おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

なぜ多様性がいいのか

2023-06-30 11:17:47 | 日記
 「ビッグデータと人工知能」(西垣通著)を読み終えた。いろいろ知らないことが多い中で、「集合知」ということを初めて知り、大変面白かった。

 あるイベントで、目の前の牛の重さを予想し、一番近い人に賞金を出すというコンテストがあった。参加した人は800人ほどいて、それぞれに想像した数値を投票したのだが、興味深いのは、その総数から平均値を出したところ、本当の牛の重さとの誤差が500g以下という近似値だったのである。

 また、ある大学で教授が学生たちにこんな質問をした。「ここに用意した瓶詰めのゼリービーンズは何個入っているか」。その教室には60人ほどの学生がいたが、それぞれ勝手に出した数値の平均値は、実際に瓶に入っていたゼリービーンズの数850に対し、871とわずか21の誤差しかなかった。おまけに正解数との誤差21内の答えを推測した学生は、わずかひとりだったにも関わらずにである。

 ここから、大勢の人間が出した答えの平均値は正解に限りなく近い、ということがわかってきた。その際、なるべく答えがバラついていたほうが、より正解に近くなるのである。別の言い方をするなら、ある偏見に囚われたグループよりも、さまざまな考えの人間の集まりの方が正解に近い答えを導くことができるということである。「女性がいると会議が長くなる」なんて偏見を持った集まりの会議では、答えは正解からはるかに遠くなってしまうのである。

 こうしたことから、チェスの王者に一般人は勝てるかという実験も試みた。チェスの天才とアマチュア数万人で戦ってみた。アマチュアはそれぞれに次の一手を10分以内に考え、一番多い指し手を選ぶというものである。が、これは30手ほどでチェスの天才が圧勝した。そこで今度はアマチュア側は丸一日かけ、ネットで次の一手を相談したのである。そこではセミアマチュアが解説して話し合いを進めるという方法を取ったが、結果はかろうじて天才が勝つというもので、天才に「これほどの対戦はかつてなかった」と言わせるほど僅差の戦いだったのである。

 ここから、最近耳にするようになった「デジタル民主主義」というものが生まれたことがわかる。政治や行政にひとりの天才は必要ない。数万人、数百万人というアマチュアでも、ネットの世界を利用し話し合うことにより、またその道に詳しい人がアドバイスすることで限りなく正解に近い回答を導き出すことができるという考え方である。大量のデータを一瞬にして処理できるようになった現代では、個々の人間がわざわざ自分たちの代表を選ぶ必要はないのではないか。専門家と呼ばれる人たちに偏見があれば、正解から遠い回答を出すのではないか。

 なぜ多様性のある社会のほうが、より良い社会になるのか。「集合知」という考え方が有効なら、社会が道を踏み外すことが少なくなるからである。
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足の裏

2023-06-29 08:39:12 | 福島
 数日前、散歩の途中で豪雨に遭ってしまった。降り出したと思ったら、次の瞬間にはバケツをひっくり返したような土砂降りで、全力で家まで走り続けたが、全身シャワーを浴びたくらいにびしょ濡れになってしまった。そんなことがあったので、昨日は夕方から土砂降りになるという予報に、早めに家を出ることにした。天気予報では、タイムリミットは降り出すまであと50分なのだ。



 空はまだ明るかったが、15分もすればどんどん怪しげな雲が空を覆い始める。



 急ぎ足で歩きながらも、いつもと違う光の感じに、見慣れた風景も違った印象になる。思わずスマホでパチパチと撮影する。ちなみに全身ずぶ濡れになった経験から、この日はスマホをビニール袋に入れて持って出ているのである。





 家を出てから50分。家まであと5分もないところまで来たときに、ポツポツと雨粒が落ちてくる。予報通りドンピシャの降雨にちょっと感動してしまう。雨は降り出したが、まだまだポツポツなので、家まで無事帰り着くことができた。

