我が家の青空(My Blue Heaven)

スージィーとロバート、キャッシュとバンクの
2人と2匹の我が家のディリー・ライフ。

「一つの気付き」

2020年01月31日 | 日記

今年も正月早々からほぼ毎日、
メジロがやってくる。

毎年、メジロが飛んで来たのが
直ぐ分かるように、
ある工夫をしている。

庭に吊るした
バード・フィーダーの向こうに
背の高い鉢植えのトネリコを置き、

ミカンを目掛けて飛んできた
メジロが先ず最初に、

トネリコの木に止まり、
その時、細い枝を大きく揺らす。

無風にもかかわらず、
窓越しの突然の枝の揺れに、

メジロの飛来に気付く
と言う工夫。

「メジロのために」と言うよりは、
我が家の冬の愉しみのために作った
バード・フィーダーに、

眺められていることも知らず、
輪切りにしたミカンを
無心に啄むメジロの様を眺めるのは
嬉しくもあるが、

愉しみは、単に「冬の風情(ふぜい)」
と言うよりも、

「眺める」と「啄む」の
互いの目的の違いこそあれ、

飼い主とペットの関係ならまだしも、
自然界に生きる異なる生物が、

同じ時間を共有できるのは、
そうそうあることではない。

ところで、この愉しみを覚えて、
もう何年になるだろうか、
いつまで、
続けていることだろうか。

母の葬儀で一つ、
気付いたことがあった。

葬儀にはかつて、
母と同じ時間を共有した
大勢の親族や知人に来て頂いたが、

気付いたこととは、

人は何時の頃か、
未来よりも過去の方が、
大切に想えるのではないか、

不確かな未来の希望や喜びよりも、
過去に残した確かな思い出の方が、
大切なのでないかと。


後世に残す思い出を作るために
未来はあり、
そのために今を生きる。


枝を大きく揺らして
相手に気付かせ、思いの丈を届け、
互いに仲良く睦みあう。

誰かと喜びを分かち合える思い出こそ、
かけがえのない大切なもの。


母の葬儀の中心にいて、
周りの人たちの語らいや雰囲気に、

そこには、こんな大事なことが
あるんだと、気付かせて貰えたことを
素直に感謝したい。


YouTubeの配信停止を覚悟で

「いのちの歌 」

竹内まりや

 

