西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

市川団十郎(8代目)

2009-02-28 | 役者 (c)yuri saionji
「あばよ」と、大阪へ旅立った海老蔵(7代目団十郎)はよいが、残された団十郎は大変だ。
またしても父の借金を返しながら、
母と3人の妾、それと何人もいる異母弟や異母妹を食わさなければいけない
(海老蔵には7男5女もの子がいるのだ)。
人気はすごいが、生活もすごい。火の車だ。

そんな団十郎のもとに大阪の海老蔵から手紙がきた。
「300両(約1800万円)の借金が返せなくて困っている、何とか頼む」
という呑気な内容。
団十郎は河原崎座の座元に頼み込んで、金を工面、大阪に届けた。

ところが団十郎に無断で、妾のおためが中の芝居への出演を決めていた。
父の最愛の妾の仕打ちを告げ口すれば、父に恥をかかせることになる。

さりとて河原崎座の契約は残っている。
金を用立ててくれた座元を裏切るわけにはいかない。

あちらを立てれば、こちらがた立たず、
忠、孝、義、の板挟みに悩み抜いた団十郎は、
何と腹を切って自殺してしまった(1854年)。
まだ32才という若さだ。

すぐさま死に絵が刷られた。それも300種類以上。
それがあっという間に完売御免というのだから、
いかに8代目団十郎の人気がすごかったか、
それにしても運命とは残酷なものだ。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

勧進帳・4

2009-02-27 | よもやま話 (c)yuri saionji
団十郎(7代目)の江戸所払いが許されたのは6年後のことだ。
そしてまさに8代目が「勧進帳」を再演した翌年(1850)の春、
団十郎は江戸に戻った。

親の留守中に8代目はとんでもない人気者になっていたのだが、
そのことを知らない団十郎は、芝まで出迎えにきた8代目に、
「おれの人気もまんざらではないわい」
と、すっかりご満悦。
実は8代目を一目見ようと、辺りには黒山の人だかりができていたのだ。

江戸に戻った団十郎はもう60才になっていた。
そのせいか、本妻(8代目の母)と3人の妾(うち一人を連れて大阪に行っていた)
との久しぶりの同居にくたびれはて、芝居への意欲も失せていった。

「そろそろ引退か…」
そう決断した団十郎は頭を丸め、
”一世一代”の演目に、あの燃えに燃えて作った「勧進帳」を選んだ。

地方は何が何でも六三郎だ。
ということで、六翁として隠居していた六三郎(4世・もう73才だ)が呼び出され、
初演時にコンビを組んだ、岡安喜代八(こちらは61才)も引っぱりだされた。

もう一組のコンビは、
本当なら初演時と同じく、息子六三郎(5世)にしたいところだったのだろうが、
残念ながら、2年前に死んでしまった。
そこで杵屋勝五郎(2世・杵勝派の始祖)と富士田音蔵(2世・新蔵3世→)の出番となった。

こちらも初演にこだわるのなら、音蔵ではなく芳村伊十郎(3世)といきたいところだが、
伊十郎は杵屋六左衛門(10世)の口利きで、吉住小三郎の2世を継いだ。
ゆえに六左衛門と団十郎の関係上、遠慮させていただいたのかもしれない。

何はともあれ、海老蔵・団十郎の揃った久しぶりの上演となるこの「勧進帳」(1852年・河原崎座)は、
再演時のに、さらに改良が加えられたのだろう、古今無双の大当たりを取った。

初演以来3度目となる「勧進帳」を勤め上げた海老蔵は、
煩わしい女どもを江戸に残し、
惚れた芸者の待つ大阪に旅立った。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

勧進帳・3

2009-02-26 | よもやま話 (c)yuri saionji
団十郎(7代目)は「歌舞伎十八番」を制定したとき(1832年)、
10才だった長男新之助に八代目を譲り、自分は海老蔵(5代目)と改名した。
だから「勧進帳」を演った時は海老蔵の名で弁慶を務めた。
八代目は義経役で出演していた。

七代目が凝りに凝った「勧進帳」だったが、客の受けはあまり芳しくなかった。
娯楽性に欠けるというか、あまりに能に近づけたため抹香臭く、
「どうだ!」という意識が見えすぎたようだ。
この時代、江戸の庶民は歌舞伎にあまり高尚さを求めてはいなかったのだろう。

勧進帳物の最初は、初代団十郎の『星合十二段』の「安宅の関」。

その後は、市村羽左衛門(9代目)の「隈取安宅の松」(1769年11月・市村座)。
これは、奥州に逃れる義経の一行が、加賀の国安宅に新関が設けられたことを知り、
弁慶が先回りをして、村の子供たちに関の様子や、奥州への抜け道を教えてもらい、
天狗風を起こして飛び去るという、ちょっとファンタジックな仕上げのもの
(これを作曲したのが富士田吉治。1月25日に吉治の記載あり)。

