おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

終わり良ければ

2020-12-31 09:30:04 | 福島

 天気予報では、記録的な寒波がやって来るから警戒が必要だと言っていた。大雪になれば、朝の散歩でケンくんと一緒に遊ぶことはできなくなるだろうと思っていたが、朝起きてみると、雪はたいしたことはなかった。

 それでも、寒いのはめっぽう寒い。グズグズしていたら、いつもより家を出るのがずいぶん遅くなってしまった。ケンくんはしびれを切らしてもう帰ったかもと心配していると、いつも遊んでいる小学校跡地のグラウンドの下まで降りて来て、そこで伏せをしてテオを待っていた。

 30分ほど2匹の犬が全力で追いかけっこをするのを、飼い主たちは震えながら見守っていたが、犬が楽しそうにしている姿を見ると、心はあったまるのだ。

 ケンくんと別れた後は、いつもの散歩コースを歩く。丘の上まで来たところで、ちょうど山の向こうから朝日が昇ってきた。思わず手を合わせて拝みたくなるような黄金の太陽だったが、元旦じゃないからやめておく。

 散歩中のテオを呼ぶと、立ち止まって振り返ったので写真をパチリ。全力で遊ぶので、全身筋肉質になってきたテオ。

 家に帰るとアンちゃんが待っていたので、パチリ。

 今年はコロナで世の中は大変な一年だったが、我が家はアンが新しく家族になったこと以外は、ほとんど事件らしい事件もなく、楽しく過ごすことができた。

 政治家の不祥事など見ていると、歳を取ってから、それまでのキャリアを無駄にしてしまうようなことを仕出かして、バカだなあと思ってしまう。

 若い頃は、とにかくどうやったら幸福になれるかということに固執していたが、歳を取って来ると、死ぬときに幸せだったらいいな、くらいの感じで生きている。

 人生の大半をブイブイ言わせ、最後の最後でみじめにしんでいくのと、苦労ばかりの人生でも死ぬ間際に幸せに死んで行くのでは、後者のほうがよほどいい。苦労が実れば、その苦労さえも幸せな記憶として感じることができるだろうが、最後の最後でそれまでの人生をすべて否定するようなことになれば、オレの人生って一体なんだったんだということになりかねない。

 終わり良ければ、すべて良しなのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カレーもいいけど

2020-12-30 11:43:28 | 日記

 コロナの影響で、年末年始は家で静かに過ごすという人が多いようだが、僕の場合は大分にいた時は、お正月はあまり人のいない冬山に登ったりしていたので、騒ぎたくても騒ぎようがなかった。お正月というのに、歩きながらパンをかじったり、車の中でコーンスープを飲んで暖をとったりしていた。

 福島に来て以来、お正月はタミちゃんちの実家に挨拶に行くのが恒例になっている。が、それ以外の日は暇なので、家でおでんをつつきながら、昼間っから酒を飲んでテレビを観ている。

 若い頃はずっとひとり暮らしだったから、年末年始は大量のおでんを作り置きしておき、お正月の間、何もしなくても食うのに困らないようにしていた。昼間はほろ酔い気分で、映画館で時間を潰したりしていた。

 昔のコマーシャルに、「おせちもいいけどカレーもね」というのがあったが、ほとんどおせちを食べることがないから、おせちに飽きるというシチュエーションもなかった。今年も大晦日におでんを大量に作り、お正月はグダグダしようかと思っているが、例年と違うのは、タミちゃんがお正月料理に挑戦していることだ。

 最近はおせちもデパートなどで買って来たものを食べる家庭が増えているようだが、我が家は数の子をもらったので、ほかにも豆を煮たり、紅白なますを作ったりして、たまにはお正月らしい食生活をすることにした。

 ということで、今朝は朝4時からタミちゃんはキッチンでいろいろ忙しそうにしている。昨夜のうちに塩抜きした数の子の薄皮を剥いで味付けをしたり、豆を煮たり、豚の角煮を作ったりしていた。お酒はビールにワインに日本酒も買ってある。これでどこへも出かけることなく、犬と猫と一緒にウダウダすることができるのだ。

