おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

仮の話をせよ

2021-09-30 10:03:36 | 日記

 自民党総裁に岸田さんが選ばれた。今回の総裁選では、4人の候補者が出て論争を繰り広げ、いつになく新しい自民党をアピールできたという人もいる。

 が、僕は今回の総裁選でガッカリしたことがある。ガッカリを通り越して、悲しくさえあった。それは候補者の誰も、拉致被害者の救出について本気で取り上げた人がいなかったからだ。総裁に選ばれた岸田さんは、早速挨拶で経済やコロナ対策について話をしていたが、経済なんてのは民間が主体で動かして行くものである。伝染病に関しては、医療や感染症の専門家が主になってやることであり、それに対して国民が協力をして行くものである。極端な話、どちらも政治家がいなくてもなんとかやって行けるたぐいのものだ。

 それに対して、拉致被害者の救出という問題は、政治家しか解決できないことである。武力を持って救出するというのなら政治家はいらないかもしれないが、日本は武力による解決を放棄した以上、政治家に頑張ってもらわなければ、半歩だって進まない問題なのである。

 今の政治家の発言を見ていると、積極的に語らないということから、拉致被害の問題はすでに見送られ、なるべく触れないでおこうと考えている案件であることが透けて見えてくる。新しい総理大臣に期待し続けて来た拉致被害者家族のことを思うと、今回の総裁選を見る限り、悲しくなるばかりであった。

 「表紙を変えただけで中身が変わっていない」と批判するほかの党にしたところで、枝野さんにしろ志位さんにしろ山口さんにしろ、一体いつまで代表を続けているんですかと言いたい。表紙が変わらなければ、中身が変わらないと考えるのが普通である。振り返れば自民党は少なくとも表紙だけは頻繁に変わっているのだから、旧態依然とした政治を変えるのは、まず野党からだろう。

 最近気になるのは、総理大臣にしろ他の大臣にしろ、一般の議員にしろ、「仮の話には答えられない」と返答を拒否することが多々見受けられることである。

 「仮の話をする」というのは、科学的な思考としては当たり前の方法である。湯川秀樹博士は、中性子の存在を予想し、それをほかの科学者が証明することでノーベル賞を受賞した。アインシュタインの一般相対性理論も、ほかの学者が重力による光の屈折が理論通りなのを観測し、証明されたのである。

 「仮の話をする」というのは、契約においてもごくごく当たり前のことである。車の保険だって、事故が起きたときにはどうするかという仮定の話を元に進める。仮の話をしておかなければ、事故を起こしたときにとんでもない目に遭うことは分かり切っている。

 日本人は契約が下手くそだと言われるのは、偉い人ほど「仮の話をする」ことができないからである。原子力発電所を作る際、事故を起こしたらどうするかという仮の話はしないことになっている。東京オリンピックの開催によってコロナの新規感染者が爆発的に増えたらどうするかという話も、仮の話なのでしないことになっている。卑近なところでは、会社の上司でも「仮の話はするな」という人間もいる。まるで仮の話をするヤツは、オツムが弱いとでも言いたげだ。

 が、たくさんの仮の話をしないということは、アイデアも出てこないということであり、そうなると間違ったアイデアでも、それをやり続けるしかないというバカなことになる。1年前に、無用の長物でもあったアベノマスクを配り続けたのがそのいい例である。

 

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思わぬ収穫

2021-09-29 10:51:45 | 福島

 台風が接近しているようだが影響はまだのようで、朝から静かな秋晴れとなった。

 カメラを持って家を出たところで、歩くコースが同じなので、目にするものはほとんど変わりがない。そろそろクルミの木にリスが現れるかもしれないから、それを狙うことにする。

 が、クルミの実はあるものの、リス君たちはまだ現れない。今年の前半はほぼ毎日リスの姿を目撃していただけに、今日か明日かと心待ちにしているのである。

 と、クルミの木の先にあるため池に、何やら見慣れないシルエットの物体を発見。枯れたガマの穂の先にいるのは、どうやらカワセミらしい。

 おお、やっぱりカワセミなのだ。リスは撮れなかったが、今年の夏は一度もお目にかかれなかったカワセミに、今頃になって出会えるとは幸運なのである。思わぬ収穫に、テンションが上がるアベさんであった。

 この前買って来た「逆説の日本史25 日英同盟と黄禍論の謎」を読み始めた。間違って26巻の方を先に読んでしまい、せっかく読むのに残念だなと思っていたら、僕が今一番注目している問題がいきなり1ページ目から提示されていて、まるでこれを知っていたから前後を間違えて読み始めたのかと思うくらいであった。