 それから5分も経たないうちに、本格的な雨になった。ニュースでは全国的に大荒れの予報になっている。雷の予報なので、臆病なテオのことが心配になる。

 あれ、そう言えばアンの姿が見えないな。あちこち探してみると、天井近くに作ったアンの居場所から、足の裏が見えていた。



 ここを作ったのは数ヶ月前になるが、高すぎたのか自分から上って行くことがなかった。そこで10センチほど低くしたら、それ以来気に入ったのか、自分で上がってはそこで寝ている。すぐ横が網戸なので風も入って来て涼しいはずだ。それにしても、猫の足の裏というのは、どうしてこう可愛いんだろう。しばらく天井を見上げ、ついついシャッターも切ってしまうのであった。
 
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ちょっとガッカリな人工知能

2023-06-28 10:34:39 | イラスト
 昨日に引き続き、テオとアンのイラストをアップする。



 昨日アップした後、改めてテオとアンを観察したら、以前は目立っていたテオの尻尾の色違いの部分があまり目立たなくなっていた。おまけにアンの模様は、尻尾の部分が間違っていたし、顔の模様の特徴も抜けていることに気づき、今日改めて描いてみたのだ。テオの尻尾は、夏毛と冬毛の違いもあるかもしれないので、とりあえずそのままにしておいた。アンは横になるとき、バンザイの形で両手を前に伸ばしていることが多い。

 ところで、今「ビッグデータと人工知能」という本を読んでいるが、そもそも「人工知能とは何か」という解説を読んでいると、最近さかんに宣伝されているAIというものが、まだまだ人間にとってかわりそうにないのに、ちょっとガッカリしてしまった。SF映画のような、コンピュータに支配される世界は、相当先の話なのである。

 AIが進歩したと言っても、ディープラーニング(深層学習)という技術により、それまで難しいと言われていたパターン認識が可能になってきたという段階である。それなのに、すぐにでもAIが人間社会を脅かすように宣伝されているのは、実は多額の研究費を得るために、大げさな宣伝合戦を学者が繰り広げ、それにマスコミが便乗しているという傾向があるからなのだそうだ。そう言われれば、そんな気がする。

 AIは、人間の子供なら5歳でもお使いに行けるようなことが、まだまだできそうにない。近所のお店にお菓子を買いに行かせても、途中の道路が工事中だったり、お店自体が臨時休業だったり、あるいは目的のお菓子が品切れだったりした場合、子供は子供なりに機転を効かせ、別の道を通り、ほかのお店を探したり、ほかのお菓子を求めるといったことができるだろうが、同じことをAIにさせようとすると、道路が工事中だった場合はどうするか、お店が臨時休業だった場合はどうするか、目的の商品が品切れだったらどうするか、すべてプログラムを追加しなければならないのである。

 AIの将棋ソフトが、プロ棋士に勝ったと話題になるが、それは盤面の上だけの限られた空間の話である。対戦中のおやつの時間に、プロ棋士のようにケーキにするか水羊羹にするかといった選択をさせようとすれば、AIの将棋ソフトにそのことを追加しなければならない。

 そういうことなら、自動運転の車だって、豪雨だったり霧が深かったりして前を走る車のテールランプでさえ見えないような時はどうするのか。横殴りの雪により信号機がよく見えないときにはどうするのか。道路が洪水で水没しているときにはどうするのか。自動運転を実用化しようとすれば、これらのことまですべてプログラムしなければならない。

 そこで、最近はプログラム自身が新たにプログラムを上書きするということを開発しているというのだが、そのプログラムを人間が書かなければならない、ということには変わりがないという。
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テオとアンを描いてみよう

2023-06-27 11:02:08 | イラスト
 春に絵画展を開催し、今まで描いてきた絵を披露したので、次はまた別のものを描きたいと思っている。が、思っていたところで、新しい絵ができるわけではない。とにかく手を動かさなければ、1枚の絵でさえ完成することはないのである。

 絵を描いてみたいが、うまく描けない。ピアノを弾いてみたいが、自分には才能がない。そういうことを言い訳にして、途中でやめてしまう人は多い。そういう人たちが思い違いをしているのは、脳みそで思い描いたことをそのまま表現できる人は才能ある人で、思うような成果が出ない自分は、その世界に向かない人間なのだろうと考えていることである。

