電脳筆写『 心超臨界 』

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( マルクス・トゥッリウス・キケロ )

読む年表 古代~中世 《 足利義満の急死――渡部昇一 》

2024-05-15 | 04-歴史・文化・社会
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武家の棟梁である義満が、公家を徹底的にこき使い出したことこそ、その性格のうえで鎌倉幕府と足利幕府に一線を画する大事件であった。公家とは天皇に奉仕する存在であって、天皇以外の権力者に仕えるという事態になれば、その権力者はすでに単なる権力者ではなく、皇位を窺(うかが)う者なのである。平清盛が熱病で死んだのも天罰であると言われたくらいであるが、その清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては、「天佑神助」(天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。


◆足利義満の急死

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p92 )

1408(応永15年)
足利義満の急死
息子を皇位につけるという前代未聞の企ては「天佑神助(てんゆう
しんじょ)」によって阻まれた

足利義満は康暦(こうりゃく)元年(1379)、北小路室町に「花の御所」と呼ばれる優雅な御殿を造った。これ以降の足利幕府は、その地名から「室町幕府」と呼ばれるようになる。

室町幕府においては公家と幕府の差は曖昧になった。というのは義満自身が征夷大将軍という武家の位に甘んじることなく、宮廷での出世を望んだからである。彼は武家の棟梁であると同時に公家の支配者にもなろうと考えた。南朝の残党を神社仏閣詣でと莫大な寄附で味方につけたのとは対照的に、公家に対しては、義満は高圧的な態度で臨んだ。身分も気位も高いが、武力のない公家は義満を恐れること鼠が猫を恐れるが如くであった。

さらに義満は自分の子を天皇にして、自らは太上(だいじょう)天皇になろうという野心を抱いた。

まず、後小松天皇の生母が思い病気にかかり、命があやぶまれたときに、その代わりとして自分の妻を天皇の母、つまり「准母(じゅんぼ)」(「国母(こくぼ)」の代わり)にした。義満自身は「天皇の母の夫」ということになり、それはとりもなおさず太上天皇ということになる。そして、義満はついに一線を越え、溺愛する容姿端麗な息子義嗣(よしつぐ)を天皇にしようとした。

義嗣は天皇の御猶子(ごゆうし)、つまり養子になり、以後「若宮(わかみや)」(幼少の皇子)と呼ばれるのである。天皇の養子であるから、当然、後小松天皇の後に義嗣が即位してもおかしくなかった。それを止める力は皇室にも公家にも武士にもなかったのである。

ところが、ここで不思議なことが起こった。義嗣が親王と同様の儀式を行って元服した翌々日、義満が急に咳き込み、発病したのである。

義嗣の元服式が4月25日、義満の発病が同27日。5月3日にいったん持ち直したが、2、3日後に病状が急変し、5月6日に亡くなった。年は51歳。それほどの高齢ではない。自分の息子を天皇の養子に定めるという、日本人としては頂点まで登りつめた栄華から、わずか十日後に義満は急死した。これは偶然かもしれないが、いずれにしろ義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

武家の棟梁である義満が、公家を徹底的にこき使い出したことこそ、その性格のうえで鎌倉幕府と足利幕府に一線を画する大事件であった。公家とは天皇に奉仕する存在であって、天皇以外の権力者に仕えるという事態になれば、その権力者はすでに単なる権力者ではなく、皇位を窺(うかが)う者なのである。平清盛が熱病で死んだのも天罰であると言われたくらいであるが、その清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては、「天佑神助」(天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。
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