おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

森のエビフライ

2020-09-30 10:16:24 | 福島

 早朝、まだ肌寒い中を犬を連れて散歩に出ると、空が高くなっていることに気づく。モコモコとした夏雲は見当たらず、空の一番高いところに、刷毛で描いたような筋雲が広がっている。

 住宅街を抜け里山の中を歩くと、谷になっている集落の上に霧がかかっていた。太陽が高くなれば霧も晴れるだろうが、我が家の上は快晴だっただけに、1キロほど歩いただけでこんなに天気が違うのかビックリする。

 薄暗い雑木林の中の小径を歩いていると、足元にエビフライの食べ残しみたいなものが落ちていた。

 どうやらリスが松ぼっくりを食べた残骸のようだ。テレビや図鑑では見たことがあるが、実際にこの目で見たのは初めてなので、すかさず写真を撮る。モノによっては、本当にエビフライそっくりのものもあるだけに、このリスの食べ方はあまり上手じゃないのかもしれない。

 ちなみにネットで素材検索をすると、こんな写真がたくさん出てくる。

 エビフライにすっかりテンションが高くなって、ルンルン気分で歩いていると、頭の上の栗の木の枝を黒い影が走り回っていた。この秋は、毎週のようにリスを目撃しているのである。

 秋になり、モズの姿も頻繁に見かけるようになった。夜が明けたばかりで寒くて動けないのか、日向ぼっこをしながらじっとしているモズ。優しい顔をしているので、メスかもしれない。

 散歩を済ませたのか、ゴローちゃんがおとなしく繋がれてこちらを見ていた。

 散歩から帰ってくると、我が家のゴーヤが黄色く色づいているのに気づいた。急に涼しくなったため、大きくなれないでいるゴーヤだが、食べるつもりはないのでもう少し熟れるのを待つ予定だ。というのも、散歩中にゴーヤを抱えて家庭菜園から帰宅途中の人に会ったので、「夕飯はゴーヤがおかずですか」と尋ねたら、「このゴーヤは黄色く熟してからタネを取るためで、来年蒔くとちゃんと育つのよ」と教えてくれたからだ。で、我が家も来年用にタネを取ることになったのである。

 朝食を食べて満腹になったテオとアン。もうすっかり兄妹です。

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道具としての車

2020-09-29 10:52:55 | 日記

 愛車を車検に出している。東日本大震災直前に買った車なので、10年になる。新車のうちは鹿児島から北海道まで旅行したので、1年で4万キロくらい走った。ただ、その後は福島と大分を行き来するくらいで、あまり長距離は乗っていないし、通勤で毎日使うこともしていないので、走行距離自体は10万キロほどだ。

 それでもあちこちガタが来ている。高速道路を頻繁に使ったせいで、塗装が細かく傷つき、ボンネットは2度ほどネットで買ったペンキで塗り直した。ディーラーさんによると、長く乗っているので今回はかなり費用がかさみますと言われている。おそらく20万円くらいになるだろう。

 僕の愛車は軽の箱バンだ。近頃はスライドドアで室内が広い車が流行りだが、僕が今の車を買った頃は、そういう車は少なかった。それで、商店が荷物を運ぶタイプの軽の箱バンにしたのだが、車体が小さく、荷室が180センチあるというが決め手だった。というのも、それ以前から車で旅行したり、山登りに出かけたりしていたのだが、道の駅で仮眠を取ったり、登山口で夜明けを待ったりするのに、シートを倒して横になるというのは腰に負担が大きく、できれば完全に体を伸ばして横になりたかったからだ。今となっては、荷室の広さのおかげで、草刈機やクワを載せて畑に行くのに重宝している。

 また、旅行をしていて門前町や城下町、漁村などを尋ねると、昔の道なのでとにかく狭い。道路も直角に曲がっていたりして、地元の人は小さな軽自動車を使っている。そういう場所を走るのに、大きな車はとにかく邪魔になるのである。

 車を車検に出したら、今回は2日は預かりたいというので、代車を用意してもらった。普通は自分の車と似たようなものを用意してくれるのだが、今回はなぜかホンダの「シャトル」という大きな乗用車を貸してくれた。

 「シャトル」はハイブリッドで静かだし、内装は高級感があって、運転席も広々して重役の椅子のようだ。ディーラーは、こういうのをオススメしたいのだろうと僕は想像しているが、僕からすると車に対して何か勘違いしているんじゃないかと思ってしまう。