 彫刻家が硬い大理石に向かってノミを振るう。完成された像が大理石の中に埋もれていて、彫刻家はそれを掘り出している。そういう考えは、大きな勘違いである。大体の理想像というのは彫る前に頭にあるが、実際には彫ってみなければ、何が彫れるかわからないと彫刻家は考えている。わからないから、ノミを振るうとも言える。ピアノの初心者がすぐに諦めてしまうのは、理想では「エリーゼのために」を弾いてみたい自分がいるのに、現実は自分の指がちっとも言うことを聞かないので、ガッカリしてしまうからである。

 「私の人生を小説にしたら、すごく面白いものになるんだけどなあ」と考える人がいるが、そんなものはどこにもない。面白い小説が完成して、初めて描かれた人生が面白いものになるのである。理想像の彫刻など、最初から頭にあるわけではないし、エリーゼのためにを弾ける自分はどこにもいない。大理石を1ミリ削れば、1ミリ削ることができたという経験が現れる。とりあえずドレミが弾ければ、それがその時の実力のすべてだ。

 作家はうまい作品ができて、初めてうまく考えることができたと考える。うまく考えれば必ずうまい作品になるわけではない。

 そう思えば、作品のうまい下手なんてのは、実はどうでもいいことで、今日やったことで自分がひとつ階段を上がったということが大切なのである。そんなことを思い、今日は我が家のテオとアンの絵を描いてみた。いずれ、新しい作品となって現れる日が来るかもしれない。

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垂れ流し状態

2023-06-26 11:07:48 | 日記
 パソコンが、バージョンアップしなさいと言って来たので、指示に従ってアップデートすると、それ以来パソコンが重くなったような気がして仕方ない。最新の状態にしたつもりが、なんだか後退したみたいで、いつになったら快適にサクサク動く時代になるのだろうと思う。確かに、昔はフロッピーディスクでデータをやり取りしていたのだから、比べようもない進歩であることは間違いないのだが、人間というのは何にでもすぐに慣れてしまうので、大して快適になっている気にはなれないのである。

 本屋に立ち寄って、何か軽い読み物でも思い、新書版の「ビッグデータと人工知能 可能性と罠を見極める」(西垣通著)というのを買った。発行は2016年とあるから、すでに7年経っている。日進月歩のコンピュータの世界で、7年という時間は致命的かもしれないが、僕のように専門知識のない人間は、最先端科学の理解は難しく、時代が進んだときに振り返って初めて理解できるのである。

 今では当たり前のビッグデータという存在は、意外と新しい。昔はデータと言えば、お役所や会社で入力したもの、例えばアンケートを取ってそれを集計したり、個人情報を打ち込んだりしていた。そんな時代のデータは微々たるものである。ところが、スマホの登場により、いちいち誰かが手作業で入力する必要はなくなった。誰もがSNSで情報を発信する。ネットで買い物をする。レストランや旅先を検索する。音楽をダウンロードする。アンケートを個別に取らなくても、その人のスマホのデータを収集すれば、趣味や食生活、娯楽や興味の対象など、ありとあらゆる個人データが手に入る。それだけではない。スマホの位置データも記録されるので、その人の行動履歴も把握できる。

 例えば、ある人は運動するのは苦手で、暴飲暴食をするタイプ、読書はしないで間食ばかりしている。肥満気味で成人病一歩手前で病院にもお世話になっている、といった情報が簡単に手に入る。商売をしている側からすれば、データそのものが宝の山なのである。

 最近は何かと言えば、個人情報だから教えられないという。が、実際は垂れ流し状態で、誰にも知らせなくても、肉親が死ねば葬儀屋から案内が来る。お墓の案内が来る。スマホの情報だけで、その人の資産もある程度は想像がついてしまうために、相続税対策のために弁護士事務所からの連絡もあるかもしれない。

