おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

ほんの少しの辛抱

2017-09-30 11:24:48 | 福島

 この前の休みは天気が悪く、次の休みは車の定期点検に行かなければならないので、時間は短いがランニングに出ることにした。

 山登りでも旅行でもそうだが、一旦始めてしまえば楽しいのがわかっていながら、準備の段階は面倒臭くて腰が重い。計画を立てている時や準備をしている時が一番楽しいという人もいるだろうが、僕の場合はそういうのは初めてやる時に限られ、何度もやっているうちに、準備をすっ飛ばして気がついたら始めていたというふうにならないものかなと思うのだ。

 走り始めて30分もすると、体にリズムが生まれ、外を走ることの開放感にひたることができる。できれば、走り始めからそういう気分になりたいものだが、そんなにうまい具合には行かない。スタート直後は胃袋がもたれるし、関節が痛かったり筋肉が思うように動かなかったり、できればやめてしまいたいと思うが、とにかく30分続ければ、普段味わえない自由を謳歌できるのだと自分に言い聞かせて走り続ける。

 いろいろ手を出すが、すぐに飽きてやめてしまう人がいる。おそらくそういう人は、準備の段階や調子が出るまで辛抱できないに違いない。山登りの楽しさも、案外元気な登り始めより、クタクタになって頂上を後にしたときに感じることも多い。達成感以上に、自分が今何かをやっているというその状態というのが、本当のところは一番楽しいのかもしれない。

 川沿いの土手の上を走る。半袖では寒いくらいだが、いつしか頭のてっぺんからも汗が噴き出すほどになると、とりあえず身近な煩雑な用事や世間のことはどうでもよくなってくるのだ。

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大葉で絶品料理

2017-09-29 13:31:45 | 福島

 どこの畑よりも早く、我が家の家庭菜園の大根が大きくなった。春菊も白菜もそこそこ食べられるくらいになり、早速すき焼きにして食べた。ついでに畑の端っこに植えたパクチーを摘んできて、すき焼きを食べるときに溶き卵に混ぜて一緒に食べたら、すき焼きがエスニック料理に早変わりした。以前はパクチーが大の苦手だったが、自分ちで採れたことと、オリジナルメニューを考えることで、最近はパクチーも前ほど嫌ではなくなってきている。食べ物というのは、やはり慣れということが大きいのだ。

 畑にも庭にも植えている大葉が、今年はやたらに元気が良く、せっかく大量に採れたので、どうやって食べるかいろいろ頭を悩ませている。

 大量消費ということで言えば、餃子の具に大葉を刻んで入れるのがいい。今年の夏は、長雨の影響で葉物野菜が高騰していたが、我が家は大葉餃子にすることで、ほとんど野菜を買わずに美味しいものをたらふく食べることができた。

 ただ、さすがに毎日餃子というわけにはいかず、大葉の他のメニューを検討した結果、大葉味噌を作ることにした。これはフキ味噌やネギ味噌と同じで、大量の大葉を刻んで、ミソやミリン、砂糖と一緒に火にかけるだけなので、簡単に作れる。少量のミンチも入れるとコクも出て、ご飯のお供にもなるし、田楽味噌としても使える。

 夕べの晩餐は、この二大大葉料理がテーブルに並んだ。大葉の香りのするヘルシーな餃子と、ほりたてで作った風呂吹き大根、それに大葉味噌をたっぷりかけて食べると、どんな高級料理屋にも負けない献立なのである。

 ああ、ビールがうまい。

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結果がすべての人々

2017-09-28 11:43:26 | 日記

 仕事でも勉強でもスポーツでも、結果が出なくったって、努力することに価値があると言われる。理想を掲げ、それに向けて努力することは、おそらく人として大切なことだろう。

 が、これとはまったく異なる価値観で生きていかなければならない人たちがいる。つまりは、内容はどうであれ、結果だけが求められる人たちで、それは政治家のことだ。

 言ってることはいいことなんだけどなとか、考え方は素晴らしいなんてことを評価するのは、政治家としての質を判断するためには何の役にも立たない。

 思想の立派さだけを言うのなら、マルクスが進めた社会主義だって理想的だ。だからこそ、かつて世界中を席巻した思想だったわけだが、残念なことに結果が出なかった。国民すべての富を一箇所に集め、それを各人の仕事っぷりに応じて不平等にならないように配分する国を、当時は本気で夢見たのである。が、実際には、そんな理想を実行できる人間はほとんどいず、一箇所に集められた富は、それぞれが自分の裁量で懐に入れてしまったのである。

 国民というのは、ひとりひとりが幸福になればいいと考えているだけで、どんな立派な思想でも、失敗の末に不幸のどん底に落とされてしまっては、たまったものではない。もしかしたら、思想はグダグダ、政策はめちゃくちゃだったとしても、奇跡的に偶然うまく行ったとしたら、その結果をもって国民は良しとする。良い結果を出せた政治家が、すなわち良い政治家だ。主義主張は、結果を出さない限り、絵に描いた餅にすぎない。

