朝、絶好のランニング日和なので、早速出かけることにした。天気がいいのも今日と明日だけらしい。チャンスは逃すとなかなか捕まらないのだ。
というわけで出発したが、少し離れた場所にある我が家の駐車場の前を通り過ぎようとしてガッカリしてしまった。昨日、我が家の駐車場によその車が駐車してあったので、張り紙をして追っ払った。これでもう停めることはないだろうと思い安心していたら、今朝はちゃっかり我が家の駐車スペースの隣に4台も停まっているではないか。こちとら不動産会社にお金払って停めてんだい、とイラっとする。
こういう邪念が入ると、ランニングをしていても熱が入らない。走りながらどうしても、「はてどうしたもんかな」と駐車場のことばかり気になる。ダメだ、ダメだ、せっかくのランニングが台無しになる。今、考えても仕方がないことはできる限り頭から追い払う方が良い。
で、なるべくランニングに集中しようと、邪念を追い払うようにして走る。いろいろ考えてしまう時には、大声で数を数えながら走るのが良い。人間の脳みそは意外と単純で、大声で数を数えながら、同時に面倒なことは考えられないのである。
イーチ、ニーイ、サーンと声に出して走ると、だんだん集中してくるのがわかる。とにかく目の前のことだけに集中することが大切なのである。以前読んだ本にも、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった人たちは、1日に目の前のことだけに集中する時間を作るという。ヨガがまさしくこれを実践している。自分の呼吸の吐いて吸ってに集中する。それ以外のことは考えない。ランニングだと、右足を前に出し次に左足を前に出すということだけに集中する。そういうことをするうちに、日常生活でとっ散らかった精神がひとつへと収斂して行く。
ある人がこんなことを言っていた。人間が一番自分が生きていると深く実感する瞬間というのは、実は戦争で鉄砲の弾が飛び交う下にいる時である、と。本当の危機に直面すると、人間は邪念を取っ払い、目の前の危機からいかに脱出するかに集中する。そのことで深く生きていることを実感しているというのである。
別の言い方をするなら、普段僕らは自分で作り上げた世界で暮らしていると言える。それはもしかしたら幻想の世界かもしれない。ある日大災害に直面すると、炊き出しのおにぎりひとつに感動する。シャワーを浴びることができるということがいかに大変なことかに思い至る。
世界は実にいろんなことでできあがっている。おにぎりひとつ食べようとするなら、お米を作る人、田植えや稲刈りの機械を作る人、精米する人、ご飯を炊く人、おにぎりを握る人と、さまざまなことが積み重なって目の前におにぎりが出現する。コンビニでお金を払えば手に入るということが、いかに不思議な出来事かということには思い至っていない。
僕たちは、知らず知らず自分で作り上げた幻想の社会で生きているとも言えるのである。そんな中で、とにかく目の前のことだけに集中するというのは、自分がどれだけの大きさの人間なのか、自分の限界はどこにあるのか、自分自身の輪郭はどういった大きさなのかと知ることに繋がる。
そんなことを考えながら走っていると、目の前をツバメがスーイと横切る。頭の上でヒバリがピーチクパーチク囀る。いかんいかん、気が散っている証拠だと、再び集中して走るアベさんなのである。
というわけで出発したが、少し離れた場所にある我が家の駐車場の前を通り過ぎようとしてガッカリしてしまった。昨日、我が家の駐車場によその車が駐車してあったので、張り紙をして追っ払った。これでもう停めることはないだろうと思い安心していたら、今朝はちゃっかり我が家の駐車スペースの隣に4台も停まっているではないか。こちとら不動産会社にお金払って停めてんだい、とイラっとする。
こういう邪念が入ると、ランニングをしていても熱が入らない。走りながらどうしても、「はてどうしたもんかな」と駐車場のことばかり気になる。ダメだ、ダメだ、せっかくのランニングが台無しになる。今、考えても仕方がないことはできる限り頭から追い払う方が良い。
で、なるべくランニングに集中しようと、邪念を追い払うようにして走る。いろいろ考えてしまう時には、大声で数を数えながら走るのが良い。人間の脳みそは意外と単純で、大声で数を数えながら、同時に面倒なことは考えられないのである。
イーチ、ニーイ、サーンと声に出して走ると、だんだん集中してくるのがわかる。とにかく目の前のことだけに集中することが大切なのである。以前読んだ本にも、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった人たちは、1日に目の前のことだけに集中する時間を作るという。ヨガがまさしくこれを実践している。自分の呼吸の吐いて吸ってに集中する。それ以外のことは考えない。ランニングだと、右足を前に出し次に左足を前に出すということだけに集中する。そういうことをするうちに、日常生活でとっ散らかった精神がひとつへと収斂して行く。
ある人がこんなことを言っていた。人間が一番自分が生きていると深く実感する瞬間というのは、実は戦争で鉄砲の弾が飛び交う下にいる時である、と。本当の危機に直面すると、人間は邪念を取っ払い、目の前の危機からいかに脱出するかに集中する。そのことで深く生きていることを実感しているというのである。
別の言い方をするなら、普段僕らは自分で作り上げた世界で暮らしていると言える。それはもしかしたら幻想の世界かもしれない。ある日大災害に直面すると、炊き出しのおにぎりひとつに感動する。シャワーを浴びることができるということがいかに大変なことかに思い至る。
世界は実にいろんなことでできあがっている。おにぎりひとつ食べようとするなら、お米を作る人、田植えや稲刈りの機械を作る人、精米する人、ご飯を炊く人、おにぎりを握る人と、さまざまなことが積み重なって目の前におにぎりが出現する。コンビニでお金を払えば手に入るということが、いかに不思議な出来事かということには思い至っていない。
僕たちは、知らず知らず自分で作り上げた幻想の社会で生きているとも言えるのである。そんな中で、とにかく目の前のことだけに集中するというのは、自分がどれだけの大きさの人間なのか、自分の限界はどこにあるのか、自分自身の輪郭はどういった大きさなのかと知ることに繋がる。
そんなことを考えながら走っていると、目の前をツバメがスーイと横切る。頭の上でヒバリがピーチクパーチク囀る。いかんいかん、気が散っている証拠だと、再び集中して走るアベさんなのである。