 2045年には、人工知能が人間の知能を超えるかもしれないと言われている。が、驚くには当たらない。産業革命以降、人間は人間の力をはるかに超える力を得て、それを利用してきたのだから。そのために地球温暖化のようなリスクも抱え込んでしまったが、それでも人間は新たに得た力を放棄することはなかった。おそらく、人工知能の発達も同じような歴史を歩むに違いない。僕らにできることは、どんな世の中になってもしぶとく生き抜くことだけである。
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臨機応変ということ

2023-06-25 11:14:34 | 日記
 ずっと読んでいた中野剛志著「小林秀雄の政治学」を読み終えた。久しぶりに充実した読書で、最後まで読んだけれども、もう一度最初から読んでみたいなと思わせる内容だった。

 新書版ということもあり、読む前は全然期待していなかった。というのも、新書版の性質もあるが、多くが著者が編集者に話をして、それを編集者がまとめるという形をとっていることが多い(タレントやスポーツ選手の本などに多い)ので、軽い読み物くらいに思っていたのだ。ところが、これまで読んだ小林秀雄に関するどんな評論よりも、小林秀雄という人物に迫る中身で、それをここまでシンプルにわかりやすく解説できるのかと驚いた。

 筆者の中野剛志さんは、1971年生まれだから、小林秀雄は過去の人である。おまけに中野さん自身が政治学の人なので、文学とはほとんど無縁である。そういう人が、どんな文学者よりもよく解説できるというのは、かえって違う畑の人だけに、本質を掴みやすいということがあったに違いない。

 小林秀雄が政治に対してどういう考えでいたか、ということをここで説明するつもりはない。それ以上に、政治というものを、わかりやすく解説してくれていることで、今の政治の歪みというのが実によく理解できた。

 そもそも政治とは、人が暮らしやすい環境を作ることを目的としている。古くなった道路や水道管を新しくする、物価の変動が激しければ安定するようにする、隣の国と戦争しそうになればそれを回避する努力をする。それが政治である。それは哲学や文学と違って、臨機応変に対応する実務の世界であり、それ以外のものではない。だから結果さえ良ければ、途中どういう経路をたどろうと、最終的に暮らしやすい世の中になれば問題ない。これが文学や哲学となると真逆で、結論が正解だから途中が間違っていてもいいのか、と言えばそんなことはない。答えはどうあれ、その道筋が大切なのである。

 国民にとって最良の政治とは、問題が生じたときに臨機応変にフットワーク軽く対応し、暮らしやすさを取り戻してくれることである。

 ところが、ここにイデオロギーというものが登場する。政治思想というやつだ。例えば中国は、共産主義の国である。その主義を貫くために共産党が国を指導する。こうなると、イデオロギーのために臨機応変な対応などは難しくなる。主義を曲げてでも実務を行うことは、認められないからである。

 国民からすれば、自分たちの暮らしが安全で暮らしやすければ、何主義でもかまわない。困ったことにすぐに対応して解決してくれるのが、優れた政治である。

 共産主義者という言葉はあるが、民主主義者という言葉は聞かない。「私は民主主義者だ」と主張する人を目にすることはない。ところが、「民主主義とは人権と平等を目指す思想である」と言い出すと、おかしなことになってくる。イデオロギーの前では、政治の臨機応変な対応は難しくなってくるからである。

 日本という国が、どんな国とも戦わなくてもいいように努力をする、という政治を行うなら、臨機応変に対応を変化させ、なんとか戦争を回避するという道を取るだろう。が、平和主義といったイデオロギーが政治に介入してくると、共産主義を貫こうとする中国のように、平和主義の名の下に、硬直した世界になってしまうだろう。なぜなら、主義を貫くために、国民の犠牲を求めるようになるからだ。
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名札が大事

2023-06-24 08:46:59 | 日記
 大勢の人の中で、知り合いの顔を見つける。「ああ、あの人だ」と思えば、もうその人のことをよく知ろうとはしない。ところが、ひょっとした時に、「あれ、そんな顔だったっけ」ということになれば、改めてしげしげと観察するということになる。