 今日はタミちゃんはできあがった数の子や豆を持って、実家に出かけて行った。僕は大掃除をしながら、犬や猫と留守番をすることにする。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風を感じる

2020-12-29 12:26:46 | 日記

 いよいよ1年も終わりが近づき、やっておかなくてはならないことも多い。買い物もそのひとつで、年末年始はコロナで外出もままならないから、さっさと買い出しをしておく必要がある。今日から冬休みに入る企業も多いというから、どこも混んでいるだろうと覚悟して出かけて来た。

 が、開店と同時に出かけたので、ホームセンターもスーパーも本屋も案外空いていた。ホームセンターでは、テオのオヤツや年賀状をプリントするためにプリンタのインクを買った。スーパーでは年末年始の食料品の買い込みだ。お正月をのんびり過ごすために、本も買って来た。

 この前から読んでいた評伝「種田山頭火」もいよいよ読み終え、お正月用に買って来たのは、旅日記と山頭火の年譜と評伝が書かれている2冊だ。日記もあったが、そちらは旅日記を読んだ後する。

 山頭火の随筆に面白い文章があった。「草と虫とそして」と題した随筆の中の一節。「季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である」。

 一年中エアコンをつけっぱなしで、快適な環境の中で暮らしている人は、ある程度裕福な人だろう。貧乏人ほど寒さや暑さには敏感にならざるを得ない。旅人というも納得できる。ツアー旅行で添乗員にお任せというのならば、季節のうつりかわりなどたいした問題ではないだろうが、ひとり旅や、山旅、自転車やバイクのツーリングとなると、天候を気にしないわけには行かなくなる。

 と書いてふと思い出したが、旅(たび)と付くものには、ひとり旅、山旅、巡礼旅など、ある程度苦労が付きまとい、旅行と付くものには、国内旅行、団体旅行、観光旅行と、娯楽感があるのが面白い。「旅に出よう」と「旅行に行こう」は、全然別物だということになるだろう。

 季節のうつりかわりに敏感な者に、独り者というのが入っているが、独身生活で一人暮らしが長かった僕に言わせれば、おそらくひとりでいるほうが、周囲の変化には敏感にならざるを得ないところがあるんじゃないかと思う。

 海外で自殺者が一番増えるのが、クリスマスシーズンらしい。クリスマスが人を殺すというのも変な話だが、そのくらい独り者は敏感に、自分の身の回りに吹く風を身にしみて感じているということなのだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体と精神

2020-12-28 12:12:47 | 福島

 今日から冬休みに入る。たいして疲れてはいないが、それでも1年の仕事が終わったと思うと、昨夜からなんとなく体が重い。朝食後も体を動かすのが億劫なので、コタツに1時間ほど入っていたが、気を取り直してランニングに出ることにする。とりあえず、今日は普段の定休日としてゆっくりし、明日から大掃除などの年末の雑用を済ませよう。

 走れるだけ走って、ウンザリしたら帰ろうと思いながら走っていたら、途中で顔見知が向こうから走って来るのに気づいた。この人は早朝にいつもランニングしていて、散歩のついでに畑に寄ったりするとすれ違うことがある。ノーベル賞をもらった山中さんみたいな感じの人で、そう言えば山中さんもマラソンが趣味と言っていたから、似たようなタイプの人なのかもしれない。

 ある時、阿武隈川に沿って走っていたら、向こうからその人が走って来た。いつもは早朝に何も持たずに走っているが、その日はリュックを背負い走っていたので、長い距離を走って来たのだろう。とりあえず顔だけは知っているので挨拶をすると、向こうも立ち止まって立ち話をした。

「一年のうち、去年は364日走ったよ」と自慢げに僕に話してくれたが、逆に走れなかったその1日のほうが気になってしまうのである。

 今日は道路を挟んで向こうとこっちだったから立ち話をするわけには行かないので、走りながら頭を下げたら、向こうは手を振ってそれに応えてくれた。滅多に会わないが、僕のことを覚えてくれていたということだろう。

