメディアは、前川氏
の主張にもとづく報道を未だに繰り返しています。報道が真実を隠蔽す
るという、まさに自殺行為を繰り返しているのです。

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  加計疑惑!安倍晋三: 小野寺五典(自民)7/24衆院・午前

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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p290 】

9 漢の時代におこっていた明治維新

9-6 元会儀礼にみる礼的秩序

中国前近代社会(清朝まで含む)の秩序は、ひとつにはもちろん軍事力や警察力などの強制力を背景にしていたであろうが、決してそれだけではない。「礼制」という固有の意識を前提として守られていた一面が確かにある。礼的秩序は聖人である周公旦(しゅうこうたん)や孔子が制定したものとされていて、伝統のなかにある。王朝儀礼がその一つであり、君臣、親子、夫婦、長幼、朋友の五倫に代表される社会秩序が二番目であり、立ち居ふるまいにかかわる日常的秩序が三つ目である。これは法律による規制よりも中国社会を広範囲に包み込んでいる基本をなす意識であり、これ抜きに専制国家の社会統合を考えることは確かにできないであろう。

『天球の玉座』のもう一つの重点は、元会儀礼の分析にある。これは朝賀委贄(ちょうがいし)を通じて達成される、皇帝と中央官僚とのあいだの君臣関係の、年ごとの更新儀礼である。皇帝に対する家臣の臣従をからだの行為を通じて表現し、とりわけ舞踏礼は、元会という制約を超えて、皇帝から恩を受けたときに家臣がただちに執り行う儀礼であった。官僚、士(し)、大夫(たいふ)が行う皇帝礼賛儀礼に他ならない。これによって皇帝と官僚とのあいだの調和、並びに和合が図られることに目的がある。『続漢書』に次のようにある。

  正月の早朝、天子は徳用殿にお出ましになり、殿前に臨まれる。公
  (こう)・卿(けい)・郎(ろう)・将(しょう)・大夫(たいふ)・百官(
  ひゃっかん)は、各々定められた位次に参列して朝貢する。蛮(ばん)
  ・貊(ばく)・胡(こ)・羌(きょう)・など周囲の異民族が朝賀しおわ
  ると、皇帝は地方の郡国から派遣された上計吏を謁見する。上計吏
  は、皆な階段のたもとでお目みえし、庭にはかがり火が焚かれてい
  る。宗室の劉氏一族も参列し、西に向かって立つ。参加者は1万人
  以上になる。

  参列者の位次が定まると、殿上では皇帝に寿酒を奉る。このとき上
  計吏たちは、中庭にあり、北に向かって立つ。殿庭では、西から入
  って来た太官が群臣に酒食を用意し、東へ出てゆく。この間、4人
  の御史(ぎょし)が殿下で秩序を監視し、虎賁(こほん)・羽林(うりん)
  の兵士が弩(いしゆみ)に矢をつがえて満を持し、階段の左右を警護
  する郎官は、軍服に身を固めて殿前に位置し、殿庭の方を向いてい
  る。左中郎将と右中郎将は東南に位置し、虎賁中郎将と羽林中郎将
  は東北に位置し、五官中郎将は中央に位置し、皆な座して賜物をい
  ただく。

  九等の参会者のために散楽(さんがく)が催される。

  まず、舎利獣(しゃりじゅう)が西方から現れ、庭の隅で戯れ、終わ
  ると殿前に進む。ここで水がおびただしく沸き起こり、舎利獣は比
  目魚に変わる。比目魚が跳ね返りながら水を吹き出すと、霧となっ
  て日の光りをさえぎる。霧が晴れると、比目魚は長さ8丈(18メ
  ートル余り)の黄龍に変わっており、水を吐き出し、日の光りに輝
  きながら殿前に遊んでいる。

  一方、数丈(7~8メートル)離れた2本の柱の上には、2本の太
  綱が渡されている。2人の歌姫が両方から舞いながら綱の上を進む。
  途中で行き違いざま肩を触れあわせるがビクともしない。さらに、
  ちぢこまって身をひるがえすと、斗マス(約2リットル)の中に身
  を隠してしまう。鐘磬(しょうけい)が一斉に鳴りだすと、散楽は終
  了し、出演者は魚龍のさまを形づくって殿庭に広がっている。小黄
  門が三度笛を吹き鳴らすと、謁者が公卿・群臣を先導し、順次拝礼
  を行いながら、下級官僚を先頭に、高級官僚をしんがりにして、小
  道から退出する。
  (渡辺氏の意訳)

空海や最澄を乗せた遣唐使の船が唐をめざして出発したのは、桓武(かんむ)天皇の延暦23年(804年)の年で藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を大使とする。一行は11月3日に福州を出発し、4千2百キロの行程を昼夜兼行で歩いて、12月21日に長安に到着した。最速の馬でも百日余りを費やすのが常識とされるのに、49日間の驚異的な速度で走破し、ともあれ長安に入城したのは、正月元旦に開かれる元会儀礼に参加するためであった。この驚嘆すべき強行軍によって、日本国朝貢使が元会儀礼に参加することの意味はきわめて大きい。元日に先立つ12月24日、藤原大使は供物を託して皇帝に進上し、皇帝からの懇ろな挨拶を伝達されている。大使一行は内殿で目通りを果たした。日本国朝貢使に対する王朝の待遇はかなりのものであった。

こうして正月元旦、大使一行は元会儀礼に首尾よく参加した。含元殿は高さ十数メートルの龍首原上に位置し、数千人の参列者が居並ぶ殿庭へは、長さ95メートルにおよぶ龍尾道が通じていた。元会の参列者が玉座を仰ぎ見るに、天空の彼方(かなた)にあるがごとくであったと伝えられる。大使一行が玉座にある皇帝の姿を己が目で確かめえたかどうかさえ、心もとない。渡辺氏の叙述にしたがい、はるかわが遣唐使が訪ねていった中国皇帝の儀式のシーンが、はじめて目の前に浮かぶように思い描かれる。

『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』にも、小国が大国からの侵略を免れるのは、使者を遣わせて礼物を献上するからであり、小国の君主が大国に出向いて報告を行うからであると書かれている。大国のほうも威儀を正し美辞によってこれをほめたたえ、礼物の加増を行う。誅伐されて後、礼物を進上したとて取り返しはつかない、という言葉が述べられているとおり、いわゆる中華秩序のなかの朝貢外交のありさまが今に伝えられている。
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