電脳筆写『 心超臨界 』

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( ショーペンハウエル )

日本史 鎌倉編 《 後嵯峨天皇の私情から発した南北朝――渡部昇一 》

2024-05-15 | 04-歴史・文化・社会
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後嵯峨上皇はどうしても第二皇子のほうを皇位に即(つ)けたいという意志が強く、正嘉(しょうか)2年(1258)に、第一皇子の後深草天皇が結婚されてまだ子どもができないうちに、第二皇子の恒仁親王を皇太弟とし、また第二皇子を第一皇子の養子ということにしてしまわれたのである。そして第一皇子の後深草天皇が病気になると、これを上皇として、第二皇子を天皇の位にお即けになった。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p83 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(1) 私情に基づく「皇統」の分裂

◆後嵯峨(ごさが)天皇の私情から発した南北朝

ところが皇位争いが思わぬ形で鎌倉時代に起こり、これが、わが国の南北朝時代のはじまりになった。

後継者の選び方のルールがはっきりしていないと、かならず乱が起こることは、幕府の下で皇位が多分に形式的になった時代においてもそうであった。それは、まったく後嵯峨天皇の私情から起こったことである。

後嵯峨天皇は「承久(じょうきゅう)の変」のあとに、北条泰時(やすとき)がクジで決めたといわれる天皇である。幕府を倒そうとした承久3年の宮廷の計画にも最も消極的であった土御門(つちみかど)上皇の皇子であった、というのが本当の理由であったろう。

この後嵯峨天皇が、まだ皇位後継者に決まっていなかったころに、四条院(しじょういん)の女房であった兵衛内侍(ひょうえのないし)こと、平棟子(たいらのむねこ)にお産ませになった皇子が宗尊(むねたか)親王で、この方が六代将軍に迎えられ、最初の親王将軍になったのであるから、幕府との関係は良好であったと考えられる。

ところが、この後嵯峨天皇の后(きさき)である西園寺姞子(さいおんじきつし)(大宮院(おおみやいん)。西園寺実氏(さねうじ)の長女)から生まれた二人の皇子に対する天皇の愛情が同じでなかったところから問題は起こった。

つまり第一皇子のほうの久仁(ひさひと)親王(後深草(ごふかくさ)天皇)が、当然のこととして皇位を譲(ゆず)り受けることになったが、皇室財産である所領の多くは第二皇子の恒仁(つねひと)親王(亀山(かめやま)天皇)に譲ろうとなさったのである。その理由はと言えば、後嵯峨天皇が弟のほうを特に愛して、すんなりと長子にすべてを継承させたくなかったという理由かららしい。簡単に言えば皇位に対して私情を差しはさまれたのであった。

このようなことは、すぐに天下の乱れに連なる性質のものであるが、当時の執権は、北条時頼(ときより)であって、幕府の勢威が隆々としていたし、また、皇位が第一皇子の後深草天皇に移っても、実際には、後嵯峨上皇の院政であるから、宮廷内の亀裂がすぐに表面化することはなかった。

しかし後嵯峨上皇はどうしても第二皇子のほうを皇位に即(つ)けたいという意志が強く、正嘉(しょうか)2年(1258)に、第一皇子の後深草天皇が結婚されてまだ子どもができないうちに、第二皇子の恒仁親王を皇太弟とし、また第二皇子を第一皇子の養子ということにしてしまわれたのである。

そして第一皇子の後深草天皇が病気になると、これを上皇として、第二皇子を天皇の位にお即けになった。このとき、上皇になった第一皇子は17歳、新しく亀山天皇として即位された第二皇子はたった11歳であった。そして、この少年上皇と少年天皇の実父の後嵯峨上皇が宮廷の実権者であって、いわゆる院政をしいていた。

つまり上皇が二人いて、実父が実権ある上皇、第一皇子が実権なき上皇、第二皇子が実権なき天皇ということになる。

たった17歳で上皇にさせられて、弟に皇位を譲らざるをえなくなった後深草上皇にも、まだ一つの希望が残されていた。それは父の後嵯峨上皇が崩御されたら、自分が実権ある上皇として親政しうるであろうということである。

文永(ぶんえい)9年(1272)の2月に後嵯峨上皇が崩御されたが、そのとき遺言状が遺されていた。ただしこれは七七日忌(なななのかき)に開くように、という条件が付いていた。その遺言状が4月に開かれると、財産分与のことは明記されていたが、誰が宮廷の実権者になるかについては、幕府の推薦にまかせる、としてあった。

後嵯峨上皇にしてみれば、ご自分が皇位に即いたのは、幕府の推薦によったのであるから、次の宮廷の実権者も幕府の推薦にまかせるということだったのである。

さて、迷惑したのは幕府である。執権北条時宗(ときむね)は元の来襲に備えるため全力を注いでいるときであったから、かならず将来の紛争の種になるようなことに手を出したくなかった。

それで、そういう遺言を遺された後嵯峨上皇の本当の希望はどこにあったかを、皇后であった西園寺姞子(大宮院)に問い合わせた。この方は後深草・亀山両皇のご生母であるから、彼女から真相を尋ねるのが当然と思われたのであろう。

大宮院の返答は、「亡き後嵯峨上皇は、亀山天皇の親政を望まれていた」ということであったので、幕府はその返答どおりに、亀山天皇親政ということにして、皇太子にも亀山天皇の皇子を立てた。かくして皇統は嫡流(ちゃくりゅう)を離れてしまうことになったのである。

父の後嵯峨上皇が亡くなられたら、と思って自分の出番を待っていた後深草上皇は、その院政の望みを断たれたばかりか、自分の子どもにも皇位は行かず、弟の子どもが皇位継承者に決定されたのだから、憤懣やるかたなかった。

もちろん、後深草上皇に仕えていた公家たちも心外千万の思いであった。これは後深草上皇周囲の人ばかりでなく、当時の人たちもみんな意外としたらしい。
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