 それは「読み」「書き」の問題で、現代人が自分はできると思っている読み書きが、実はかなりあやしいのではないかというのが、今僕が注目しているところなのである。

 「逆説の日本史」で取り上げられていたのは、明治に始まった「言文一致」運動である。巻頭1行目にこんな文章が掲げられている。

「昨日は御来訪被下候處、何の風情も之無く失敬仕候」を読めるだろうかという質問から始まる。これは夏目漱石が友人に宛てた手紙の一節だ。

 それから少し経ち書かれた「坊つちやん」はこういう調子である。「おれと同じ数学の教師に堀田と云うのが居た。これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構えである」。

 比べてみれば歴然だが、少し前の時代は同じ人間が、文章を使い分けていた。今の教科書では、文語口語と区別しているが、実はそんなに簡単な問題でもない。なぜ使い分ける必要があったのかを考えると、どんどん想像が広がって行く。

 というような話がこれから展開して行くのだが、不思議なことに、あることに興味が湧くと、興味ある内容のものがちゃんと目の前に提示される。図書館で調べ物をするときに、たまたま手に取った本が、まさに目的のものだったという時、それは「図書館の妖精」の仕業だと言われている。

 人生はたとえ間違った道を歩いている時でも、思わぬところからドンピシャな収穫がもたらされるということがある。

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耳を澄まして

2021-09-28 09:26:11 | 12音詩

 タミちゃんがお通夜に行っているので、今朝はテオとサシの散歩となった。夕方の散歩は大概どちらかがテオを連れて行くことがほとんどだが、朝は珍しいので会う人会う人に、「今日はひとり」と聞かれる。

 夜明けの静かな時間に、ひとりと1匹の散歩は実に静かだ。時々犬を連れて散歩している人に会っても、頭を下げるくらいで立ち話になることはない。が、ほとんどの犬と顔見知りのテオは、相手の匂いを嗅ぎ、鼻先をペロペロとなめ、ご機嫌伺いに余念がない。それを見ている飼い主さんは、「ちゃんと挨拶してくれたねえ」と嬉しそうだ。

 台風が接近しているせいなのか、鉛色の雲が一面に広がり、朝の散歩は薄暗い中を歩くことになる。こういう日はカメラを持って歩いても面白くないので、手帳を片手に思い付く言葉を書きつけて行く。

 丘に登ると、木々の上からジージーとさえずる声があちこちから聞こえて来た。夏の間は山の上にいるヤマガラたちが、秋になって里に降りて来たのだろう。

「山雀山を下りて来る」

 ほかにも野鳥が見られるかもと耳を澄まして歩いていると、空高くシラサギが飛んで行く姿やため池の上をスイスイ泳いでいるカルガモが目についた。考えてみれば、耳を澄ましてあたりの気配に集中して歩くというのは、日常生活ではほとんどないのではないだろうか。

「耳澄まし歩く山道」

 去年はどこに行ってもタワワに実った柿の実を見ることができたが、今年は柿は不作の年のようで、散歩の途中で交わす挨拶も、「今年は柿がないねえ」と言う人が多い。柿には豊作の年と実りの少ない裏年があるが、今年は赤くなる前に落ちている柿の実も多く、裏年に加えて天候不順も影響しているのだろう。毎年いただいた柿で干し柿作りをするのだが、こんなに少ないとどこからも貰えないかもしれない。

「日ごと色づく柿を見る」

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また今度という挨拶

2021-09-27 13:09:26 | 12音詩

 昨日は、故人の顔を拝みに行ってきた。今日がお通夜で明日が告別式になる。タミちゃんの近しい親戚なので、先にひとりで行ってもらうことにして、僕はお通夜と告別式の時間だけ顔を見せることにしている。テオの散歩もあるし、アンの食事もあるので、長い時間家を空けておくことが難しいのだ。

 人の死というものには、今まで何度も触れてきた。若い頃には物凄く世話になっておきながら、そのうちお礼を言えばいいだろうと思っていた友人を交通事故で亡くし、人生に「また」なんてことは絶対にないということを肝に銘じた。仕事仲間でも友人でも、「また今度」と別れるたびに、心の中では「またはないかもしれない」といつも感じている。

 そういう目で世間を見ていると、世の中にはずいぶんのんびりした人が多いなと感じてしまう。嫌味なことを言ったり嫌がらせをしたり、感謝の気持ちを表さなかったりと、後悔しそうなことばかりやらかし、挽回するチャンスを無駄にしているからだ。「また」は、もうない。

