西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

勧進帳・3

2009-02-26 | よもやま話 (c)yuri saionji
団十郎(7代目)は「歌舞伎十八番」を制定したとき(1832年)、
10才だった長男新之助に八代目を譲り、自分は海老蔵(5代目)と改名した。
だから「勧進帳」を演った時は海老蔵の名で弁慶を務めた。
八代目は義経役で出演していた。

七代目が凝りに凝った「勧進帳」だったが、客の受けはあまり芳しくなかった。
娯楽性に欠けるというか、あまりに能に近づけたため抹香臭く、
「どうだ!」という意識が見えすぎたようだ。
この時代、江戸の庶民は歌舞伎にあまり高尚さを求めてはいなかったのだろう。

勧進帳物の最初は、初代団十郎の『星合十二段』の「安宅の関」。

その後は、市村羽左衛門(9代目)の「隈取安宅の松」(1769年11月・市村座)。
これは、奥州に逃れる義経の一行が、加賀の国安宅に新関が設けられたことを知り、
弁慶が先回りをして、村の子供たちに関の様子や、奥州への抜け道を教えてもらい、
天狗風を起こして飛び去るという、ちょっとファンタジックな仕上げのもの
(これを作曲したのが富士田吉治。1月25日に吉治の記載あり)。

そもそも弁慶は、牛若丸に剣道を教えた鞍馬山の大天狗、
僧正坊の化身として演出されてきた。
だからイメージとしては、少々滑稽味を持つ、超人弁慶だ。
「安宅の松」は隈取りと冠しているように、荒事特有の隈取りを取り、
初代が初舞台で演った、全身朱塗り、紅と黒の隈取りを取った坂田金時に近い。

その後は、「御摂勧進帳」(ごひいきかんじんちょう・1773年中村座)。
これは団十郎(4代目・この時は海老蔵3代目)の弁慶に、息子5代目団十郎の冨樫。
やはり「安宅の松」の弁慶を踏襲し、隈取りを取った弁慶が、頼朝方の軍兵と立ち回りの末、
彼らの首を引き抜いて天水桶に入れてかき回すという趣向。
首を洗う様が、まるで芋を洗うようだったことから「芋荒勧進帳」と囃されて大当たり。

この弁慶も、まだ隈取りを取った超人弁慶だ。

7代目の「勧進帳」で始めて弁慶は、荒事特有の隈取りをやめ、
滑稽味を取った、超真面目なキャラクターに変身した。
これが客に受けなかった原因の一つでもあっただろう。

そこで8代目が「勧進帳」を再演することになった時、大筋では7代目の演出を踏襲するが、
より客の涙を絞るために、弁慶や冨樫のイメージをぐっと変えた。

冨樫は山伏一行が義経主従だと見破るが、
弁慶の、義経を守ろうとするあまりの気迫に打たれ、見逃してやる。
それはつまりは冨樫の死を意味するのだが、冨樫は自分の命と引き換えにしてまで、
頼朝の不条理な仕打ちに絶える、義経一行を助けてやるのだ。

関所を通り過ぎた一行を見送る冨樫、万感の思いは腹芸で見せる。
静かな山間に逃れ着いた義経一行に、先般の無礼を詫びにきた冨樫は、
「お詫びの一献」、といって酒を勧める。
これは一行の出立のはなむけの酒でもあり、冨樫の末期の酒でもある。
そのことを痛いほど分かっていて、弁慶は大杯になみなみと注がれた酒を、飲み干す。

その酒の呑み方に、弁慶の冨樫に対する感謝の念や、
主、義経を救った安堵の念、
この先の運命に対する恐れの念など、
すべてを台詞のない、仕草のみの腹芸でみせる。

こうした、誰にでも分かる面白くて泣ける演出を盛り込んだ
「勧進帳」は大当たり。団十郎の思惑どおり、客は泣きに泣いた。

「勧進帳」再演のこの舞台(1847年・河原崎座)に7代目は出ていない。
水野忠邦の奢侈禁止令に触れた科で、団十郎は江戸十里四方追放となり(1842年)、大阪に逃れたからだ。




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