西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

原武太夫の教訓―10

2013-01-31 | 薄まる文化

武太夫の「奈良柴」からもう一首。

「芸の道 こまかにしらで つらの皮
 厚きを見れば 撥もあたらず」

いっぱしの顔をして三味線を弾いているが、
なんともおそまつな音を出していることよ。
芸を知らない奴にかぎって面の皮が厚いものだよ。
というような意味になるだろうか。

芸というものは知れば知るほど謙虚になるものだから、
無恥厚顔に皮を引っぱたいても三味線は鳴ってはくれない。

事実三味線になめられる、ということがある。
へたな奴は楽器が馬鹿にするのだ。
糸巻で手こずらせたり、
鳴ってくれなかったりする。

だから、不思議なことにどんなにいい三味線でも、
下手な人が弾くと全く鳴らない(われわれレベルでの尺度)し、
弾き手によっても音色は変わる。

楽器は自分と同レベルの奏者に共鳴するのだろう。

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tea break・海中百景
photo by 和尚
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原武太夫の教訓―9

2013-01-29 | 薄まる文化

武太夫は三味線の名手だったが、
武太夫が現役の頃はまだ長唄というものが確立していないので、
それは河東や一中、半太夫節などの浄瑠璃の三味線だろう。

「奈良柴」が書かれた頃は豊後三派が創設されたばかりで、
歌舞伎界は相当混乱していたと思われる。

「今の世は へたも上手も わかりなし 
 ひいきな者は みな上手なり」

この狂歌などは、まさにそれを揶揄しているようで面白い。

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tea break・海中百景
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原武太夫の教訓―8

2013-01-26 | 薄まる文化

武太夫は70歳の頃、
芸論集(厳密には覚え書き・市村羽左衛門に望まれて、
後世の役に立つのならと筆を取ったとある。奥書に1767・明和4年の日付あり。)
「奈良柴」を書いている。

その中に地方(じかた・唄・三味線奏者)に対して辛辣な狂歌を残している。

「上手 下手(じょうずへた)わがたけ程に ききわくる
 下手多きゆへ わくる人なし」

じょうずかへたかは自分の尺度でしか量れないものだ。
しかし実際はへたが多いのだから、本当の芸の分かる者はいない。
というような意味だろうか。

この時代は長唄を流行らせた、坂田兵四郎も松島庄五郎も死に、
一中節から長唄に転向した富士田吉治が、
三味線の錦屋惣治と組んで活躍をし始めた頃だ。


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tea break・海中百景
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原武太夫の教訓ー7

2013-01-24 | 薄まる文化

三味線が流行り出してから、すでに400年以上経つというのに、
当初のDNAは強力な支配力を持つようだ。

もっとも本当の意味での三味線を弾こうと思えば、
楽譜などを見ていては駄目だ。

手を覚える、つまり暗譜というのは、とりあえず材料を揃えました、の段階。
どの材料をどう調理して、どんな味付けをするか、
相手の嗜好にいかに合わせるか、
すべてはここから始まる。

しかし、暗譜をするということは相当に時間と労力を要するものだから
初期の段階では、暗譜ができれば完成だと思いがちだ。

だが、唄うたいと丁々発止やりあうのには、
曲が血となり、肉となって消化されるまで浚いこまなければ無理なのだ。

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tea break・海中百景
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原武太夫の教訓-6

2013-01-21 | 薄まる文化

先の武太夫の教訓、
「三味線弾きがよく覚えて弾くことは、悪いことではないが
太夫の語る浄瑠璃の息を無視して、自分の拍子で弾くのはよくない」

というのは今の時代にも依然として輝きを放つ教訓だ。

確かに楽譜の完備された今日でも、三味線弾きは「暗譜で演奏」が普通。
なぜか。
そもそも「日本の三味線」を弾き始めたのは、特権的演奏集団、
当道織屋敷の人間だ。
当道は盲人の組織だから、暗譜以外に道はない。

晴眼者の三味線弾きが増え、晴眼者のプロがほとんどとなった
今日ですら、その演奏形態が変わることはない。

師匠の稽古でも暗譜、口伝派が多数を占める。

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tea break
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