 「見る」という時には、ふたつの見方がある。知り合いを見つけるとか、商品棚から欲しい商品を見つけるという時には、対象が何かがわかった瞬間に、人は見ることをやめている。僕たちが生活している上で行なっている「見る」という行為のほとんどはこれだ。「あれ、そんな顔だったっけ」と改めてしげしげ見るときには、対象を新鮮な目で見て観察している。



 どうして「見る」という行為に、こうしたふたつの見方が存在するかと言えば、いちいち新鮮な目で見ていては、生活するのが大変になるからだ。だから、経験の少ない子供の頃は常に新鮮な目で世界を見ていたとしても、経験を積むに従って生活を滞りなく行うために、対象物に名札をつけ始める。名札を見て、それが何かさえわかれば、あとはじっくり観察する必要がない。



 ところが、あちこちに名札をつけまくった結果、大人は新鮮な目で「見る」ということができなくなってくる。その結果、バッグを買うにもその製品の質ではなく、ブランド名や値段が大事になってくる。観光地や行列のできるレストランに出かけても、その内容よりもそこに出かけたという名札を持って帰ることが大事になる。それを披露された人も、経験してきた内容よりも、その人の話に出てくる名札に興味を示す、ということになってくる。



 絵画を見るのに、「見方がわからない」という人がいるが、わからないということがすでにおかしなことになっている。その人がわからないと言っているのは、名札が見つからないと言っているに過ぎない。ゴッホの「ひまわり」を見ても、ゴッホ作「ひまわり」という名札を発見すれば、もう見るのをやめている。が、絵画鑑賞の楽しみとは、名札ではなく、目の前にある対象物を新鮮な目で経験することだ。これは絵画に限らず、芸術一般に同じことが言える。



 そんなことを考えながら散歩に出ると、毎日目にしている景色も、自分で名札をつけた結果、何も見えていないということも多いだろうと感じる。もしかしたら大切なことを見逃しているのではないか、目の前にあるためにかえって見えなくなっているものがあるのではないか。そう思うと、世界がいかに広いのか、今更ながら驚いてしまうアベさんなのである。
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畑の花

2023-06-23 10:58:44 | 福島
 雨が続いているので、テオの散歩がどうしても短めになる。外がびしょびしょなので、中庭にも出してやれず、ストレスが溜まっているのか、テオはアンを追いかけ回しては、遊んでもらおうとちょっかいばかり出す。



 と言っても、テオの方は手加減をして、攻撃方法はもっぱら押さえ込みだ。それに引き換えアンの得意技は前方一回転半捻りのフライングアタック、テオの足に齧り付き、後ろ足でバタバタと引っ掻き攻撃、逃げるテオを後ろから追いかけ、首根っこにかぶりつく。「うるさい。外でやれ」と言っても、この雨では家の中が運動場と化すのである。

 午後から再び雨の予報なので、雨が上がっている間に畑にオクラの苗を植えに行くことにする。ずいぶん前にもらっていたが、植える場所がなくてそのままになっているうちに、どんどん背丈を伸ばしていたのである。



 今年は例年になく頻繁に畑に出ているので、雑草も少なく我ながら花壇のようだと感心する。

 この前テレビで、「今でしょ」でおなじみの林修さんがクイズに出ていて、花の写真で何の野菜かを当てる問題に答えられないのを見て、博学の人でも案外こんなことは知らないんだなあと意外だった。野菜だって植物だから花が咲く。が、野菜と言えばスーパーで並んでいるところか、料理になってしまったものしか見る機会のない人にとっては、野菜の花の見分けはつかなくても仕方ないのかもしれない。



 キュウリの花。



 ミニトマトの花。



 春菊の花。



 ズッキーニの花。

 野菜の花は黄色が多い。



 ナスの花。



 ジャガイモの花。

 あと野菜の花で多いのは、紫や白だ。

 花が咲かないと、実はならない。こんな当たり前のことも、案外忘れられているように思う。
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集団健診に行く

2023-06-22 11:41:53 | 福島
 去年、コロナも収束してきたからと思い、町の集団健診に予約をした。その後、突然の用事で大分に行き、集団健診の日にちが過ぎた頃、「ああ、予約していたの忘れてた」ということで、すっぽかしてしまった。