 今はひとり1台の時代である。四人家族なら4台ある家なんて、普通にある。そういう家族が、一家揃って1台の車に乗り込んで出かけるなんてのは、ひと昔前ならあったかもしれないが、今はメイメイ自分の車で出かけ、メイメイ寄り道して帰るのが当たり前なのである。

 テレビコマーシャルを見ていると、「運転する喜び」とか「走りの楽しさ」とか、ピンと来ない車の利用方法をアピールする。車好きで、サーキットを走りたい人には響くかもしれないが、ほとんどの人は通勤と買い物が関の山で、ごくたまに遠出をするくらいだ。

 代車の「シャトル」で買い物に行くと、買い物袋を置くスペースに困るし、スーパーの駐車場での取り回しもめんどくさい。きっとこういう車に乗る人は、会社との往復に使うか、高速道路を使って遊びに行くくらいで、こまごまとした普段の買い物などしない人なんだろう。

 ホンダのNボックスが大ヒットした裏話として、こういうのがある。ホンダの女性デザイナーが、子供の送り迎えをするために、自転車を積める車を作ろうとした。すると、上層部のオッサン連中から、なぜ車に自転車を載せる必要があるんだと、猛反発を食らったそうである。が、世に出してみると、大ヒット作となった。

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名コンビ

2020-09-28 11:19:53 | 福島

 コロナ禍で、外出ができないため運動ができないという人がいる。そういう人の多くは、ひとりで運動をするという習慣がないのかもしれない。ジムにしてもプールにしても、卓球にしてもゲートボールにしても、人の集まる場所で行うことが多い。運動なんて、誰にも邪魔されないような場所で、勝手に体を動かせばいいと考えている僕のような考えの方が珍しいのかもしれない。

 もっともコロナ禍は関係ないものの、僕の場合、歯医者禍と台風禍で、休みが潰れてしまい、なかなか長いランニングに出ることができなかった。今日は朝からカラリとした秋晴れなので、朝飯を食べるとそそくさと走る準備を始めた。

 ところが、テオとアンがじゃれ合い始めたのはいいが、次第にテオのテンションが上がり、アンの首根っこを咥えたり、脚を咥えてひっくり返そうとしたりで、そのうちケガをさせるんじゃないかとヒヤヒヤだ。もし、走りに行っている間に、何かあったらどうしようと気が気でない。これでは、歯医者禍、台風禍に加えて、猫禍も追加しなければならないかもしれない。

 それでも一旦走り出せば、ハーハーゼーゼーとしんどい方が先に立ち、家に残して来た犬猫のことなどどうでもよくなる。きっと仲良くやっているだろう、どのみちいつかは2匹で留守番をさせなければならないのだから、心配しても仕方がない、と勝手なことを思いながら走り続けるアベさんなのであった。

 アンが来てちょうど1週間、ずいぶんテオもお兄さんっぷりを発揮し始めた。来た当初はとまどい、近くに寄ってくると、ウーと唸ったりしたが、最近は自分からぺろぺろ舐めたり、遊ぼうと誘ったりしている。

 アンは怖いもの知らずなのか、ただ単に世間知らずなだけなのか、やたらに肝っ玉が座っていて、カフェに初めて来たお客さんの膝の上に乗って、ゴロゴロ喉を鳴らしていたりする。テオのことも、ちっとも恐れない。

 窓の外を通る人がいると、2匹して窓から外を眺めている。そういう姿を見ていると、なかなかいいコンビのような気がするし、カフェの看板犬、看板猫として仕事をしてくれそうな予感がするのである。

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名前をつける

2020-09-27 11:55:32 | 福島

 仕事で手が離せないので、時間に余裕のあったタミちゃんに猫を動物病院に連れて行ってもらう。獣医さんの見立てでは、生後2ヶ月くらいでしょうということで、誕生日は8月1日にしましょうとなった。まだ生後1ヶ月くらいだと思っていたが、すでにミルクを飲ませる時期は終わっているということで、ミルクを与えても見向きもしないのも当然だった。

 今のところ問題はなく、性別は想像通りメスだった。数日後にもう一度便を調べたいので持ってくるようにとのことで、寄生虫やら猫のエイズやらいろいろあって、ワクチンも打たなければならないようだ。犬はフィラリアやら狂犬病の注射やらあったが、猫も最近はマンションや住宅街で飼われているので、大変なのである。

