西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

清元節・2

2009-02-20 | 浄瑠璃 (c)yuri saionji 
豊前太夫はすでに声量の落ちた61才。
今が盛りの延寿太夫には逆立ちしてもかなわない。

69才で豊前太夫がさみしく世を去った時(1822年)、養子はまだ18才。
常磐津は2世、3世と入れ代わり、4世(この時はまだ小文字太夫)は18才。
こうなれば清元が人気を独占するのは必定だ。

清元の一人勝ち状態が続いていたある日(1825年5月)、
中村座の仕事を終え、帰路についた延寿太夫(この時は延寿斎)は
何者かに襲われ、腹を刺されてあっけなく死んだ。

油ののりきった49才だったのが何とも惜しまれるが、
奇しくも昨年、延寿太夫の名は息子(24才)に譲ったばかり。
幸い息子は親譲りの美声で人気も高い。

世間の同情もあってか、清元の人気は衰えることなく、
延寿太夫は我が世の春を謳歌する。


1831年3月の中村座は、中村歌右衛門(4代目・この時は芝翫の2代目)の六変化。
「喜撰」「文屋康秀」などを語った延寿太夫は絶好調、贔屓に喉をほめられ、
つい調子に乗って軽口をたたいた。
「踊りがなければもっと聴かせるぜ」

誰が注進したかは知らないが、これが成駒屋(4代目の屋号)の耳に入ったからさあ大変。
延寿太夫はクビとなり、常磐津の登坂となった。

それから何年間、成駒屋からホサれたのか定かではないが、清元節は暫し鳴りを潜め、
4世を襲名した文字太夫によって、常磐津が俄然勢力を取り戻す。

六左衛門はそんな状況の中、久しぶりに清元を聴かせてやろうとを思った。
尾上多見蔵(2代目)の九変化だし、夏芝居(1841年7月・中村座)だし、
少々悪ふざけでも許されるか、というところだろう。
清元の「鳥羽絵」(1819年初演)を長唄にアレンジした、その名も「鳥羽絵」。

「助六」同様、よくも似せたりの仕上がりに「やんや、やんや」と客が湧く。






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清元節・1

2009-02-19 | 浄瑠璃 (c)yuri saionji 
河東節の匂いあふれる「助六」に歌右衛門も大満足。
これに気を良くした六左衛門は、今度は清元節だ、と思った。
今、清元節はちょっと訳があって歌舞伎から遠のいている。

清元は、豊後節から独立した、富本節から枝分かれした浄瑠璃。

お上の豊後節再弾圧を躱すために、豊後の弟子たちが名前を変えて
新流派を樹立したのが、清元節誕生につながる遠因だ。
(豊後節については1月25日に記載)

まず、一番始めに独立したのが富士松(1745年・宮古路加賀太夫→富士松薩摩)。

後、富士松の弟子の若狭掾が独立し(1751年)、新流派を起こすが
常磐津文字太夫の勢力に太刀打ちできず、若狭掾は歌舞伎を離れ、鶴賀と名を変えて
吉原の座敷浄瑠璃に転向する。
若狭掾の弟子が、後にその喉で一世を風靡することになる新内だ。

二番目が常磐津(1747年・宮古路文字太夫→常磐津文字太夫)、
三番目が富本(1748年・宮古路品太夫→常磐津小文字太夫→富本豊前太夫)、

そして、富本から分かれた清元(1814年・富本斎宮太夫2世→清元延寿太夫)。

清元延寿太夫は商人の子として生まれた。18才の時、天性の美声を生かすため、
当時松平不眛公の後押しを得て、大奥女中の必修音楽にまで登りつめ、
良家の子女が競って習うという花形浄瑠璃、富本節の大番頭、延寿に入門した(1795年)。
事実この頃、歌舞伎界を独占していた常磐津文字太夫はすでに亡く、
弟子が2世を継いではいたが、富本節は一人勝ち状態だった。

めきめき頭角を現した延寿太夫は、数年後にデビューし、
家元、豊前太夫(2世)にも引けをとらない美声で売った。

ところが師匠が亡くなると(1802年)、豊前太夫は何かにつけて過干渉になってきた。
それに嫌気がさした延寿太夫は、すでに名声を得ていたこともあって、
豊後路清海太夫と改名して独立。

翌年の中村座では、歌右衛門(3代目)の「舌出し三番叟」を長唄と掛合いで語っている。
そして、38才の11月(1814年)、清元延寿太夫と改名。
清元節の誕生だ。

この時代は、先達が隠れ蓑として豊後の芸風を消すことに専念した昔とは違う。
特定浄瑠璃の弾圧などという、馬鹿げたことはない。
延寿太夫はその喉をいかし、堂々と自由闊達に、豊後本来の扇情的な節を語った。
それゆえ清元節は、一番最後に生まれた豊後系浄瑠璃なのに、
一番豊後節の匂いを色濃く残す芸風になったという訳だ。


つづく…

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