西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

花魁

2009-02-11 | よもやま話 (c)yuri saionji
吉原の花魁は六三郎が生まれる20年以上も前に絶滅。
最後の一軒だった揚屋、尾張屋も姿を消した。

紀伊国屋文左衛門や、奈良屋茂左衛門の2世もすでにみまかり、
吉原を総仕舞(貸し切り)して大尽遊びをするような
大豪商はいない。

何しろ揚屋で太夫と遊ぶには、かなりめんどうな手続きと
複雑怪奇な作法を踏まねばならなかった。
これが遊びの文化といえば文化だが、一事が万事に金がかかる。
「金の無い奴は近寄るべからず」というのが大尽遊びの鉄則だが、
いかに湯水のごとく金を使うか、というのが大尽の身上でもあった。

時代の流れで大豪商が消え、太夫、格子(二番手の遊女)が消えると、
三番手の散茶(さんちゃ)が高級遊女に繰り上がり、
花魁の称が生まれた。
つまり、花魁は散茶の雅称ということになる。

かくして全体のグレードは下がったが、
吉原のシステムはリニューアルされて再起動。
揚屋に代わる引手茶屋が出現し、散茶のランクが三分割された。

引手茶屋に出向くのは呼出し、昼三(ちょうど、太夫と格子の関係)のみで
三番手の附回しは直接遊女屋の二階の自室で客を待つ。

引手茶屋で遊ぶ客は、花魁や取り巻きとひとしき騒いだ後、
遊女屋に出向き、花魁の部屋でお茂りとなる。
帰りは再び引手茶屋に寄り、粥などをすすり、
支払いを済ませて帰路につく。

散茶が自室で客と遊ぶようになったことで、
遊女屋が引手茶屋と同じく、酒や料理も出す妓楼になった。
仲の町の両側には数百件の引手茶屋がひしめき、
横通りに入ると、これまた、数百件の遊女屋が軒を連ねる。
その全部が酒肴を供する宴席となるのだから、
お座敷の数たるや夥しい。

幇間は引く手あまたとなり、
芸のできる新造がにわかに脚光を浴び始めた。
そこに目を付けたのが、扇屋の花扇。
花扇は新造に見切りを付け、芸者商売を始めて大当たり。
次々と新造が芸者に鞍替えすることになるのも
しごく当然のことといえる。

常磐津文字太夫との競争に疲れた、鶴賀若狭掾や、
富士田吉治と競った荻江露友などが
芝居に見切りをつけ、吉原の座敷芸に再起をかけたのも
こういう時代のニーズがあったからだ。