 今年も大分に行く用事があったが、集団健診までに福島に戻って来ればいいやと、予約した。大分で生活している途中で、「あれ、予約ってしてきたっけ」と、記憶をたどっても全然思い出せないので、タミちゃんに役場に電話して聞いてもらった。結果、「予約してあるって」と確認してもらった。

 今日、集団検診の日だと、朝準備をしていて、朝8時開始というのがどうにも引っかかる。というのも、朧げながら予約した時に、時間も細かく分けられていた気がしたからだ。が、確認しようにも8時半にならなければ役場は開かない。とにかく健診の会場まで行ってみるしかない。

 会場に8時前に到着すると、駐車場に車は1台もない。来ているはずのレントゲン車もない。やっぱり8時開始はあり得ない。で、会場の係の人が来るのを待って確認すると、僕の予約は10時から10時半になっていた。2時間も待つ気にはなれないので、一旦家に帰ることにした。

 というわけで、再び間抜けな顔をして出かけたわけだが、細かく予約時間を区切っているおかげで、健診はスムーズに流れ、あっという間に終わった。こういうやり方のほうが、一斉に狭い会場でやるより全然いいのである。

 健診では、身長が若い頃より2センチ低くなっていた。どんどんジジイになって行くなあ。血圧は数日前に測った時には上が110で正常だったが、今日の検診では2回測って2回とも160を超えていた。お医者さんに「普段は110くらいなんですけどね」と説明すると、「問題ないでしょう」とのこと。但し、町から送られてくる健診結果では、血圧が160、要診察みたいに書かれてくるんだろう。でも、そんなの無視、無視。血圧が130超えたら要注意というが、160を超えていても僕は平気なのだ。きっと、集団健診という場に、心臓がド緊張してバクバクしていたに違いないのだ。
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朝飯の話

2023-06-21 12:37:50 | 日記
 畑で野菜が採れ始めたため、毎回の食事でこれでもかというほど野菜の消費量を増やさないとならなくなった。この暑さで、葉物野菜はすぐにダメになってしまうからだ。我が家では、レタスと春菊、キャベツがこれでもかというくらい冷蔵庫に入っている。そろそろキュウリやナスが収穫時期となるので、ますます野菜ばかりの食事になりそうだ。

 せっかく収穫しても、ダメにしてしまうというのはあまりに残念だ。どうやったら大量消費できるかレシピを調べたりして、いろいろ工夫している。春菊はお浸しだけでなく、汁物にも入れるし、白和にもする。昨夜は大量に天ぷらにした。レタスはひたすらサラダで食べる。キャベツは生で食べるよりもスープやシチューにするか炒めるかして、大量消費を目指す。

 と、そんなことばかりやっていると、さすがに胃袋が疲れてくる。そうなると、朝はお粥にしようかとなって、週に一度は朝粥の日ができてしまう。

 Yahoo!ニュースを見ていたら、朝食のベスト3とワースト3が出ていた。何を食べれば快適に1日が始められるかということを目指す記事だが、ベスト3は果物、生野菜、玄米プラス納豆というのが一番いいらしい。果物は毎日は無理でも、我が家の朝食は野菜、ご飯、納豆というのが定番なので、かなり成績がいい。

 ワースト3は、菓子パン、ハム、ウインナー、ベーコンといった加工肉、それから意外なところでスムージーがランクインしている。 菓子パンなんか朝から食いたくない。加工肉はご飯やパンに合うが、大腸癌のリスクが2割近く増すという理由がワーストの根拠らしい。スムージーは、一時タミちゃんがハマって、よく朝にたっぷり飲まされていたが、これは噛むという行為がないために、それで腹一杯にすると噛まないために唾液の分泌が少なくなり、かえって消化に悪かったりするらしい。そういえば、確かにスムージーを摂ると、健診のバリウムみたいにしばらく胃袋が重いのである。

 たかが朝飯、されど朝飯ということか。
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