西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

みやこ風流

2010-05-31 | 長唄の歌詞を遊ぶ (c) y.saionji
87-「みやこ風流」その2

1617(元和3年)年、日本橋葺屋町(ふきやちょう)に
傾城町葦原(よしわら)が開基された時から、
終業は四つ(午後10時)と決まっていた。

1656(明暦2)年に浅草日本堤に強制移転されてからは
2時間延長され、九つ(12時)となった。
だが、終業を知らせる”引け四つ”の名称はそのまま引き継がれ、
浅草寺の鐘が九つを打つと、吉原(葦の字を吉に変えた)では
引け四つの拍子木を打った。

本当の時間は12時なのに、吉原時間は10時なのだ。

『引けは九つ なぜそれを
 四つというたか 吉原は
 拍子木までが 嘘をつく
 さのえ』

手練手管、嘘で固めた吉原では遊女だけでなく、拍子木までもが嘘をつくのか、
やれやれ…

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tea breaku・海中百景
photo by 和尚
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みやこ風流

2010-05-30 | 長唄の歌詞を遊ぶ (c) y.saionji
86-「みやこ風流」(1947・昭和22年)その1


この曲は、昭和にしては珍しく、江戸情緒にあふれている。
浅草に生まれ、浅草を愛してやまず、芥川龍之介をして
「江戸っ児たる風采と、江戸っ児たる気質をそなえた、江戸っ児の中の江戸っ児」
と言わしめた、久保田万太郎の作詞だから、さもありなん。

長唄研精会の400回記念に書かれた。
万太郎はこの年、芸術院会員になったばかりの、劇作家・小説家・俳人だ。

『千成市の昼の雨
 草市照らす宵の月
 柳の影に虫売りの
 市松障子露暗き
 露の声々聞き分けて
 鐘をたたくは鐘叩き
 更けては秋に通ふ風』

●ほおずき市の昼の雨、草の市を照らす月明かり、
 柳の下に虫売りの、市松障子の屋台がおぼろにうかぶ。
 虫たちのかすかな声、ちんちん鳴くのは鐘叩き。
 夜更けはもう秋の気配だ。

浅草の7月の市を描いている。ほおずき市は10日、草市は12日。

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tea breaku・海中百景
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伊勢参宮

2010-05-29 | 長唄の歌詞を遊ぶ (c) y.saionji
85-「伊勢参宮」(1930・昭和5年)


昔から、伊勢まいりは日本人なら一生に一度はと、
誰もがあこがれる夢の旅だ。
その思いが積もりに積もり、お蔭参りという熱病が5、60周年で自然発生するという不思議がある。
これは抜け参りともいわれ、女子供や、下男下僕が
父母、雇い主に無断で旅立つというもの。
抜け参りに気づいても、止めてはいけないし、無事に帰還した者は
暖かく迎えなければいけない。

伊勢、間山には、お杉お玉のベンベラ三味線という名物があり、
島田髷に大振り袖を着た、お杉お玉が道ばたに小屋掛けをして
並んで座り、参詣客が通ると、着物の色や柄などに“さん”をつけて
呼びかけ、三味線を弾いて投げ銭をもらう。
それを撥で受けるのが愛嬌で、これもまた売り。


『歩みも軽ろし足引きの 
 山田と宇治の間の山
 お杉お玉が三味の音は
 ベンベラベンベラ チャンチャラチャン
 無性矢鱈に弾きたつる
 二文三文 五六文
 投うればちゃっと顔振り向け
 縞さん紺さん中乗りさん
 やてかんせ 投うらんせ
 頬冠(ほかむり)さん 焜襠(ぱっち)さん
 お江戸さん 上方さん
 神のお庭の朝清め
 するやささらの えいさらさ えいさらさ
 ソレ 殿中じゃ 張り臂じゃ
 やてかんせ投うらんせ
 踊る子供は手足振る』 

この曲は、伊勢神宮の式年遷宮を祝って歌人の佐佐木信綱が書いたもの。

 「殿中じゃ張臂じゃ やてかんせ 投うらんせ」とは、
 「殿中羽織を着てえらそうにそこ行く兄さん、銭やってチョー、銭投げてチョー」といった意味。

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tea breaku・海中百景
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玉菊

2010-05-28 | 長唄の歌詞を遊ぶ (c) y.saionji
84-「玉菊」(1927・昭和2年)


紀伊国屋文左衛門の2世と、吉原で大尽振りを競った人に
奈良屋茂左衛門(略して奈良茂)という、
やはり材木で富を築いた人物の2世がいる。

奈良茂の思い人は、中万字屋抱えの遊女玉菊。
玉菊は美人で気だてがよく、茶の湯、生け花、琴、俳諧なんでもござれの才女、
しかも河東節の三味線を弾かせたら天下一品ときている。

奈良茂は玉菊にぞっこんで、有り余る財産を可愛い玉菊につぎ込んでいた。
玉菊が絶世の太夫になれたのも、奈良茂の財力のお陰だ。
ところが、奈良茂が旅の帰途病気にかかり、あっけなく死んでしまった
(1725・享保10年9月)。
玉菊は悲しさのあまり病に臥し、何という事か、翌年の春にみまかった。
まだ25才の若さだ。

遊女屋葛蔦屋の主人で、河東節の重鎮でもある、十寸見蘭州は、
玉菊の三回忌に宴を持った。
その時の土産に「玉菊」と書いた提灯を配ったところ、
皆がそれを持ち帰り、軒先に吊るした。
これが“玉菊燈籠”の始まりで、
いつの頃からか、7月の盆の頃になると吉原中の見世が一斉に切子燈籠を軒下に下げて、
玉菊を偲ぶようになった。
毎年、毎年、それぞれの見世が趣向を凝らし、
派手さを競い合ううちに、ついに吉原三大景物の一つとなった次第だ。

『はかなくに 何をたねとや浮きくさの
 しげみにからむ忍ぶ草
 二十五絃を名残りにて
 失せにし人の魂まつる
 伽羅のけむりの馥郁と
 なびくぞもののなつかしき』

これは劇作家で、舞踊作家でもある木村富子の作詞。
昭和でも長唄は元気だ。

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tea breaku・海中百景
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少々お待ちを

2010-05-27 | その他 (c)yuri saionji
ス、ミ、マ、セ、ン。

今日は和尚のみ、ということで…

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