 有名な話にこんなのがある。チャンスの神様は後頭部が禿げている。向こうから前髪を振り乱して猛烈な勢いでチャンスの神様が走ってくる。その勢いに押され、つい横に避けて後ろから髪の毛を掴もうとすると、ツルピンカンで掴むものがなく、みすみすチャンスの神様を逃してしまうという。

 ご焼香に行くと、「顔を見てやってください」と言われ、枕元でお線香をあげる。先月、「アトリエ・カフェ 青い犬」にやって来て食事をして行ったのだが、その時はどこも悪そうには見えなかった。それからひと月あまり、悪性のガン見つかった時には、すでにすべてが手遅れだった。

「線香一本枕元」
「今日は静かに眠る人」

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臨時休業のお知らせ

2021-09-26 08:11:55 | 福島

 突然ですが、「アトリエ・カフェ 青い犬」は、9月26日(日)〜28日(火)を臨時休業いたします。昨日の午後に親族に不幸があったため、今日、明日、明後日と出かけるため、カフェの営業が難しいので、臨時休業することにしました。

 テオとアンがいるので、長い時間留守にできず、3日間は行ったり来たりと落ち着かないことになりそうだけど、2匹一緒にいるので、留守番させることに関しては心配はしていないのである。

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読書の季節

2021-09-25 12:00:42 | 日記

 このところ、朝早く起きて散歩までの時間を読書にあてている。最初の頃はアンが夜明け前に起き出し、餌を要求したり、猫トイレで用を足したりするので、それに付き合って起きていたのだが、どうせ早く起きるなら、夜明け前の静かな時間で本を読むことにしたのである。

 コーヒーを沸かし、顔を洗ったり髭を剃ったりしているうちに、目が覚め、頭もしっかりして来る。すべてのものが寝静まっている時間に、ズルズル熱いコーヒーを飲みながら、目の前の本に向かっているのは、この歳になって初めて身についた習慣でもある。

 頭の回転が良くなるので、今まで敬遠していたような難しい本も、何度も同じ箇所を繰り返し読んだりしてゆっくり味わっている。

 今読んでいるのは、「小林秀雄 美しい花」(若松英輔著)。小林秀雄の本は若い頃から読み続けているが、他人が書いた評論を読むことで、読み落としていたり全然違うように解釈していたりすることに気づかされる。今朝読んだ箇所には、こういう文章が引用されていた。

「私は何かを欲する。欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を感じている。放って置けば火は消えるからだ」

 「放って置けば火は消えるからだ」という言葉を、コーヒーと一緒に胃袋に流し込む。決心だの決意だの興味だの、僕らを動かす欲望でさえ、燃やす努力をしていなければ、その火はすぐに消えてしまうことを、しっかり自覚しておかなければならない。

 本屋に行った時に、「逆説の日本史25明治風雲編 日英同盟と黄禍論の謎」(井沢元彦著)を買ってきた。この前26巻の日露戦争の話を読んだのだが、どうも途中の本が抜けている気がして仕方なかった。日清戦争からいきなり日露戦争になったからで、その途中があるはずだと思ったら、案の定25巻が抜けていた。

 歴史の本を読むのに時代が行ったり来たりするわけだが、どうせ僕の脳みそではちゃんと理解できていないので、どっちみち現在までたどり着いたら、原始時代から再読するつもりなので、少々前後が入れ替わっても、僕の脳みそに支障はないのである。

 読みたい本はまだまだある。書をやるタミちゃんが「すぐわかる日本の書 飛鳥時代〜昭和初期の名筆」(可成屋編)というのを持っていたので、借りて読むことにした。これは来年から字を書く練習を始めようと思っているので、今からぼちぼち書の歴史でも頭に入れておこうという魂胆なのである。

 ネットでは中古本の「歎異抄」を頼んだ。浄土真宗の開祖親鸞の教えを、弟子の唯円が当時から誤解の多かった師匠の教えを正す目的で書かれたと言われているが、ソクラテス同様、師匠は本を書かなかったので、弟子が書いたものを我々は読むしかないのである。

「歎異抄」なんて辛気臭そうな本を、この歳になるまで読んでみようとは思ったこともなかったが、夜明けの冴えた頭なら、少しは理解できるかもとちょっとだけ期待している。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉だけは、僕もなんとなく聞いたことがある。善人が往生できるなら、悪人ならなおさらだと聞いて、普通の人は反対じゃないかと感じるだろう。悪人が往生できるなら、善人ならなおさらだというなら、普通だ。なぜ親鸞さんは、善人以上に悪人のほうが往生できるというのか。若い頃なら「どっちでもいいよ」で済ませられたものが、済ませられなくなったジジイ初心者のアベさんなのである。