 ゲンキンなもので、面倒だから今日は適当に切り上げようと思い走っていたのが、同じように走っている人とコミュニケーションが取れた途端、モリモリと元気が出て来て、いつもより頑張って走ってしまった。メンタルが体に及ぼす影響というものを、つくづく実感したのだった。

 精神的に絶好調にあるときは、体に不具合が生じることは滅多にない。同じ理屈で、体に不具合があるのに、精神的に絶好調だと思えるときはまずないだろう。僕らは肉体と精神は別物だと思っているが、実は切っても切り離せないものであり、本来は肉体だの精神だのとわざわざふたつに分ける必要がないくらい、同じものだと言えるだろう。

 健康な肉体に健康な精神が宿ると言う人がいるが、健康な精神は健康な肉体を欲するとも言えるのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事納め

2020-12-27 11:31:37 | 日記

 「アトリエ・カフェ 青い犬」の今年の営業は、本日を持って終わりとなる。年明けは1月12日(火)から営業を開始する。例年よりも冬休みを長く取ったのは、新型コロナの影響もある。都市部での営業の時短期間とちょうど重なるが、それに合わせたわけではない。年末年始の人の集まりを避けようとすれば、この期間をお休みにするのがごく自然の流れなのである。

 今年はコロナのせいで、いろんな方面でイベントの自粛や飲食店の時短営業、旅行業界や宿泊施設で閑古鳥が鳴くなど、さまざまな分野で大きな影響があった。うちのカフェも春先は三春の滝桜が観光できなくなったため、遠方からのお客さんはほとんど来ることはなかったが、その後は例年よりも増えた感じがあった。おそらく、あちこち出かけることが難しくなったから、近場で人の密集していないうちのカフェに寄る人が多かったんじゃないかと想像している。

 Yahoo!ニュースを見ていたら、コロナによって社会の変化が一番大きかった国は日本だったという記事が出ていた。確かに他の国は、強制的にロックダウンをしなければ、みんなフラフラ出かけたり、パーティーをやってみたり、マスクをするのも個人の権利だとばかり拒否する人もいた。それに比べれば、日本人は指図されなくても密集を避け、外出するときにはマスクを必ず着用していた。

 そういうところが日本人の美徳でもあるわけだが、別の記事には日本人特有の「同調圧力」が取り上げられていて、世間体ばかりを気にして生きている体質が指摘されていた。太平洋戦争中も、「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンの元、日本社会が一丸となり、贅沢をしている人間がいないか、お互いが監視し合っていたが、その精神構造は今回も発揮されたと言えるだろう。

 小さい頃から、「そんなことをして、世間様に恥ずかしくないの」「皆さんに迷惑をかけるんじゃありません」と育てられる日本人。正しいかどうかは二の次で、とにかくみんなで同調することが第一というのは、大昔、聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と憲法十七条に書いたときから、ちっとも変わってないのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

借り物の文化

2020-12-26 12:12:42 | 日記

 12月に入り、カフェではクリスマスの飾り付けをしていた。といっても、玄関先にLEDのついたリースを下げたり、店内のドリやトトの彫刻に、サンタの帽子やトナカイの角を被せたり、BGMにクリスマスソングを流したりしていたくらいだが、それも昨日までだ。

 今朝は慌ててクリスマスの飾り付けをすべて片付け、クリスマスリースの代わりにしめ飾り、店内には大首絵が描かれた奴凧を飾ったりして、一夜にしてキリスト教から神道に宗旨替えした。日本人とは何と無節操な国民性なんだろうと呆れるが、その分いろんな行事を楽しめるので、あまりシビアなことは考えないようにしよう。

 そもそも昔から、日本という島国は文化とは海の向こうからもたらされるもの、という意識があった。仏教も、その頃日本で猛威をふるっていた疫病を退散させるのに、神道では効き目がなく、大陸で勢力を拡大していた仏教に望みを託して輸入したものだった。