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「1月25日の思い出」

2020年01月26日 | 日記

母は昨年一月の左足に続き、
その年12月に今度は、

右足大腿部を骨折し、
再び、徳洲会病院に入院した。

入院間もなく、高熱を発し、
検査の結果、大腸がんの
末期症状であることが判り、

ドクターからは、
「余命、3か月」と宣告され、
二人はショックを受けた。


年が明けた今月8日に、
徳洲会から母の掛かりつけの、
石津病院に転院しても食が進まず、
点滴でつなぐ日々だったが、

今月11日に、はとこの禎子ちゃんが、

「子供の頃、可愛がって貰ったおばちゃんの
お見舞いがしたい」と、
宮崎から来てくれた際には、

半世紀ぶりの再会にも関わらず、
母は直ぐに、禎子ちゃんと判り、
昔話を語る気丈な振る舞いや、

お土産に持ってきて頂いた
好物のスイカを、

美味しそうに口にする程の、
驚きの回復に一安心し、

来月の11日には、
神奈川から孫の美愛と二人のひ孫が
見舞いに訪れると知って

母は愉しみにしていた。


だが、23日に容態が急変し、
愛しい孫との再会を果たすことなく、
午後10時に、帰らぬ人となった。


男勝(まさ)りで、頑固な人だった。

その一方で花を育てることが
好きな人だった。

  天国に行った母は今、
沢山の花を咲かせる準備を
始めようとしている。

その傍らには、
18年前に先だった親父の姿も、
きっとあるはず。

「泣くことなんか、絶対ない」
思っていた。

なのに
葬儀でこの曲が流れた時、
お別れ会でただ一人、
声を上げて泣いてしまった。

母の眠る棺の一番前で
泣いた泣き声は、


荼毘に付される前の母の耳に
きっと、届いていると
信じている。

25日に葬儀、
その後、荼毘に付された。

享年、94歳だった。

「千の風になって」

唄:秋川雅史

コメント (2)
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「昨夜の落語」

2020年01月20日 | 日記

さて、今年6月で69歳になる。

このまま、後一年生きたとして、
来年は愈々、我が歴史上、
未曽有の70代に突入する訳だが、

そこでこれから先、
どんな生き方をしていけば良いのかを、
ぼんやりと考えたりもする。

しかし、一念発起して
新たな挑戦を試みたところで、

この年まで染みついた三日坊主が、
そうそう抜ける分けがないのは、
過去の事例が証明済み。

「世間並みの69歳らしく生きよう」
とか、

「悔いのない人生を送るために努めよう」
とか、

出来もしない大それたことは考えず、

「素のままの自分の、
今の生活の延長で良いのでは」と、
楽観的に考えることにしている。


同世代の、あるご夫婦がいた。

病気持ちの旦那さんが
「終活」とでも言うのか、

「最近、『俺が死んだらこうしてくれ、
ああしてくれ』と話す度に、
家はいつも、喧嘩になる

一人残される私のことも考えずに」

と奥さんが嘆く。

「旦那さんは悲しませるために
言っているんじゃなくて、

奥さんに迷惑を掛けないように
心配させないようにと
話している、

それは愛しているからだと思う」
と言うと、

「本当に、そうだろうか?」

とは言うものの、
疑心暗鬼の心は晴れてはいない。

「人間、みんな死ぬんだから、
その時まで一緒に、明るく楽しく仲良く
暮らした方が良いよ」

と付け加えた。

我が家には、憂うことも、心配事も、
売って在庫を無くしたいぐらい
山ほどある。

しかし、
「その時は、その時!」

「まな板の上の鯉」の心境。

まあ、楽観的過ぎるのも
刹那的な一時しのぎでも
なんだが、

過去の同じ轍を踏まずに、
明るく生きてさえいれば

「それで、善し」と考える。


いつも、落語を聞く。
好きな演目のジャンルは「人情噺」。

仮に演目が作り話でも、
苦労を共にし、仲良く連れ添い、
いつか幸せを掴む夫婦の話には

いつも泣かされる。


今年6月で、69歳。

大いに泣いて、大いに笑えば、
幸せになれる。

笑う門には福きたる、
泣いた角にも福きたる。

昨夜の落語も、そう教えてくれた。

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「3秒に一度」

2020年01月14日 | 日記

11日の午後、
禎子ちゃんが連休を利用して、
宮崎から母の見舞いにやってきた。


父の仕事で宮崎に引っ越した
禎子ちゃんと母は、
おそらく半世紀振りの再会のはず。

「子供の頃、可愛がってもらったおばちゃんは、
私のことを憶えていてくれるかな?」

不安な面持ちで病室のドアを開けたが、
母はちゃんと、禎子ちゃんを憶えていた。

二人の間の半世紀の静止した空間は、
僅か数秒で埋まってしまうばかりか、

驚いたのは、点滴で命を繋ぐ母が、
禎子ちゃんのお土産のスイカを

嬉しそうに、美味しそうに、
口にしたこと。

笑顔で病院を後にした禎子ちゃんが、
初めて我が家へやってきた。

以来、滞在した13日の午後まで、
我が家に笑い声が絶えなかったが、

「ご先祖様のことが知りたい」と
始めて目にする家系図の

ご先祖さんの名前の中に、
祖母の名前を見つけた時、

嬉しくて一瞬、泣きそうな顔をした。

昨年、宮崎でお世話になった時以上に
福博の街を楽しんで貰おうと、
いろんな所を案内したり、

「朝からでも、食べられる」と言うほど、
うどんの大好きな禎子ちゃんに
「かろのうろん」の他にも、
2軒のお店で食事を愉しんだが、

禎子ちゃんが一番に楽しみにして、
一番に喜んだのは、
スージィーの手料理だった。

手料理を「美味しい、美味しい」
と何度もお替りをしながら、

「辛い時間は長いのに、
愉しいことはあっと言う間よね」

と本人が言うように、
13日の朝、別れの時がやってきた。


高速バスで帰路に就く禎子ちゃんを
博多駅バスターミナルまで
二人して見送ることにしたが、

宮崎行きのバスが到着する前に
別れを告げることにした時、

「私、見送られると絶対に泣くから、
今ここで別れた方がいい」

と言った禎子ちゃんの言葉と、
こちらの思いも、全く、一緒だった。

お互いに六十代の割には幼く、
笑い上戸で、泣き虫なところまで
よく似ている禎子ちゃんが
帰ってしまって淋しいけれど、

案ずるなかれ、今日からまた、
3秒に一度は笑い転げる
電話のやり取りが始まるではないか。

さて、向こうからベルを鳴らすのか?

今夜はこちらから先に、
ベルを鳴らしてあげようか?

