西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

鏡獅子―48

2009-06-13 | 役者 (c)yuri saionji
9代目市川団十郎


歌舞伎座専属の劇作家は、東京日日新聞の主筆をやめ、
歌舞伎座との一蓮托生を決めた、福地桜痴。

市川団十郎も志に燃える。
この頃、50代半ば。

それから数年後のある日、団十郎は娘の「枕獅子」の稽古を見ていて閃いた。

「枕獅子」は初代菊之丞が踊った、傾城姿の女形の所作だが、
改良劇としては、遊女はだめ。
だが、能形式に「静と知盛」のように仕立てなおせば、
面白いものができる、と直感した。

前ジテは大奥の女小姓にし、後ジテは「蓮獅子」
( 勝三郎・1861年。正治郎・1872年)のように、
雄々しくして、前ジテとのコントラストの妙を狙う。

団十郎は早速福桜痴に相談した。
桜痴は、【正月、鏡開きの飾り物の獅子頭に宿る、
獅子の精が、小性に乗り移り、。後ジテで獅子に変身する】
という、筋書きを完成させた。
それが「鏡獅子」だ。


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tea breaku・海中百景

photo by 和尚


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鏡獅子―47

2009-06-12 | 役者 (c)yuri saionji
9代目市川団十郎


演劇改良会は発足翌年に、井上馨邸で天皇・皇后・内外高官などを招いて
展覧劇を開催した。

呼ばれたのはもちろん市川団十郎ほか、歌舞伎界の重鎮。
地方(伴奏)も杵屋正治郎(この頃から、次を治に変更)始め、大勢駆り出された。

ところが井上邸の仮設舞台は通常の半分くのらいの間口しか無く、
花道も短い。
後見も使えないし、ツケ打ちもいない。
台本も大幅に添削され、動きやキッカケが全くちがう。
団十郎は4日間の公演でストレスから体重が6キロも落ちたという。

お上の言う事には逆らえない時代だ、さぞ不快な思いをした事だろう。

しかし、演劇改良会は、
その後日本演芸矯風会→日本演芸協会と組織を変えながら、
改良劇専用の劇場、歌舞伎座設立にと結実した。


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tea breaku・海中百景
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鏡獅子―46

2009-06-11 | 役者 (c)yuri saionji
9代目市川団十郎

明治新政府の改革は種々に渡り、日本文化にまで及んだ。
新政府の要人はほとんどが地方の藩士出身者で、
江戸の歌舞伎の何たるやも知らないくせに、
演劇改良会なるものを発足させた。

時の内閣総理大臣伊藤博文(萩の松下村塾生)の娘婿、
末松謙澄(文学者)が発起人となり、
文部大臣の外山正一、財界の大御所渋沢栄一等を後援者に据えた。

エロ、グロ、ナンセンスな表現はダメ、
女形、黒子、義太夫のチョボ(歌舞伎における竹本の伴奏)は廃止、
女形の代わりに、女優を使い写実に徹すべしと、
歌舞伎の本質も知らずに的外れな事をいう。

外山は英米留学で学問を修めたインテリだが、
漢字などはやめて、ローマ字を使うべしなどという、
西洋かぶれの文化音痴。

団十郎は歌舞伎界の重鎮として、
守田勘弥(12代目)、尾上菊五郎(5代目)等とともに、
この会に呼ばれて(1886年)、意見を聞かれている。

そして、劇作家の坪内逍遥や、作家の森鴎外、歌人の伊藤左千夫等により
新聞紙上での演劇改良論戦が始まる。


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鏡獅子―45

2009-06-10 | 役者 (c)yuri saionji
9代目市川団十郎


市川家の名跡を背負った団十郎は俄然、歌舞伎の革新運動に燃える。
従来の支離滅裂、ないまぜ的な歌舞伎では、これからの時代に受け入れられない。
何しろ、団十郎は養父の母つねに厳ししつけられ、
一般教養を身につけた、平行感覚のノーマルな人間に育った。

例えば「勧進帳」にしても、8代目の演出をさらに改良し、
四天王や、士卒の衣装を限りなくお手本とした能に近づけた。
”滝流しの合方”を正次郎(3世)に作らせたのも、この頃で、
「勧進帳」を現在の形に完成させたのも、9代目だ。

義弟、権之助(8代目)が、芝に新設した河原崎座で、
団十郎の演劇実験は続く。

時代は激動の明治初期、
江戸歌舞伎の祖として君臨してきた中村座が、
経営不振と近代化の浪に流されて、
250年の歴史に幕を下ろしたのも(1875年)この頃だ。


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鏡獅子―44

2009-06-09 | 役者 (c)yuri saionji
9代目市川団十郎


六左衛門の「石橋」からさらに63年後、
9代目市川団十郎の依頼によって「鏡獅子」が誕生する。
9代目団十郎は、7代目の5男で、妾おためが生んだ子だ。
生まれてすぐに河原崎権之助の養子となった(1838年)。
それも、独身だった権之助(6代目)が、森田座の控櫓を上げた祝いに
やったというのだから、7代目の神経も太い。
赤ん坊をもらった権之助もさぞかし困惑した事だろう。

権之助にもらわれた団十郎は、河原崎権十郎と改名。
長じて7代目権之助と改め、
河原崎座の跡継ぎとして、将来を嘱望されていた。
ところが、権之助31才の時に、養父が強盗に殺された。
後ろ盾をなくした権之助への風当たりは強く、
今までちやほや育てられて、青瓢箪の異名を持つ権之助は大ピンチ。
孤立無縁で歌舞伎の世界にしがみついていた。

そんなある日、旧土佐藩主の山内容堂が猿若町に
芝居見物に出かけた。
別に何を見てもよさそうなものだが、
なぜか、河原崎権之助の「勧進帳」の絵看板に心が引かれ、
守田座(1856年から守田座と改名)の木戸を潜った。

これが団十郎の運命の分かれ道となる。
容堂はすぐさま権之助のパトロンになり、
所蔵の能衣装を下賜した。
というのも、権之助の衣装があまりにも
みすぼらしかったのだ。

その後、容堂の助言により、権之助は
義弟に権之助の名前を譲り、9代目団十郎の名跡を継ぐ(1874年)。


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