 動物病院のカルテには、今のところ我が家の猫は名無しの権兵衛で、次回までに名前を決めて来ますということにしている。性別もメスだと判明したので、早速名前を決めよう。

 最近つけた名前だと、妹がヨークシャーテリアを飼ったとき、名前をつけてほしいと言われたので、「アナ」にしておいた。結局、子供が生まれた時に、犬を飼えないというので、最終的には僕が面倒をみることになった。「アナ」という名前は、スペイン映画「ミツバチのささやき」の主役の女の子の名前からとったもので、僕はこの映画は3本指に入る名画だと思っている。

 次に飼った捨て犬のトトは、イタリア映画「ニューシネマパラダイス」の主人公の少年の名前にした。オズの魔法使いの主人公、ドロシーが飼っている犬が黒犬のトトなのだが、それは意識していなかった。

 テオは、フランス映画の「プロバンスの思い出」に出ていた障害者の男の子が可愛かったので、そこから名前をいただいた。ただ、テオという名前は、ゴッホを知る人にとってはゴッホの弟としてゴッホ同様、可哀想な最期を迎えているだけに、ちょっとだけ躊躇した。

 そういう経緯もあって、今度我が家に来た猫も、映画に出てくる子供の名前からと考えたとき、たまたま「赤毛のアン」を原作とした「アンという少女」というドラマをNHKでやっていたので、そこから取ることにした。猫の毛は赤毛というには明るすぎるかもしれないが、ドラマの少女が養護施設からもらわれてくるという内容なので、捨て猫にはぴったりの名前からもしれない。ドラマ同様、元気いっぱいたくましい女の子として大きくなってもらいたいものである。

 というわけで、「アン」に決定。ちなみにドラマでは「Anne」という綴りで、eが最後につくということを、自己紹介のたびに強調していた。

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外の世界

2020-09-26 10:34:13 | 福島

 月曜日に拾われてきた子猫は、我が家に来て早くも5日が経った。お客さんが来ようが、テオがちょっかいを出そうが動じないところを見ると、度胸は座っているようだ。それとも、ただ単にまだ怖いもの知らずなだけだろうか。

 そろそろ動物病院に連れて行って、健康診断を受けて来なければと考えている。野良猫の場合、寄生虫がいる場合があるらしいし、ノミダニの予防も考えなければならない。第一オスかメスかはっきりしないので、いまだ名前もつけられないでいる。僕は「ネコ」と呼び、タミちゃんは「ニャー」と呼ぶ。早くしなければ、どちらかがこの子猫の名前になってしまうだろう。

 貰い手がいなければ、このまま我が家に住んでもらうことになるだろうが、家に閉じ込めたままの生活というのも可哀想なので、いずれ自由に外に出てもらうようになるだろう。犬のようにリードをつけて散歩をさせている人もいるかもしれないが、大都会ならまだしも、自然豊かな場所ではそれはあまり考えられない。

 我が家の庭にはあちこちネットを張り巡らし、テオが外に出て行かないようにしている。その代わり、網戸に扉をつけ、家の中と中庭の行き来はできるようにしてある。テオは1日のうち、数え切れないくらいこの扉を使って出入りしている。

 ただ、猫の場合はネットをよじ登ることなんてお茶の子さいさいだから、庭に出るということは、庭から外へ出て行くことを意味している。

 我が家に来て5日間、外には出ていないが、外の世界に対しては興味が湧いてきているようだ。時々窓辺に座って、何かを興味深そうに眺めている。あるいは物思いにふけっているのだろうか。

 あるいは、餌を食べにきているヤマガラを見てるのかな。外の世界に出たときのことを考え、今から目をつけているのだろうか。

 と、庭に出ていたテオがやって来て、網戸の向こうから子猫にちょっかいを出し始めた。「何やってんだい。早くこっちへ来いよ」とでも言っているのだろうか。

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自由と平等な国っぽく

2020-09-25 11:24:48 | 日記

 安倍さんに代わりに、スガさんが総理大臣になり、にわか人気が沸騰しているらしい。スガ饅頭も出ればメルカリではスガさんの名刺が高値で取引されるという。できればその人気が長続きすればいいのだろうが、すぐにタピオカミルクティーみたいなテイタラクなことになるかもしれない。

 スガさんは、漢字で書くと「菅義偉」となる。これを一発で読める人はどれだけいるだろう。大体これだけ見ると、中国の三国志に出てくる武将みたいな名前である。見かけが貧相なので、字面だけでも立派なことはいいことだ。

