おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

不思議な世界の一員であること

2018-05-31 11:26:50 | 福島

 この一年、里山探検隊と題して里山の草花や虫や鳥の絵を描いてきた。今はその次の段階として、それぞれの絵に短い文章で説明を付け加えている。

 絵は本来絵だけで勝負するべきで、説明文をくっつけるなどというのは蛇足以外の何物でもなく、邪道だという人もいるだろうが、多くの人がヘクソカズラの花やひっつき虫と呼ばれている種の名前を知らないので、最小限の説明が必要だと考えたのである。でなければ、「何の花かわからないけど、花の絵が描いてある。雑草がたくさん描いてある」と思われた瞬間、絵の価値はなくなってしまうからだ。

 で、毎日少しずつ図鑑やネットで調べながら説明文を考えていると、自然界に存在する生きものが、いかに巧妙で繊細で、信じられないくらい精巧な仕組みになっているかに感心する。

 動けない植物が、動物の力を借りたり、風の力を利用したり、自らの力で飛ばしたりしながら種をばらまく。花は受粉させるために、虫の好みに合わせて花を咲かせる。地面を這っている虫に対しては、花を下向きに咲かせ、小さな虫に対しては小さな花を咲かせる。黄色を好む虫には黄色い花をつける。

 どこに脳みそがあるのか知らないが、すべての生物には知恵があり、思考する能力があり、変化する力がある。

 今更ながら、本当にこの世は不思議に満ちている。おまけに、その巧妙で繊細で精巧にできているこの世界は、人間の都合に合わせてできあがっているわけでも、人間の生活のために存在しているわけでもない、ということを思い出させてくれる。

 僕らは普段、日常生活と自然界というものを重ねて意識はしていないどころか、まるで宇宙ステーションで暮らしているかのように、すべてが人間のために管理されている空間で生活していると無意識に感じている。不思議な世界の一員であることをやめても、生きていけると盲目的に信じているかのようだ。

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雷怖い

2018-05-30 11:31:39 | 福島

 九州のほうは梅雨入りしたらしい。東北もすぐに梅雨に入ってしまうだろう。

 数年前に北海道を目指して旅行したときは、九州を出発したのがちょうど梅雨入りした時で、梅雨より早く北海道までたどり着ければいいなと思っていたが、鳥取砂丘あたりで梅雨に捕まり、それから北海道に着くまではずっと雨にたたられた。もっとも雨のおかげで車内もそれなりに涼しく、一緒だったトトも夏バテすることなく北海道まで行くことができた。

 昨日あたりから福島も天気が悪くなり、空は鉛色をして、いかにも梅雨になりますよと言っているようだ。昨日は、遠くで雷がなっているなと思ったら、バラバラと大粒の雨が降り始め、あわててあちこちの窓を閉める。ゴロゴロと雷も近くで鳴り出した途端、雷が怖くて仕方がない外につないだドリがワサワサとうるさくなった。

 様子を見に行くと、そんなことをしても何の役にも立たないのに、花壇に入り土を掘り返している。もしもの時のために、自分用の墓穴を掘っているのか。

 ただ、花壇のその箇所には、この前入院見舞いに行ったジイさんが入院前にくれた花が植わっていて、我が家ではそれをトトの花と呼んでいるのだ。トトが生きているときにも、ずいぶんトトを頼りにしていたが、死後もまだトトを頼りにしようとしているのだろう。

 ただ、以前よりドリも耳が遠くなってきたので、雷が遠ざかればおとなしくなる。元気な頃は、人間の耳に届かないうちから大騒ぎしていただけに、ドリもおとなしくなったものだと思う。

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お役所の書類

2018-05-29 09:23:20 | 日記

 図書館から借りてきた「ゴッホの耳 天才画家最大の謎」という本を読んでいる。ゴッホの伝記についてはかなりの数を読んでいるし、伝記作家が参考にしているゴッホの書簡全集も何度か読み返しているので、ゴッホに関する新発見というものに出会うことはほとんどない。時々、思い出したように別の見方をすることができるというような新説はあるが、ゴッホの生きた時代は次第に遠くなり、ゴッホの評価もすでに定着している。