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社会性

2017-09-27 11:24:51 | 日記

 職場でも学校でも、すぐにキレたり当たり散らしたりする人はいる。自分の感情をコントロールできず、激情に支配される。こういうやからは、実に厄介で扱いにくく、はた迷惑な存在だ。

 本人が機嫌が悪いだけならまだしも、こういう人が身近にいると、たいていの場合こっちの機嫌まで損ね、場の雰囲気を不機嫌が支配してしまう。

 ということは、自分のことを支配もコントロールもできない人に限って、他人を支配したりコントロールしたりしていることになる。それならば逆は真なりか。

 自分のことを完全にコントロールできる人の場合、そんな人は他人に対してどういう影響を与えるだろう。何事があろうと、落ち着き払い、いつも静かに笑っているような人は、おそらく空気みたいな存在だろう。そして、こんな人ばかりなら、世の中は実に平和な世の中になるだろう。

 ないと困るが、あっても気にならない空気みたいなものこそ、社会性の本質なのかもしれない。

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陰気な平和、退屈な幸福

2017-09-26 11:48:46 | 日記

 アランの本を読んでいたら、こんな単語にぶつかった。「陰気な平和」「退屈な幸福」。一見相反する言葉の組み合わせのように感じはするが、立ち止まって考えてみると、いろんなことが見えてくる。

 今みたいに北朝鮮が暴発しそうな時はなおさらだが、僕らは「平和」を願っているが、そんな平和に陰気なものや陽気なものがあるなんて思ってもみない。が、実際平和の話になると、誰もがバラバラなことを言い始めるのは、いろんな立場から平和を見ているからで、その目的地は同じ場所とは限らないだろう。

 第二次大戦後、米ソが核を持ち、お互いを威嚇する冷戦を繰り広げた。が、たとえ冷戦であろうと、米ソの間に戦争はなかったのだから、一応平和は保たれていたと考えることもできる。

 僕らは誰とも喧嘩をしたくないと考えれば、不条理ないちゃもんにも黙って耐えるかもしれない。お互いに本音を言えば言い争いになる時には、誰もが口を閉じてその場をやり過ごすということだってあるだろう。それでも、何事も騒動が起きなければ、結果的には平和な状態が保たれている。が、そんな平和を「陽気な平和」と呼ぶ人はいない。

 占いの世界では、病気をせず、諍いをせず、平穏無事に暮らせることが「幸福」だということになっている。レジャーランドに行けなくても、美味しいものがたらふく食べられなくても、幸福の価値は一向に下がらない。

 が、退屈な人生なんて幸福ではないと感じるから、人間というやつは面倒臭い存在なのである。

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秋模様の休日

2017-09-25 10:24:49 | 福島

 9月も終わりに近づき、すっかり秋の気配が濃厚になった。蝉の鳴き声も聞こえなくなり、高い青空の下、虫の音を聞きながら犬たちを連れての散歩ものんびりした気分にさせてくれる。

 どこの畑よりも早く植えた大根や白菜が立派に育ち、我が家の家庭菜園は成績がいい。大根や白菜といった野菜が大好物のドリは、必ず散歩の時には畑に行こうと駄々をこねる。

 家庭菜園で嬉しそうなドリ。

 そして、立派に成長した我が家の大根。今年の夏は野菜が高騰しているというが、我が家は全然野菜を買わずに済んだのである。

 ニラの花の間に、彼岸花が咲いている。

 キンモクセイが満開を迎え、散歩の時には甘い香りに包まれる。

 柿の実も少しずつ色づいてきた。

 エノコログサにも、アキノエノコログサという種類があるらしい。

 庭に植えられたホオズキが、柵の間から顔を出していた。

 休日を利用して畑で唐辛子と大根を収穫してきた。夏の間、たくさん実をつけてくれたトマトや豆を引き抜き、畑を耕してくる。タマネギを植える準備のためだ。

 そんなこんなで、秋の日の休日はゆっくりと過ぎて行くのであった。

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変身

2017-09-24 11:13:17 | 福島

 近所の人たちとやっている「空の会」の次回のテーマは、「へんしん」だ。ひらがなにしているのは、変身でも返信でも変心でも、自由に発想できるようにしているからで、この言葉からイメージできる絵を描かなければならない。で、いろいろ知恵を絞った結果、「変身」で描くことにした。

 「変身」といって一番初めに思いつくのは、カフカの小説「変身」だ。主人公のグレゴール・ザムザがある朝目を覚ますと毒虫になっていた、という不条理な話は、話としては面白いが、絵に描くとすれば不気味な絵になりそうなので、これはボツだ。だとすれば、やっぱり子供の頃に見た仮面ライダーなどのヒーロー物が主題になりそうだ。

 で、描いたのが、子供たちがヒーローごっこをしている絵だ。

 風呂敷をマントにし、仮面ライダー、スパイダーマン、アンパンマン、ウルトラマン、狐の面とそれぞれにお面をかぶり遊んでいる。今では見かけなくなった昭和な風景かもしれないが、僕はこの絵をノスタルジックな光景として描こうとしたわけではない。