 その中国では、スガさんの総理大臣就任を驚きを持って報道されているという。名前が中国人みたい、だからではない。地方の農家の息子だからである。中国では地方から都会に働きに行く人たちを出稼ぎ農民と呼ぶが、そういう人たちの中から、中国共産党のトップが生まれることなどあり得ないからだ。

 誤解を生むかもしれないが、中国は身分制度のはっきりした国である。少なくとも、身分制度をはっきりした上で国が成り立っていた。それは韓国も同じだが、儒教の教えが根本にあるからで、江戸時代には日本でも朱子学として取り入れ、「士農工商」という考え方を根付かせた。

 ただ、「士農工商」の「士」は、日本では武士のことだが、本家の中国では「お役人」のことを指している。中国でも韓国でも、身分の上では役人がトップであり、商売などというのは下々の者がやる仕事だった。だから、中国でも韓国でも商いで成功した人は、自分の子供たちを役人にする。商売を継がせるなんて人は少人数だ。だから、日本のように老舗の商店は生まれない。

 中国では出世するには、とにかく試験を受けて役人になる必要がある。その代わり、親族からひとりでも役人が出れば、数十人という親戚縁者が暮らして行ける。だから、血縁者の中に優秀な子供が現れれば、寄ってたかって役人にするための援助を惜しまない。そうしたことが当たり前の国にあって、出稼ぎ農民である人間が、国のトップになったというニュースは、おそらく日本人が考える以上のショッキングなニュースだろう。

 今回、自民党総裁に立候補した3人のうち、石破さんも岸田さんも政治家の親を持つ世襲議員である。僕はスガさんの実力がどうこう言う前に、世襲議員でないことだけでもいいことだと思っている。出稼ぎ農民でおまけに世襲議員でもない人物が、日本のトップになれること。これだけで世界に対して、日本が自由で平等な国っぽいことを、じゅうぶんにアピールできているんじゃないかと思う。

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猫との付き合い

2020-09-24 10:53:32 | 福島

 猫が欲しいと言っていた人、猫を飼っている人、猫好きな人と、いろんな人に声をかけてはいるが、まだ捨て猫の貰い手はない。このまま大きくなれば、だんだん欲しいと言う人も減ってくるだろう。その時はその時で、このまま飼うことになるかもしれないなと思うが、ある程度大きくなった猫は、犬ほどには手がかからないだろうと、タカをくくっている。

 幸いにして、テオは猫に対して警戒心をあらわにしたりはしていない。もともと犬に対しても猫に対しても、警戒心が薄い犬で、自分から鼻先をペロペロしたがる。ただ、ここまで小さい生き物とは接したことがないので、少し戸惑っているようではある。

 時々一緒に遊ぼうとちょっかいを出す。が、見ていると、その遊び方というのが、普段遊んでいる噛むとパフパフなるゴムのおもちゃの延長みたいに考えていて、甘噛みをして音がなるか確かめようとしたり、子猫の前足をくわえて引っ張ったりしている。本気の力を出せば、簡単に子猫の骨は折れるだろうから、気が気ではなく、2匹で寝ている時以外は目を光らせているし、2匹だけで留守番させることはしていない。

 思い返してみると、猫は犬ほど長い付き合いはない。最初の付き合いは、子供の頃に子猫を何時間もかけて追いかけ回し、家に連れて帰ったことだ。その時は翌日には姿を消してしまったのだが、三日ほど経って、もう1匹兄弟を連れて戻ってきた。そのことによほど感激したのか、その思い出だけは強烈に残っている。

 その猫たちは、猫の飼い方を知らなかった家族が、唐揚げの骨を食べさせたため、2匹とも死んでしまった。鳥の骨は飛ぶために中が空洞になっており、割れると陶器の破片のようになる、というのをその時初めて知ったのだった。

 次に猫を飼ったのは、東京の高円寺で下宿していた時だ。いつも決まった時間に窓の外を散歩する真っ白い子猫に気づいたので、時々イリコや鰹節をあげていたら、そのうち窓から部屋の中に入ってくるようになった。アパートで猫は飼えなかったので、名前は付けず、「これは野良猫です」と言い張ることで、いつも一緒にいた。

 その後、埼玉の朝霞市に引っ越した時も、大分の宇佐市に引っ越した時も連れて行った。「犬は人につき、猫は家につく」と言う人もいるが、幸いにして名前のない真っ白い猫は僕と一緒に行動し、どこかへ行ってしまうということはなかった。14歳で死んだときも、僕のベッドのそばだった。