 それにもかかわらず、今回借りてきた本はかなり面白い。というのが、作者はゴッホ研究家というわけではなく、たまたまアルルに引っ越したことから、調べてみようかと思いついただけで、発端は有名な耳切り事件が、耳をどのくらい切ったのか、いまだにはっきりしないことにあった。

 事件の衝撃性から、世間的には左耳を根こそぎ切り落としたのだろうと思っている人は多いだろうが、ほとんどの伝記は耳たぶの一部ということになっている。ところが、作者が調べてみると、耳たぶの一部というのは知り合いがそう言ったということを根拠にしており、証拠となるようなものが何ひとつない。

 そこで作者は遠回りになるかもしれないと思いながらも、アルルのその当時の住民台帳を作ることから始める。第二次大戦ですっかり破壊され、昔の面影を残していない町を復元し、どんな住民がどこに住んでいたかというデータベースを作るため、役所の書類を求めて奔走する。そのうちに、今まで発見されていなかったゴッホの耳に関する医者の記録が出てきたのである。それには耳たぶの一部を残して、ほとんど全部を切り落とした図まで書いてあった。

 ゴッホはその後、精神に異常をきたした人物ということで、町の住民による嘆願書で精神病院送りとなる。これにはゴッホは絶望してしまうのだが、作者の調べで、30名足らずの署名の中には同じ人物の筆跡もあることがわかる。ゴッホを精神病院に送り込もうとしたのは、ゴッホに部屋を貸している人物だったのである。商業施設を作るにはもってこいの場所にあり、ゴッホによって改装工事まで行われた下宿は、ゴッホを立ち退かせることにより、タバコ屋にする予定だったのである。

 こうした調査の元になった書類は、実は100年以上たち、ようやく最近になって役所から公開されるようになったのである。というのも、カーク・ダグラス主演で有名になった映画「炎の人ゴッホ」により、アルルは世界中から観光客が訪れる観光地に変身した。それには映画のイメージを守る必要があった。ゴッホにはどうしても精神異常者としてもらわなければならない事情があったのである。

 こういう話を読んでいると、思わず日本のお役所の忖度を想像してしまう。一部の人の利益を優先させるため、その土地のため、国のためという大義名分でもって都合の悪い事実を隠そうとするのは、どこの国でも、どんな時代でも似たようなものなのだ。

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夏のジョギング

2018-05-28 14:34:06 | 福島

 天気予報は一日曇り、もしかしたら雨が降るかもしれないという。ランニングするには晴天より、曇り空くらいのほうが走りやすかったりするので、朝食後に着替えて家を出る。雨に降られても面倒なので、なるべく家の近くを走ろうと、阿武隈川沿いに行ったり来たりする。

 30分間せっせと走り、汗だくになったところで休憩をとる。天気予報は外れたようで、時々雲が切れて晴れ間が出る。陽が差すと、急にうだるような暑さになり、体力が奪われて行く。夏のランニングにとって何よりも強敵なのは、太陽だ。マラソン大会のように何も持たずに走っても途中で補給所があるのと違い、ひとりでジョギングをするとなると、たっぷり水分を持参しなければならず、背中のリュックが重くなる。

 阿武隈川はすっかり夏の景色で、木立からカッコーの声が聞こえる。前回は、オオルリらしき青い鳥も見かけたので、今日は熱心に走らず、川や木々を眺めながら歩くことにする。姿は見えないが、すぐ近くの草むらでキジがケーンと鳴く。空高く、トンビがくるりと輪を描いて飛んでいる。お陽様が川面をキラキラと照らしている。