 子供の頃は、誰もがヒーロー、ヒロインに憧れていたはずが、多くの人は、大人になると「どうやってサボろうか」とか「いかに楽ができるか」とか、ヒーローとは真逆の発想しかしなくなってしまう。それが「へんし〜ん」と叫んでいた子供の成れの果てだとすれば、なんとも皮相な感じがする。

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2017-09-23 11:45:57 | 福島

 昨日、テレビで「崖の上のポニョ」をやっていた。アニメを観る根性がなく、人気の宮崎駿の映画といえども、いつも途中で飽きてしまって、最後まで観ることができない。それでも、話の内容はともかくも少しでも観てみようかなと思うのは、映画を作るきっかけになったのが、スタジオジブリが社員旅行で広島の鞆の浦に行った時、その風景に魅せられてポニョの映画のきっかけになったというような話を、以前聞いたことがあるからだ。数ヶ月前に滞在した鞆の浦の風景が、アニメでどう描かれているのか、鞆の浦の雰囲気は残っているのかと、興味が湧く。

 一生の間、旅に出るという機会はそうそう頻繁にあるものではない。漠然と旅に出たいと思ってみても、行動に起こすにはきっかけというのが必要になってくる。それは帰省であったり、見てみたい絶景だったり、遊ぶための施設があったり、休養のための温泉があったりと、目的というものがくっついてくる。

 昔は、行商でもしていなければ、今以上に旅に出ることは稀だった。交通手段もなく、自力で歩くよりほかないとなれば、わざわざ出かけようという気にはならないはずだ。そもそも旅を意味するトラベルという言葉は、語源は「苦労する」ということを表す言葉だった。同じ意味から派生したトラバーユという言葉は、仕事という意味だ。つまり、昔は旅をすることと仕事をすることは、苦労以外の何物でもなかったのである。

 せっかく福島に住んでいるのだからと、芭蕉さんがたどった「奥の細道」ゆかりの場所をなるべく訪れるようにしている。芭蕉さんが「奥の細道」を歩いたのは、西行さんの歩いた場所を訪ねてみたかったからだ。

 秋になり、すっかり涼しくなってくると、体を動かしたくなる。どこか美味しいものを食べに行こうか、紅葉が綺麗な場所に出かけようかと、まるで秋風に乗って移動する雲のように落ち着かなくなってくるのである。

 

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耳を傾ける

2017-09-22 13:07:15 | 里山探検隊

 次第に秋も深まり、つい最近まで鳴いていたツクツクボウシの鳴き声も聞かなくなってしまった。

 部屋を掃除した後、熱いコーヒーをすすりながら、何をするでもなくぼんやりと外の音に耳を傾ける。蝉の鳴き声は聞かれなくなったが、草むらからはジージーと秋の虫の声が聞こえてくる。時々シジュウカラがやってきては、チュクチュクと鳴いている。

 一日のうちで、外の音に耳を澄ます時間というのはどれくらいあるだろう。都会のアパート暮らしでは、車や電車の音、通りを歩く人たちのおしゃべりで、常に音が溢れているが、できればそういう音は耳に入れたくない。仕方がないので、テレビの音を大きくするか、ヘッドフォンをして音楽を聴くかして、とにかく外の音を遮断する。そういった生活が何やら奇妙だということに、都会で生活していてはなかなか気づかないものだ。

 人間は、動物としては取り立てて特別な能力があるわけではない。しかしながら、群れになった時には、地球上で最強の存在になる。かつては地球上に数百万人しかいなかった人間は、今や70億人に到達した。もう、周りの自然に耳を傾ける必要はなくなった。気をつけなければいけないのは、他人の噂くらいなものだろう。

 中秋の名月が近づいてきたので、ススキと満月の絵を描いてみた。

 

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便利な世の中

2017-09-21 13:12:15 | 福島

 世の中は加速度的に便利になっているかのようだ。実際に便利になっているのかどうかは人それぞれで、実際便利になっているのかどうか、怪しいものも多々ある。

 財布を持たずに買い物ができるようになると、いかに便利かを訴えるのは、いつだって売るほうの側だ。電子マネーになろうが、クレジットカードになろうが、買い物にお金がいることに関しては何一つ変わってはいない。掃除を代わりにやってくれるロボットは便利かもしれないが、代わりに働いてもらう代わりに、それだけの費用がかかっていることで言えば、誰かを雇えばいいだけだという話かもしれない。一見便利になったようでも、よくよく考えれば目先のことが変化しただけで、本質は旧態依然としていることはいくらでもある。

 そもそも、便利イコール幸福という図式は、本当にどんな時代にでも通用するような公式なんだろうか。木を擦り合わせて火を起こしていた時代なら、マッチの発明は人類の幸福に貢献したかもしれない。が、物が氾濫し、過剰なサービスが当たり前になった世の中では、便利なようで実は便利の押し売りみたいになっているものばかりが溢れているのかもしれない。

 便利になることは快適になることだ。が、快適なことが幸せなことかというと、そんなに人間は単純ではないに違いない。

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