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美術展のための用意

2021-09-24 11:13:56 | 福島

 去年、コロナウイルスの影響で中止になった三春美術展を、今年は10月22、23、24日の三日間、開催するという。出品作品は大きいもの3点までと、小品3点までと点数が多い。というのも、今までは三春町の小学校の児童、中学校、高校の美術部の作品も一緒に展示していたのが、密になるのを避けるために、子供たちの作品はなしになったのである。

 父兄やジジババの人出を当てにしていただけに、子供たちの作品がないとなると、お客が来るのかどうか心配だ。そこで、ひとりひとりの作品数を増やすことで、少しでも賑やかな美術展にしようという魂胆なのである。

 で、開催まであとひと月。パソコンで描いている僕としては早めに印刷所にプリントしてもらう必要がある。なぜなら我が家の古いプリンターは、いくら掃除しようと妙ちきりんな色でしかプリントアウトしなくなったからだ。

 いろいろ悩んだ挙句、10月の末という時期も考えて、大きい作品は次の3点に決めた。

「波打ち際」

「夕暮れ時」

「冬の到来」

 印刷所にポスターサイズのA1サイズで印刷してもらったので、あとは額を用意しなければならないが、横長の変形のものに関しては、市販の額がないので手作りするしかない。絵を描くのと同じくらい時間がかかる額製作なのである。

 小さい3点は、印刷所に回すほどではないので、すでにプリントしてある中から選ぼうと考えている。

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お彼岸

2021-09-23 11:29:16 | 日記

 朝の散歩でケンくんちの前を通りかかると、ケンくんを軽トラックの荷台のケージに入れ出発するところだった。今までならケンくんに先に墓地のある空き地に行ってもらいそこで合流するのだが、オッチャンは「リードを放すな」の立て札を気にしていると見えて、「今日はお彼岸でお墓まいりの人たちが来るから、別の場所でケンを遊ばせてくる」と言う。テオはケンくんと追いかけっこができると思っているようだが、ここは別行動をとるしかないのである。

 お彼岸と言えば、去年のお彼岸はタミちゃんの実家のある山奥へ、墓参りに出かけ、そこで餓死寸前だったアンを連れて帰った。あれからちょうど1年になるのである。獣医さんによれば生後2ヶ月くらいだろうからと、アンの誕生日を8月1日に決めたが、本当の意味で僕らの家族となった日はお彼岸なのである。

 で、お彼岸、お彼岸言っているが、お彼岸が何かよくわかっていないので、ウィキペディアで検索してみた。彼岸とは川の向こう岸のことで、こちら側が此岸だ。つまり三途の川を挟んで、あの世とこの世のことである。古くは昼夜の長さが同じになるこの日は、あの世のゲートが開く時だと言われていたようで、そのことからご先祖供養をする日となったと説明されるらしい。

 ただお彼岸は日本だけのものなので、仏教的なものというよりも、日本古来の太陽信仰から来ているという説もあるようだ。彼岸とは「日願」のことであり、民間信仰と仏教が結びついて生まれたということである。

 春と秋にあるお彼岸で食べられるのが、ぼた餅とおはぎ。子供の頃はお餅を餡で包んだのがぼた餅、ご飯を餡で包んだのがおはぎだと思っていた。が、ふたつは同じもので、春の牡丹の花が咲く頃がぼた餅、秋の萩の花が咲く頃がおはぎというのが正しいらしい。同じ物でも季節で名前を変えるところが、なんとも日本的である。

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恐怖の朝

2021-09-22 10:31:52 | 12音詩

 このところ、実に秋らしい爽やかな日が続いている。朝5時ではまだ辺りは白々してきたところだが、散歩に出るために準備をしている間にすっかり明るくなる。明日は秋分の日だから、これからは昼間よりも夜の方が長くなって行く。寒いのは気にならないが、日が短くなるのは憂鬱だ。朝の散歩はなかなか明るくならないし、夕方の散歩はとっぷり日が暮れた中を歩くことになるからだ。

 テオにハーネスを装着し、リードをつなぐ。普段なら「散歩、散歩」と騒ぐテオは、ここ何日か尻込みになった。原因は、田んぼの稲を守るために、パンパンと大きな音でスズメを寄せ付けないようにするスズメ脅しのせいだ。人間の耳には聞こえなくても、人間の何百倍、何千倍と聴覚の発達した犬の耳には耳元で破裂しているように聞こえているのかもしれない。