 汚いからやめておくが、これが山奥の清流なら、すぐにでも靴を脱いで足を川に突っ込んでみるんだがなあ。

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ジャガイモの花を見に行く

2018-05-27 11:27:11 | 福島

 昨日、我が家の菜園の草取りとジャガイモの消毒をしたので、今朝はどうなっているか見に行くことにした。

 春から夏にかけて、田んぼのあぜ道や家の庭先に咲く花も少しずつ変わって行く。タンポポやオオイヌノフグリといった道ばたの花は姿を消し、シロツメクサやムラサキツメクサ、ヒメジョオンに除虫菊といった花が勢力を伸ばす。もう少しすれば、梅雨時期の花としてタチアオイやアジサイが目を引くようになる。

 藤や桐といった木々の花が終わると、次は山法師が目立ち始める。

 毎日同じようなコースを犬とともに歩いていても、日々様子は変わって行く。

 昨日草取りをした我が家の菜園は、雑草がすっかりしおれ、きれいになっていた。近所の家庭菜園を見ても、我が家のジャガイモほど大きくなっているものにはお目にかかれない。今年はすごく成績がいい。おまけに、ジャガイモの花も咲き始めている。

 ガーデニングが趣味という人でも、畑でもやっていなければ、案外野菜の花というのは気がつかないかもしれない。ジャガイモにはジャガイモの、キュウリにはキュウリの、トマトにはトマトの、ナスにはナスの花が咲く。こんな当たり前のことでも、その花を見ただけではどんな野菜が育つのかまったくわからないというのでは、なんだか生活が殺伐としているような気がする。

 しかしながら、今の世の中は、そんなものがわかるよりは、英単語のひとつでも多く覚えたほうがいいと言うだろう。

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ジャガイモの消毒

2018-05-26 11:04:15 | 福島

 ジャガイモが大きくなり、そろそろ花が咲き始めた。葉っぱがで始めた頃に消毒しているが、もう一度くらい消毒しなければ、あっという間に虫に食われてしまいそうだ。一昨年はこれで失敗した。いくら農薬を使うのはイヤだと言ったところで、全滅してしまってはガッカリだ。除草剤は使う気はないが、葉っぱの消毒くらいは目をつぶろう。

 去年、エルサン剤という粉末の消毒薬を使って豊作だったので、今年も手ぬぐいで作った袋に入れてパタパタと葉っぱに振りかけた。葉っぱにはてんとう虫に似たテントウムシダマシ というのが、四、五匹ウロウロしていた。こいつが悪さをする。こいつを寄り付かせないようにするのが重要だが、ただし、せっかく花が咲いた時に虫が受粉に来られなくなったら元も子もない。その辺のさじ加減がわからないが、とにかく適当だ。いつも適当だ。

 ついでなので、鍬で畑の草取りもやる。以前はどこに我が家の畑が隠れているのかわからず、草取りというより畑を掘り出すのに近かったが、今年は真面目に畑に通っているので、見違えるような畑になっている。

 畑仕事の後にスーパーに行くつもりでいたが、1時間もやると汗だくになり、顔を洗い着替えないことにはどこへも行く気になれなくなった。しょうがない、一度帰って出直すことにするか。

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オロオロする

2018-05-25 11:09:52 | 日記

 午前4時には明るくなってくる。涼しく静かな時間を寝て過ごすのはもったいないので、近頃は夜は早く寝るようにして、絵を描いたり本を読んだりと集中してやりたいことを、朝の散歩までの短い時間にやるようにしている。夜はどうしても晩酌もしたいし、酔いが回ってくると頭の回転も鈍くなり、やらなきゃなと思っているうちに眠くなってしまうのである。

 今日も4時には起床し、顔を洗いコーヒーを淹れ、パソコンの前に向かうと、立ち上げた僕のブログ「おっさんひとり犬いっぴき」が閲覧できなくなっているではないか。正確にいえば、開きそうになるのだが、記事中の広告が開いた瞬間に、僕のページはその広告のバナーだけの表示になってしまうのだ。

 げげっ、もしかしたらウイルスに感染したか。早朝から冷や汗をかきながら何度もアクセスし直すが、症状は変わらない。料金未払いで通信を切られたのなら、ネット自体に繋がらなくなるが、症状はすべてのネットの記事のうち、僕のブログだけが見られない。これはどう見ても僕のパソコンに不具合がある。

 慌ててパソコン内の修復機能を使ったり、ルーターを繋ぎなおしたりするが、何も変わらない。ところが念のためにほかのノートパソコンで閲覧してみると、こちらも僕のブログだけが閲覧できないではないか。一体何が起こっているのだ。やはりプロバイダーかgooブログ自体に問題があるのか。

 呆然をする中、何気なくほかのブラウザで閲覧を試してみると、なんとなんとちゃんと繋がるではないか。これは一体どういうことか。SafariでもGoogle chromeでもダメなものが、Internet Exploreなら閲覧可能なんて。だったら、Firefoxで試してみるかとダウンロードすると、ちゃんと見ることができるではないか。もしかしたらパソコンに保存されている情報に問題があるのかもしれないと、お気に入りから削除して、改めて立ち上げなおしたりしていたら、いつの間にやら正常に動くようになっていた。

 ああ、わからん。わからんけど、とにかく元に戻って安心した。

 それにしても、せっかく早起きしたのに、こんなことに数時間を費やした。便利なものとは一旦不具合が生じたとき、どれだけオロオロしなければならないか。おそらく、そのオロオロ度数は、便利さが高いほど比例して高くなるに違いない。スマホに自動運転車、オール電化の家、近い将来、すべての物がネットに繋がるIot世界が訪れるというが、その時人類はオロオロの極致にいることになるだろう。

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大人のレベル

2018-05-24 11:25:06 | 日記

 日本中で話題沸騰の話なのでわざわざここに書く必要もないのだが、何か書こうと思うと、どうしても頭をよぎるのは日大アメフト部の反則行為のことだ。仕方がないから、少しだけ書いておくことにする。と言っても事件自体は有名なので、ただ感じたことだけにする。

 監督、コーチの指示で悪質な反則行為を犯した選手は、謝罪と反省のために大勢のマスコミの前に姿を表し、真摯に記者会見をした。若干二十歳の若者が、あれだけ多くの人の前で謝罪会見をする姿に、反則行為はダメだとしても、その態度に「最近の若者には珍しくしっかりしている」と感じたのではないだろうか。もし、あの場に立つのが自分だったらと考えるだけで、舌がもつれ、膝がガクガクと震えそうなのだから。

 ところが、翌日には共犯でもある監督とコーチが記者会見をした。そのグダグダ具合は前日の若者の記者会見とあまりに落差が大きかっただっただけに、ニュースを見た人は「近頃の大人は、人間としてのレベルがかなり落ちてきているんじゃないか」と心配になったのではないだろうか。誰が見ても教育者とか指導者と呼ぶには正反対に位置する人たちだったからだ。

 このグダグダ会見にはおまけがついた。司会を務めた日大広報部の人間が、長くなった記者会見を無理やり打ち切ろうとした。「もう、十分話しましたからこの辺で」
「まだ、納得していないのだから、もう少し話が聞きたい」 
「納得してもらうことが前提ではないので」
「そんなことを言うと、日大のブランドが落ちますよ」
「落ちません」
 と言うような前代未聞の終わり方をしたのだ。

 よくそれで広報が務まるなと思っていたら、なんとこの司会者は、前職が共同通信社の記者だという。この前まで記者だった人間なら、会見に集まった記者たちの心情は心得ているはずである。と、期待するのは間違いのようだ。まるで昨日まではきつい年貢に苦しんでいたお百姓が、越後屋に就職した途端、悪代官と一緒になってお百姓をいじめるような構図なのだ。こんなのはドラマのシナリオにもならないが、現実世界では、大人の劣化により、そのくらいのドラマしか演じられなくなっているのである。

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嘘も方便

2018-05-23 11:28:47 | 日記

 小さい頃は嘘をついてはいけないと教えられる。嘘つきは泥棒の始まりとも言う。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると告げられる。子供はそのことに震え上がり、嘘はいけないことだと肝に銘じる。が、何が何でも正直でなければならないかと言うと、大きくなるに従ってそうではないことを学ばなければならない。

 例えば、家族で出かけたレストランで、子供が便意をもよおし、「ママ、ウンコ」と大声をあげれば、ほとんどの場合、大きな声を出すんじゃないとたしなめられるだろう。嘘をついてはいけないと教えられた子供にすれば、ウンコがしたいのにしたいと言えないのはおかしいと考える。そこには他人への共感性というものがあり、食事中に横で「ウンコ」と言われたほかのお客さんが気分を害することを察しなければならない。どんなにウンコがしたくても、自分を抑え母親の耳元でそっと囁かなければならないのである。

 こうした共感性を学ばなかった子供はどういう大人になるかというと、「セクハラ罪って罪は存在するんですか」と開き直る政治家みたいになる。「ボクちゃん、法律に則って間違ったこと言ってないからね」と堂々としている。聞いた人がどういう気持ちになるか、共感性を育てることがないままに育ったいい例である。

 嘘も方便という。が、これも共感性がなければただのデタラメになってしまう。相手のことをおもんばかって本当のことを言わないでいる、というのは大人の態度だが、自分の保身ばかりを考えて自分に都合のいい嘘ばかりをつくのは、ただの言い逃れであり、この場合は嘘も方便とは言わない。

 共感性というのを育てるのは難しいようだ。その証拠に、官僚とか総理大臣とか、学長とか監督と呼ばれるようになったような人たちでも、その発言はそれを聞く人たちの気持ちを忖度することがないのだから。

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自分の実力

2018-05-22 11:22:15 | 福島

 わかっているようで、全然わかっていないのが自分の実力だ。こればっかりは他人の評価を待たなければ、自分ではなんとも言えない。過小評価している気もするし、でなければ自惚れている気もするしで、どのみち他人が評価するにしても、それを受け入れられるかどうかは、怪しいものだ。

 山登りをする人なら一度くらいは名前を聞いたことがあるだろう、登山家の栗城さんがエベレスト登頂の失敗後、下山中に死んだ。今回の挑戦が八度目ということもあって、口の悪い人は「彼は登山家ではなく、下山家だ」と言っていた。

 経歴を見れば、無酸素単独登頂で七大大陸の最高峰のうち六つを制覇し、残るはエベレストだけとなっているが、実際には難しい山のほとんどはヒマラヤに集中していて、七大大陸最高峰と言っても、残りは大したことがない。同じく若くして七大大陸の最高峰を制覇した野口さんの本を読むと、オーストラリア大陸の最高峰なんてのは大した高さじゃない上に、ロープウェーが通っていて、頂上に登るのはハイキング程度らしい。しいて難度から言えば、冒険家の植村さんが行方不明になったアラスカ、マッキンリーの冬期登山くらいだという。

 栗城さんの登山は、登山家仲間の間では無謀な挑戦だと思われていた。例えれば、大学生が大リーグのホームラン王を目指すくらい実力差があった。野口さんも死にたくなければ、無酸素を止めるか、単独を止めるかどちらかを捨てなければ登頂は無理だと忠告していた。

 それでも、登り続けたのは、おそらく彼自身にしかわからないことだ。ただ、登山も突き詰めて行けば、楽勝で登ってこれるような登山なら、挑戦とは言わない。余力が残っていれば、次はもっとハードルの高い登山に挑戦しようと考える。つまり、最も良い登山とは、生死の境をさまようようなギリギリの戦いの中で帰還することとなる。登山家や冒険家の多くが死ぬ原因はここにある。それをバカだと思うか、素晴らしいと感じるかは、その人が人生に望んでいるものによって変わってくるだろう。

 

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