 文化が海の向こうからもたらされるものという意識は、明治維新の際にはそれまで以上に強化された。進んだもの、優れたものはすべて海の向こうにあり、我が国にあるものはつまらないものばかりと信じ込んでしまった。

 「文化」と言えば、わかったような気がしているが、そもそも「文化」とは中国語で、「武力化」の対義語である。つまり人民を掌握するのに、武力ではなく、教育を持って言うことを聞くようになってもらおうというのが「文化」である。

 が、日本に「文化」という言葉が入って来たとき、中国語にあった意味合いは忘れられ、英語のカルチャーの訳語として定着した。

 小林秀雄さんの本を読むと、英語圏の人がカルチャーという言葉を耳にするとき、その意味は「栽培」でしかない。カルチャーとは、リンゴの木を育て、その実を収穫してジュースを絞るというようなことだ。もし、リンゴの木を育て、大きくなった木を製材して椅子を作るなら、それは栽培(カルチャー)ではなく、技術(テクノロジー)と呼ばなければならない。つまるところ、カルチャーとは、そのものが本来持っている素質を育てることなのである。

 英語圏の人にとって、カルチャーとテクノロジーは全然別のことである。が、文化という訳語を当てたために、日本人には文化というものが何なのかわからなくなってしまった。リンゴの木からジュースを作るのも、椅子を作るのも、同じように文化と混同してしまったため、自分自身を見失うということにもなってしまったのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビで学ぼう

2020-12-25 10:37:50 | 福島

 臆病なテオは、ゴミを捨てに行こうとその辺にゴミ袋を置いているだけで、見慣れない生物がいると警戒して決して近づこうとしない。一定の距離を保って、ウーッと威嚇したりしている。その度に、「おまえ、情けないなあ」と言われてしまうのである。最近は、玄関口に地面に置くタイプの外灯を設置したら、ワンワンと怒っていた。「おまえ、そんなものにまで吠えるのか」

 その点、アンは好奇心旺盛で度胸もある。トイレに入ろうとすると、先回りしてドアを開けろとミャアミャア鳴く。水を流すと、覗き込んで水の行方を確かめている。風呂に入ろうとすると、一緒に入るとミャアミャア鳴く。そして、浴槽の縁に座って、湯船の中を覗き込む。時には手を伸ばしてお湯の温度を確かめたりするので、そのうち頭から湯船に転落する日も近いだろうと思っている。

 風呂掃除をしようと栓を抜くと、水が渦を巻くのが面白いらしい。僕が浴槽をスポンジで磨くのも、覗き込んで何をしているのか確認する。そのうち教えたら、風呂掃除くらい覚えてくれるかもしれない。

 考えてみれば、アンの年頃なら、母猫がいろいろと教えている時期なのだろう。とは言うものの、僕に母猫の代わりはできない。ネズミやスズメの捕り方など、覚えてもらうほうが困るのである。

 人間から何も教えてもらえないと思ったのか、アンはテレビで学習する方法を実践している。

 おっ、なんだこの生き物は。

 これは熊かなあ。

 おっ、こいつは鳥のくせに、水の中を泳いでいるではないか。となると、こいつを捕獲するには潜水を覚える必要があるな。というようなことを、きっとアンは考えているのであろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仲がいいんだか、悪いんだか

2020-12-24 11:28:49 | 福島

 掃除機をかけていて、テオとアンの姿が見えないなと思っていたら、畳んだ布団の上で2匹で抱き合って寝ていた。アンは寝ていたところを起こされて、ちょっとだけ不機嫌そうな顔をする。

 はいはい、掃除はすぐに終わるから、ちょっとだけお邪魔させてねとお願いして、2匹の周りに掃除機をかける。ふと、2匹の姿から連想が働き、ジューシーフルーツの代表曲「ジェニーはご機嫌ななめ」を鼻歌で歌いながら2匹のいる部屋を後にする。と言っても、もうだいぶ前に流行った歌だから、知らない人も多いだろうな。

