カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

メモから。

2006-04-11 10:46:42 | Weblog
 メモです。

                ☆

 新聞記事から。

                *

 《文化学院 名物校舎取り壊し 11日に最後の入学式 東京》

写真:取り壊されることになった文化学院の初代の建物=東京都千代田区神田駿河台で8日午後0時2分、馬場理沙写す

 ツタのからまるアーチ形のクラシックな外観で親しまれてきた文化学院(東京都千代田区神田駿河台)の校舎が取り壊されることになり、11日にこの校舎での最後の入学式が行われる。月内に工事が始まり、08年には地上14階建て、地下2階の新校舎が完成する。
 文化学院は、1921年に建築家で教育者の西村伊作が、与謝野鉄幹・晶子夫妻らの協力を得て設立した私立の専門学校。文学と美術を学ぶ高等課程(3年)と専修課程(同)からなる。
 創立時の木造校舎が関東大震災で消失後、37年に西村氏の設計で現在の鉄筋コンクリート4階建ての校舎が完成した。校舎はバンガロー様式の米国風とも、入り口から中庭が望めるスパニッシュ様式ともいわれ、独学で建築を学んだ西村氏の自由な発想が評価されている。デザイナーの鳥居ユキさん、女優の長岡輝子さん、歌手の石井竜也さんらがここから巣立ち、小林秀雄が教壇に立ったことでも知られる。
 老朽化が指摘されていたが、同学院が行った昨年末の調査で、修復には多額の費用がかかることがわかり、保存を断念。西村氏の孫で、同学院デジタルデザイン科長の建築家・坂倉竹之助さんの設計で新校舎を建設することを決めた。これに対し近代建築の保存調査を行う国際組織、ドコモモの日本支部(鈴木博之代表)は3日、保存に関する要望書を提出した。
 3月の学生への説明会では「もっと時間をかけて検討すべきだ」などの意見が出て、最後の卒業式には講堂に入りきれないほどの卒業生が訪れたという。この春、創造表現科を卒業した女性(22)は「校舎が好きで入学した学生も多く、映画の撮影にも使われるクラシックなところに愛着があった。こんなに急いで壊す必要があるのか」と話した。【手塚さや香】

 (毎日新聞) - 2006年4月11日9時23分更新

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060411k0000m040038000c.html

                ☆


 内田康夫さんの、ある意味で“神がかり”的な小説『明日香の皇子』の中で、「神」のような不思議な能力を持った「今村中将」として描かれている今村均氏のこと。

 メモ。

                *

 『- 仁将と呼ばれ、敬愛された将軍 -』

 <今村 均(最終階級:陸軍大将)>
 〔IMAMURA Hitoshi(1886-1968)〕

 1886(明治19)年6月宮城県仙台市で、今村虎尾の第七子として生まれた。1907(明治40)年陸軍士官学校卒業、1915(大正4)年陸軍大学校卒業。1938(昭和13)年11月第五師団長(北支・南支)。1941(昭和16)年6月第23軍司令官(広東)。12月第16軍司令官(ジャワ)に赴任し、ジャワ島攻略を担当。1942(昭和17)年3月1日、今村中将は2個師団約5万5千の兵を率いて、ジャワに上陸、わずか9日間の戦闘で、10万のオランダ・イギリス軍を降伏させた。これは現地人の絶大な協力によるものである。その後、ジャワの軍政を担当し、住民愛護の軍政方針を示し仁政を敷く。ジャワ占領後、現地人から独立の闘士スカルノを獄から救出して欲しい、という多数の嘆願書を受け、釈放する。1942(昭和17)年11月第8方面軍令司令官となり、ラバウルへ赴任。1943(昭和18)年5月大将。ミッドウェー海戦の敗北を契機に、米軍は反攻を始め、いずれここが戦場となる運命であった。日本からの海上封鎖による補給途絶を予想し、島の開墾を行い、自給自足体制を敷きつつ、持久戦を展開する方針を立てた。マッカーサーの率いる米軍は守備が強固なラバウルは敢えて攻略せずにやり過ごし、フィリピンを目指して進撃してしまいました。結果として、終戦までに餓死者や玉砕を防ぎ、ほぼ全員を復員させることに成功する。

 戦後は、部下を一人でも救うべく、自ら最高責任者として志願して収容所に飛び込んでいき、一人でも多くの部下を救うべく奮闘する。1946(昭和21)年4月28日ラバウル戦犯者収容所(光都隊)に入所。1947(昭和22)年5月 26日 オーストラリア軍軍事裁判判決(禁固10年)。その後、今村は今度はジャワに護送された。オランダ軍からの裁判を受けるためである。1948(昭和23)年5月3日オランダ軍軍事裁判のためストラスウエイク監獄(ジャワ)に移る。そこはインドネシアの独立を目指した政治犯ら1500人が収容されていた監獄で、ただ一人の日本人として拘留された。やがて今村は約700人の日本人戦犯容疑者を収容しているジャカルタ市内のチビナン刑務所に移され、裁判にかけられた。1949(昭和24)年12月8日オランダ軍軍事裁判判決(無罪)。そこにラバウルに収容されていた戦犯230名が、マヌス島に移されたという知らせが入った。 赤道直下の酷暑炎熱の小島で、重労働と粗食、不衛生な宿舎のため、病人が続出し、半数は生きて帰れないのでは、という悲惨な状況であった。今村はマヌス島行きを希望するが、聞き入れられず、24日ラバウルの判決を日本で服役するためバダビア発。1950(昭和25)年1月28日横浜着、同日巣鴨拘置所へ。2月マヌス島で服役することを申出、3月5日マヌス島着。1953(昭和28)年8月8日マヌス島濠軍刑務所閉鎖に伴い巣鴨拘置所に移る。1954(昭和29)年11月刑期を終え巣鴨拘置所を出所。その後、東京の自宅の一隅に建てた小屋(謹慎室)に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、殉国勇士慰霊の行脚を続ける。軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、ぼう大な回想録を出版した。その印税はすべて、戦死者や戦犯刑死者の遺族のために使ったという。1968(昭和43)年10月4日死去、享年82歳。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/japan/a/imamura.html
コメント (2)
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