 とはいえ、いくら散歩に行きたくなくても、用を足してもらわなければならない。遠くで鳴っている音にいちいち怯えていたのでは、かえって病気になってしまうんじゃないかと思う。人間だって神経質な人ほど、案外病気持ちだということがある。

 テオの臆病さに比べると、戦争の時に爆弾やら飛行機やら戦車が走り回る戦場で活躍する軍用犬というのはすごいとしか言いようがない。どういった訓練をすれば、爆音に包まれた戦場で平気でいられるようになるんだろう。

 いや、軍用犬ばかりではないな。災害救助犬というのも、暴風やら火山の噴火やら、ヘリコプターやら、とにかく普通ではない環境で自分の仕事をこなしているわけだから、大したものなのである。テオなら我が身可愛さに、脱兎のごとく現場を逃げ出してしまうだろう。

 盲導犬だって、急に大音量がしたところで、その場から逃げようとダッシュしたのでは、目の見えない飼い主は大怪我をしてしまうだろうから、何が起ころうと動じない訓練を受けているということになる。子供の頃に読んだ盲導犬の漫画では、飼い主を先導して歩く際に、野良犬に噛まれるという事態になっても、その場を微動だにしない姿が描かれてあった。

 散歩から帰って、早速軍用犬や災害救助犬の訓練方法を検索して見たが、今ひとつどうしたらいいかわからない。「大きな音に慣れさす」というコンテンツがあったので覗いてみると、普段から小さな音で慣れさせておくとあったが、聞こえないような音に対してもビクついているテオを、これ以上脅すようなことはできないなと感じている飼い主なのであった。

 ついでなので、散歩中にひねった句を書いておく。

「恐怖 スズメ脅しの朝」

「枕元コオロギ鈴虫」

「リスに遭うかなクルミの木」

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ある決心

2021-09-21 10:47:08 | 福島

 朝、散歩に出ると空気がひんやりとしていた。一日一日と秋が濃くなって行くのを実感する。

 ある家の庭先のフェンスにアケビがたわわに実っていた。フェンスに蔓を這わせているのだが、この時期になってアケビの実を目にするたびに、1年間この植物のことをすっかり忘れていたことに気づかされる。「子供の頃は時々口にしたアケビも、今の子供は喜ばないだろうな」と、毎年同じことを思うのである。

 田んぼは稲刈りの機械を入れるために、端っこだけ刈り取られている。いよいよ稲刈りの時期なのである。

 ところで、来年になったら、書の練習でも始めようかと思っている。子供の頃から字にはまったく自信がなく、最近はキーボードでしか字を書かなくなっているので、ますます字を書くということから離れてしまっている。

 今の人は「読み」「書き」くらいはできると思っているだろうが、僕は「読み」「書き」については最近まるっきり自信がない。確かに活字になっている字は読める。書くのもキーボードで打てば、内容は相手に伝わる。けれども、100年前の人が書いた手紙が読めるのかと言えば、おそらくお手上げになるだろう。あんなふうな立派な手紙をすらすらと書けるかといえば、これまたまったくお手上げなのである。

 例えば、アメリカ人やフランス人が、100年前の人の自筆の手紙が読めるだろうかというと、多分読めるに違いないと僕は思っている。アルファベットも筆記体の形も文法も、それほど変わってはいないだろうから。ところが、日本では、幕末の志士たちの手紙も明治の偉い人たちが書いた手紙も、まるで外国語を前にした時のように、しっかりとした知識がなければ解読できなくなってしまった。これは国として、大変な損失だと思うが、政治家や教育家という人たちはあまり危機感を感じなかったようだ。学ぶべきことは、すべて外国を真似ればいいと考えていたのだろう。

 日本と同じように、少し前の時代の言葉が読めなくなっている国に韓国がある。昔はすべて漢字を使ってお役所の文書も手紙も書いていた韓国の人は、第二次大戦後、公用語をハングルにすることによって、若者は漢字で書かれた文書を外国語を読むようにしか読めなくなってしまったのである。これでは歴史に学ぶなんてことは難しい。政府にとっては都合がいいのかもしれないが。

 「書き方」は小学校で学んだ。けれども、本当に書く力を学んだわけではない。学校で学んだのは、あくまでも「書道」なのである。「書き方」と「書道」は別物である。「野球」と「野球道」くらいの違いがある。「野球道」なんてものを学んでも、野球がうまくなるとは思えない。

 で、僕としては、近いうちに「書道」ではなく、日本人としての「書き方」を学びたいと思っているのである。ジジイの年齢になり、どこまでできるのかわからないが、「読み」「書き」ができなければ、僕のジジイとしての将来はないと、決心を固めているところである。

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