今年も正月早々からほぼ毎日、
メジロがやってくる。
毎年、メジロが飛んで来たのが
直ぐ分かるように、
ある工夫をしている。
庭に吊るした
バード・フィーダーの向こうに
背の高い鉢植えのトネリコを置き、
ミカンを目掛けて飛んできた
メジロが先ず最初に、
トネリコの木に止まり、
その時、細い枝を大きく揺らす。
無風にもかかわらず、
窓越しの突然の枝の揺れに、
メジロの飛来に気付く
と言う工夫。
「メジロのために」と言うよりは、
我が家の冬の愉しみのために作った
バード・フィーダーに、
眺められていることも知らず、
輪切りにしたミカンを
無心に啄むメジロの様を眺めるのは
嬉しくもあるが、
愉しみは、単に「冬の風情(ふぜい)」
と言うよりも、
「眺める」と「啄む」の
互いの目的の違いこそあれ、
飼い主とペットの関係ならまだしも、
自然界に生きる異なる生物が、
同じ時間を共有できるのは、
そうそうあることではない。
ところで、この愉しみを覚えて、
もう何年になるだろうか、
いつまで、
続けていることだろうか。
母の葬儀で一つ、
気付いたことがあった。
葬儀にはかつて、
母と同じ時間を共有した
大勢の親族や知人に来て頂いたが、
気付いたこととは、
人は何時の頃か、
未来よりも過去の方が、
大切に想えるのではないか、
不確かな未来の希望や喜びよりも、
過去に残した確かな思い出の方が、
大切なのでないかと。
後世に残す思い出を作るために
未来はあり、
そのために今を生きる。
枝を大きく揺らして
相手に気付かせ、思いの丈を届け、
互いに仲良く睦みあう。
誰かと喜びを分かち合える思い出こそ、
かけがえのない大切なもの。
母の葬儀の中心にいて、
周りの人たちの語らいや雰囲気に、
そこには、こんな大事なことが
あるんだと、気付かせて貰えたことを
素直に感謝したい。
YouTubeの配信停止を覚悟で
「いのちの歌 」
竹内まりや