 猫は夜行性なので夜中は元気だが、日中はほとんど眠そうにしている。テオが昼寝をしていると、すぐにテオのお腹やシッポに潜り込み、一緒に寝ていることが多い。目が覚めると、追いかけっこをしたりプロレスをしたりと賑やかだ。そんな種の壁を超えた2匹を見ていると、本当に仲がいいなあと感心してしまう。人間なんて同じ種同士で、いつもヤーヤーやっているのだから。

 そんな2匹の関係も、近頃ちょっと変わって来た。夜、部屋を暗くして本格的に寝る体制に入ると、テオはアンがくっついてくるのが気に入らないらしく、ウーと威嚇する。そのたび、「優しくせんか」と怒られるのだが、それでもアンが懲りずにテオにまとわりついていると、堪忍袋の尾を切らして、ワンと大声で吠える。

 もっともテオの怒るのにも同情するところはある。というのも、夜行性のアンは、暗くなってからのほうが元気になり、寝ている首根っこに飛びついて来たり、胸の上に上がってみたりと、ちっとも寝かしてくれないからだ。

 朝は4時には「腹が減った。朝飯をくれ」と騒々しくなる。もうちょっと寝かしてくれと、二度寝三度寝をしながら、テオの散歩の時間まで布団の中に潜り込んでいるが、アンにとってその時間は、延々と長く感じているようだ。

 以前はいつも最初に起きて散歩を催促していたテオは、近頃は最後まで寝ている。どうやらお兄ちゃんはお疲れ気味の様子だ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アンを描こう」の続き

2020-12-23 11:48:19 | イラスト

 途中になっていたアンの絵を描いた。当初のアイデアは、アンが雪が降り始めた空を見上げる構図にしようと思って始めたが、完成してみると上手く行ったとは言えない。窓やカーテンや、窓の外の枝を切られた桜の木やバラのツルを這わせたパーゴラなどはすべて実在するものだが、画面を整理するために、場所を移動させたり、大きさを変えたりしている。

 窓は寒さを表現するため、窓枠から結露をし始めているふうにしたが、この辺はまったくの空想なので、実際にはどんな具合かわからない。

 普段は使わないぼかしの技法を多用して、遠近感をつけたのと、アンをアニメチックにしたので、なんとなくディズニー映画みたいになってしまった。描けと言われても描けないので、たまにはこんな絵もいいかなと思う。反省点は山のようにあるので、今後の課題にしておこう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンを描こう

2020-12-22 11:39:08 | イラスト

 毎日、年賀状の図案を考えているが、なかなかこれというアイデアが出てこない。テオとアンを登場させることは最初から決めてあるものの、ただ並べて描いても面白みがない。リアルに描くか、それともゆるキャラみたいなテオとアンにするかも悩むところだ。

 で、グズグズしているものの、絵を描きたい意欲はあるので、この前はなるべくリアルに、テオだけの絵を描いた。次はアンだけをモデルに一枚描いておきたい。テオに関しては、今まで何枚か描いているので、ある程度特徴を強調してキャラクターにするのはできそうだが、アンに関してはじっくり描いたことがない。

 じっくり描いたことがない、というのは、別の言い方をすればじっくり見たことがないとも言える。そういうと不思議に聞こえるかもしれないが、僕らはいろんなものを目にして生活しているが、見るということを目的にして見ることはほとんどない。例えば、毎日使っているお茶碗に模様があるとして、その模様を描きなさいと言われると、はたと困る。自分の履いている靴を描きなさいと言われても、思い出しながら正確に描くのは至難のわざだ。というのも、僕らは目の前にあるものの正体がわかった時点で、実は見ることをやめているからである。

 というようなことで、とりあえず一度じっくりとアンを描いてみようと思ったのだ。年賀状の絵柄はその後だ。で、描いたのがこれ。背景をどうするかは頭にあるので、これから続きを描こうと思っている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする