自民党総裁に岸田さんが選ばれた。今回の総裁選では、4人の候補者が出て論争を繰り広げ、いつになく新しい自民党をアピールできたという人もいる。
が、僕は今回の総裁選でガッカリしたことがある。ガッカリを通り越して、悲しくさえあった。それは候補者の誰も、拉致被害者の救出について本気で取り上げた人がいなかったからだ。総裁に選ばれた岸田さんは、早速挨拶で経済やコロナ対策について話をしていたが、経済なんてのは民間が主体で動かして行くものである。伝染病に関しては、医療や感染症の専門家が主になってやることであり、それに対して国民が協力をして行くものである。極端な話、どちらも政治家がいなくてもなんとかやって行けるたぐいのものだ。
それに対して、拉致被害者の救出という問題は、政治家しか解決できないことである。武力を持って救出するというのなら政治家はいらないかもしれないが、日本は武力による解決を放棄した以上、政治家に頑張ってもらわなければ、半歩だって進まない問題なのである。
今の政治家の発言を見ていると、積極的に語らないということから、拉致被害の問題はすでに見送られ、なるべく触れないでおこうと考えている案件であることが透けて見えてくる。新しい総理大臣に期待し続けて来た拉致被害者家族のことを思うと、今回の総裁選を見る限り、悲しくなるばかりであった。
「表紙を変えただけで中身が変わっていない」と批判するほかの党にしたところで、枝野さんにしろ志位さんにしろ山口さんにしろ、一体いつまで代表を続けているんですかと言いたい。表紙が変わらなければ、中身が変わらないと考えるのが普通である。振り返れば自民党は少なくとも表紙だけは頻繁に変わっているのだから、旧態依然とした政治を変えるのは、まず野党からだろう。
最近気になるのは、総理大臣にしろ他の大臣にしろ、一般の議員にしろ、「仮の話には答えられない」と返答を拒否することが多々見受けられることである。
「仮の話をする」というのは、科学的な思考としては当たり前の方法である。湯川秀樹博士は、中性子の存在を予想し、それをほかの科学者が証明することでノーベル賞を受賞した。アインシュタインの一般相対性理論も、ほかの学者が重力による光の屈折が理論通りなのを観測し、証明されたのである。
「仮の話をする」というのは、契約においてもごくごく当たり前のことである。車の保険だって、事故が起きたときにはどうするかという仮定の話を元に進める。仮の話をしておかなければ、事故を起こしたときにとんでもない目に遭うことは分かり切っている。
日本人は契約が下手くそだと言われるのは、偉い人ほど「仮の話をする」ことができないからである。原子力発電所を作る際、事故を起こしたらどうするかという仮の話はしないことになっている。東京オリンピックの開催によってコロナの新規感染者が爆発的に増えたらどうするかという話も、仮の話なのでしないことになっている。卑近なところでは、会社の上司でも「仮の話はするな」という人間もいる。まるで仮の話をするヤツは、オツムが弱いとでも言いたげだ。
が、たくさんの仮の話をしないということは、アイデアも出てこないということであり、そうなると間違ったアイデアでも、それをやり続けるしかないというバカなことになる。1年前に、無用の長物でもあったアベノマスクを配り続けたのがそのいい例である。