そもそも弁慶は、牛若丸に剣道を教えた鞍馬山の大天狗、
僧正坊の化身として演出されてきた。
だからイメージとしては、少々滑稽味を持つ、超人弁慶だ。
「安宅の松」は隈取りと冠しているように、荒事特有の隈取りを取り、
初代が初舞台で演った、全身朱塗り、紅と黒の隈取りを取った坂田金時に近い。

その後は、「御摂勧進帳」(ごひいきかんじんちょう・1773年中村座)。
これは団十郎(4代目・この時は海老蔵3代目)の弁慶に、息子5代目団十郎の冨樫。
やはり「安宅の松」の弁慶を踏襲し、隈取りを取った弁慶が、頼朝方の軍兵と立ち回りの末、
彼らの首を引き抜いて天水桶に入れてかき回すという趣向。
首を洗う様が、まるで芋を洗うようだったことから「芋荒勧進帳」と囃されて大当たり。

この弁慶も、まだ隈取りを取った超人弁慶だ。

7代目の「勧進帳」で始めて弁慶は、荒事特有の隈取りをやめ、
滑稽味を取った、超真面目なキャラクターに変身した。
これが客に受けなかった原因の一つでもあっただろう。

そこで8代目が「勧進帳」を再演することになった時、大筋では7代目の演出を踏襲するが、
より客の涙を絞るために、弁慶や冨樫のイメージをぐっと変えた。

冨樫は山伏一行が義経主従だと見破るが、
弁慶の、義経を守ろうとするあまりの気迫に打たれ、見逃してやる。
それはつまりは冨樫の死を意味するのだが、冨樫は自分の命と引き換えにしてまで、
頼朝の不条理な仕打ちに絶える、義経一行を助けてやるのだ。

関所を通り過ぎた一行を見送る冨樫、万感の思いは腹芸で見せる。
静かな山間に逃れ着いた義経一行に、先般の無礼を詫びにきた冨樫は、
「お詫びの一献」、といって酒を勧める。
これは一行の出立のはなむけの酒でもあり、冨樫の末期の酒でもある。
そのことを痛いほど分かっていて、弁慶は大杯になみなみと注がれた酒を、飲み干す。

その酒の呑み方に、弁慶の冨樫に対する感謝の念や、
主、義経を救った安堵の念、
この先の運命に対する恐れの念など、
すべてを台詞のない、仕草のみの腹芸でみせる。

こうした、誰にでも分かる面白くて泣ける演出を盛り込んだ
「勧進帳」は大当たり。団十郎の思惑どおり、客は泣きに泣いた。

「勧進帳」再演のこの舞台(1847年・河原崎座)に7代目は出ていない。
水野忠邦の奢侈禁止令に触れた科で、団十郎は江戸十里四方追放となり(1842年)、大阪に逃れたからだ。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

勧進帳・2

2009-02-25 | よもやま話 (c)yuri saionji
団十郎(7代目)が六三郎(4世)に作曲させた「勧進帳」の演奏をめぐって問題がおきた。
団十郎は何が何でも作曲者に演奏をしてもらいたい。
だが、六三郎はこの年、岡安喜代八(唄方)と一緒に市村座だ。
団十郎のいる河原崎座は、芳村伊十郎(3世・唄方)と杵屋長次郎(2世)。

そこで団十郎は「勧進帳」一番だけ、六三郎と喜代八を別雇いすることで
市村座と話をつけた。

本来なら別雇いした二人に演らせれば、何の問題もないのだが、
伊十郎と長次郎を無視すると河原崎座のメンツが立たない。
さあ、どうする、

長次郎は六三郎の息子だからどうにかなるとして、
伊十郎が喜代八のワキはいやだと難色を示した。
両人は富士田新蔵(3世)とともに、天保の三名人と謳われているのだから、
さもありなん。

あちらも立てて、こちらも立てる…
色々と考えた末、”両ダテ”というアイディアが出た。

伊十郎と長次郎、喜代八と六三郎の二組が役割分担をしてタテをとる。
これならどちらのメンツも立つ。

舞台装置は能舞台をことごとく真似た。
正面には松を描いた羽目板(これを松羽目という)、
上手には竹の羽目板に、切戸を設け、
下手には五色の揚げ幕、という具合。

囃子連中も本行を模して、床几に腰掛けてずらりと並ぶ。

これ以後は能を題材にした狂言がこの舞台装置を真似るようになり、
そのような作品を「松羽目物」というジャンルでくくるようになる。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

長唄協会春期演奏会

2009-02-24 | 仕事関係
今日は長唄協会の日でした。
まずは4時頃「松の翁」、
唄、今藤文子、郁子、杵屋秀子。三味線、今藤長十郎、長由利、杵屋三澄。
回り舞台なので、前のが演奏中に後ろの舞台でスタンバイします。
少し時間的に余裕がありましたので、並びを見て下さる、稀音家六四郎さんと3ショットです。
左から、六四郎氏、長十郎家元、そして私です。



そして8時頃、協会名物女流合同演奏「俄獅子」。
幕が開くと「うわー!」の歓声、これに結構のせられてやる気が満々とみなぎるのです。
総勢162人です。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加