西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

吉原・初会

2019-11-30 | 浮世絵で見る悪所の変遷
これは奥村政信(貞享3〜宝暦14・1686〜1764年)の浮世絵です。
制作年代は不詳、「初会の体」(しょかいのてい)とあります。

初会とは指名した遊女と初めて会うことをいい、この絵にあるように「引付けの盃ごと」などの厄介な儀式があります。

もう少し時代が下がると、「初会」の次に「裏を返す」があり、三度目の正直で「馴染み」になり床入り
という面倒なもったいぶったやりかたで金を取るようになるのです。
初会では遊女は客の斜め前に座り口も聞いてくれないし、笑ってもくれずほどなく去って行くのですが、
この時代はまだそれほど厳格な作法が完成されていなかったとみえて、三味線を弾いて気さくに振る舞っているようです。

客に寄り添い三味線を弾く遊女、
取り巻き男のリラックスした格好、
三宝に載せた肴を運ぶ禿、
揉み手の太鼓持ち、
いずれもおっとりとしたものです。

    
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新吉原・大門口

2019-11-29 | 浮世絵で見る悪所の変遷
これは奥村政信(貞享〜宝暦14・1686~1764年)の浮世絵、「吉原大門口」です。
11月23日掲載の、菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)の「大門口」の絵から
50年ほどあとの時代になるでしょうか(1731年頃)。

天水桶は変わらずありますが、門に屋根がつき、すだれを掛けた素朴な茶屋が見えます。
この茶屋は吉原の惣名主、庄司甚右衛門の茶屋西田屋でしょう。

若い武士を迎えに来た、禿と遣り手を連れた遊女、客の後にいるのは新造です。

      

長唄の嚆矢となる「傾城道成寺」が中村座の弥生狂言にかかったのは、この年(1731年)です。
「傾城道成寺」は、やはりメリヤス物の嚆矢といわれる「無間の鐘」の後日談になっているもので、
これはその「無間の鐘」の舞台を描いたものです。
役者は上方下りの女方で、江戸で一世風靡をすることになる初代瀬川菊之丞です。
     
     政信の弟子、利信作


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初期の新吉原・酒宴の座敷

2019-11-28 | 浮世絵で見る悪所の変遷
吉原に芸者が発生したのは宝暦10(1760)年です。
約20年ほど後に、斡旋業の見番(検番)ができました。

芸者が発生するまでは当然遊女や新造(姐さん女郎の下に就く女郎)が芸をしましたし、
客が自前で芸人や幇間(ほうかん・太鼓持ち)を連れて繰り出すのが当たり前でした。
もっとも幇間が職業になるのは元禄(1688〜1704年)の頃ですので、
それまでは場を盛り上げるのが上手な素人です。

絵師の英一蝶(1652〜1724年)は小歌・三味線・茶の湯・俳諧と何でもこなし、
そのうえ座持ちがいいときているので、紀伊国屋文左衛門(1669〜1734年)などに重宝され、
よく吉原に遊んだといいます。



この絵は菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)が描いたもので、
延宝8(1680)年の作です。
揚屋での酒宴でしょうか。
黒羽織を着ている坊主頭の人が幇間で、
三味線と鼓の男は自前調達の芸人、恐らく歌舞伎の囃子方でしょう。

三味線を弾いている女と、踊っている女は新造で、中央で遊女に寄り添っている男が
メインの客というところでしょうか。
まだまだ素朴な宴会です。
    
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湯女風呂

2019-11-27 | 浮世絵で見る悪所の変遷
猿若座がかぶきに三味線を取り入れて、大々的に売り出すまでは
人形芝居の浄瑠璃三味線は別にして、三味線はほとんど遊女の間で行なわれていました。

遊女屋の「動く張見世」ショーとして始まった遊女かぶきが、その始まり(慶長13・1608年)です。
それが大当たりをし、あまたの遊女かぶきが派生し、遊女屋に属さない集団の一座(女かぶき)も多く生まれました。
しかし寛永6(1629)年、風紀の乱れを理由に禁止されてしまいます。

居場所をなくした女たちは、若衆かぶきに紛れ込んで踊子となったり、湯女や遊女に転身したのです。
この時期にわかに増えた湯女風呂は、違法営業の遊女屋でもありました。
夕方4時に正規の風呂業を終えると、風呂の上がり場を座敷に変え、
金屏風などを立て、小袖に着替えた湯女が酒を出し、三味線をかき鳴らし小歌をうたう。
頃をみはからって二階に上がり裏家業です。

江戸の人形町に公認の遊女町(元吉原)ができたのは元和3(1617)年ですから、
当時ここにも多くのかぶき女が流れ込んで来たと想像できます。
吉原にとって、もぐりの湯女風呂はにっくき宿敵です。

この頃の遊女は小歌に堪能で、三味線がうまく才気のあることが、美貌より優先されたといいます。
かぶきで培った芸がものをいったのです。

神田紀伊国屋風呂のスーパースターだった湯女勝山は、小歌や三味線が堪能で「丹前小歌」を得意にしていました。
後に紀伊国屋風呂がお取り潰しになり、勝山は元吉原の山本芳順の見世に抱えられたのですが(承応2・1653年)、
いきなり太夫です。
「丹前小歌」を流行らせ、道中では外八文字を踏み(それまでは内八文字)、勝山髷を流行らせた勝山ですが、
新吉原移転を機に廓を去りました(明暦3・1657年)。



この絵は作者も制作年も未詳ですが、女の髪形からすると、ちょうど勝山が現役の湯女だった頃と思われます。
風呂屋をやりながら、左の座敷では三味線を弾いての酒宴が行なわれている。
どうやら営業形態は風呂屋によって違っていたようです。

   




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大阪芸大

2019-11-26 | 仕事関係
きょうは大阪芸大の日でした。

いつもと変わらずです。


   
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