プルルルル プルルルル プルルルル



「 I just called to say i love you 」

心の愛
スティービー・ワンダー

 

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「歩きながら考える」

2020年01月10日 | 日記

家の中で、
ある実験を行うことにした。

2階に上り顔を洗って、着替えが終えたら、
指定したある物をとって
一階に下りてくる。と言う

自身の記憶力を試す実験。

近年、記憶力が低下し
物忘れが顕著になってきた。

TVを観ていて、
役者の名前が浮かばない・・

大工仕事で工具を取りに行ったのに、
何の目的で今、此処に来たのか
すっかり忘れている・・

冒頭の実験の結果も同様、
物を持って下りるのを忘れるばかりか、

実験していることすら、
見事に忘れていた・・

我ながら呆れるやら、
情けないやら。


幸いにも、約束事や仕事に関しては、
相手がいることなので忘れることはなく、
なんら支障はないが、

記憶力の低下が
齢相応の現象とは言え、

これから先、こんな現象が
頻繁に起こるとなると正直、
切なくもなる。



昨日、驚くほどの大変な
忘れものを
していることに気が付いた。

WEBで料理のレシピを探していたら、
大好物であったはずの、料理の存在を
見事に忘れて仕舞っていた。

「オーマイガー なんてこった!」

嫌いならまだしも、
大好物の料理を忘れていたことに
心中、衝撃が走った。


水溶き片栗粉のあんかけを使う
料理が大の好物で、

チャンポンも焼きそばも、
あんかけで作って貰い、

八宝菜から、揚げた鶏や魚の
あんかけ料理に至るまで、

とろとろ味の触感と、
あの甘酸っぱさが好きなのに、

よもや「天津飯」の存在が
脳裏から消え去っていたとは・・

「天津飯」画像は、借り物。



30年ほど前、
けやき通りに有名なシェフのいた
中華のお店があった。

お店の名前も場所も、一事が万事で
忘れて仕舞ったが、

シェフが作る「天津飯」が
美味しくて、その上に安くて

達人技のシェフのお店にしては敷居も低く
好んで通っていたのを思い出したが、


あの味を思い出したら最後、
無性に食べたくなり、食べたくなったら
もう止まらない。


幸いに今日、
スージィーは会社の新年会。

「好きなものを、買って食べて」と
お金を渡された。

よーし、今夜は近所の中華の店でも行って、
あの懐かしの「天津飯」に会いに
行くことにしよう!

忘れ去られるものあらば、
再び呼び戻す記憶もある。

忘れもしないあの娘とは、
もう二度と会えないけれど、

今夜は天津飯が30年ぶりに
帰ってくる。

スージィーから貰った500円玉を
握りしめて、今から家を出る。

店に着いて、
目の前に天津飯が現れたら


「ようこそお帰り、
我が愛しき 天津飯よ!」

とでも言おうか、それとも・・

そう、忘れないように
最初に掛ける言葉は

歩きながら考えよう。



「Welcome Back」

ジョン・セバスチャン


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「今年の予感」

2020年01月04日 | 日記

大勢の人たちが見つめる向こうに、
一軒の家があった。

その家には父・子・孫と繋ぐ家族が、
寄り添いあって暮らしていた。

大勢の人たちがこの家に
心を寄せるのは、

この家族を中心に
さまざまな人間模様が織り成す

家族の悲喜こもごもの
暮らしぶりだった。


心を寄せる人たちの多分は
高齢者だったが、

当然、その中に二人もいた。


見つめる向こうに
悲喜こもごもが起こる度に、

一斉に笑い声が起き、
涙で鼻をすする音が聞こえたり、

家族を見つめる人たちの心には
向こうの家族と同じ思いが動いていた。


誰も笑ったり泣いたりすることを
恥じもせず、

むしろ、それが人として当たり前の
心の有りようとして、

見つめる人たちの間にも
共通の思いが働いていた。



正月3日、映画を観に行った。

映画は、1969年にシリーズ開始から
50年後にして50作目の

「男はつらいよ 50 お帰り 寅さん」

 

映画の中の寅さんは
昔のまんまだったが、

博士(ひろし)も、さくらも
映画を観る人たちも
当分に齢をとっていた。

ただ、50年前の
さくら(賠償千恵子さん)の
可愛さには驚いた。


正月早々、劇場で一番、
声を上げて笑ったり、
鼻をすすったり、

ハンカチで涙を拭いたのは
自分ではと思うほど
よく泣いた。


映画の温もりが冷めぬまま、
清々しいい気持ちで
家路についた。

好く笑って、好く泣けば
必ず、好いことが起きる。

今年はそんな年になりそうな
予感がした。

 

映画
『男はつらいよ お帰り 寅さん』
予告映像

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