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二日目の猫

2020-09-23 09:47:07 | 福島

 一昨日、山の中で保護した猫は、少しだけきれいになり、少しだけお腹も満たされたようだ。

 ニャーニャーと声をあげて鳴いていた猫を最初に拾い上げたときは、ガリガリに痩せて、おまけに薄汚れていた。

 お風呂に入れ、ノミ取りの首輪と猫用の餌を買って来る。早速食べさせると、ハフハフ言って食べる。よほどお腹が空いていたのだろう、モリモリとすごい食欲だ。と、テオがよほどうまそうに見えたのか、普段は食が細いくせに、猫の餌を横から横取りしてしまった。猫の方はテオのドッグフードをうまそうに食べる。このくらい食欲があれば、すぐに太れるだろう。

 テオは初日こそ逃げ回っていたが、二日目ともなれば少しは慣れてきたのか、猫の鳴き声が聞こえるとすぐに飛んで来る。

 時々腕を甘噛みしたり、鼻先で体を押したりして反応を見ているが、その様子はオモチャで遊んでいるようで、そのうち本気を出すんじゃないかと心配で目が離せない。

 猫が近寄るとすぐに逃げていたテオも、触れ合ううちに一緒に寝るのも怖くはなくなったようで、ちょっとだけ父性本能を見せている。と言っても、テオの場合ニューハーフだが。

 まだ小さく何もわからないからかもしれないが、テオが来た時と比べるとはるかに度胸が座っている。人間だろうが犬だろうが、怖いものなしだ。

 もうちょっと大きくなれば、テオと積極的に遊ぶようになるかもしれないが、大きくなるほど貰い手は見つかりにくくなるだろう。ちなみに猫は、性別がわからないので、いまだ名前はつけられない。

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猫を拾う

2020-09-22 09:01:58 | 福島

 敬老の日はカフェがお休みだったので、先に帰省していたタミちゃんと合流すべく実家にテオを連れて行く。実家にはロンという犬もいるし、離れてはいるが下の家で放し飼いにされている犬もいる。友だちには事欠かないだろうと思っていたが、ロンは高齢でテオと遊ぶ歳ではないし、下の犬はテオには興味があるものの、僕がいるせいか遠巻きについてくるだけで、ちっとも近寄ってくれない。

 テオは家の中にいても退屈なのか、やたらに外にでたがる。山の中なので、外にはいろんな匂いが漂っているのかもしれない。

 同じ場所を何度も行ったり来たりし、2時間ほど時間を潰す。結局この日、半日いて、墓参りと昼飯以外はずっとテオと歩いていたことになる。

 午後、そろそろ僕だけ先に帰ることにし、その前に近くでタミちゃんの幼馴染がたくさんの牛を飼っている牧場があるので、挨拶に行くことにした。テオには牛を見せてやろうと、歩いて牧場まで行き、実家に戻ってくると、牧場から出てきたところの道路脇でニャアニャア声がする。

「どっかで子猫が鳴いている」と、その辺を探してみると、草むらの中に手のひらに乗るほど小さく、ガリガリに痩せた子猫がいた。この場所は、この日何度も前を通った場所で、つい20分前も牧場に行く時に通った場所だ。子猫がいれば、きっと気がついたはずだ。

 おそらく、山の中に誰かが子猫を捨てに来たのだろう。この牧場より先には集落どころか民家もない。牛や馬を飼っているところなら猫の1匹くらい世話してくれると考えて、ここに置いて行ったのかもしれない。

 牧場に引き返し、ここで野良猫を引き取ってもらえないか相談すると、昼間は無人だし、これから冬になるのに過酷な場所だというので、一旦家に連れて帰ることにした。というのも、タミちゃんの職場の知り合いで、猫を欲しがっているという話があったからだ。

 家に戻ると、よほどお腹が空いていたのか、テオの食べ残しのドッグフードをカリカリし始めた。消化に悪そうなので、コンビニから買って来たチュールを食べさせると、よほどうまいのか、「ウニャウニャ」と大声をあげながら食べる。それを見ていたテオは、そんなにうまいもんならオレにもと、横からペロペロ始める。

 猫を欲しいと言っていた人は、結局今は飼えないということになり、他にも当たってみたが、どこからもいい返事はもらえなかった。

 さて、どうしたものか。近所に愛護センターはあるものの、そこで働く人の話では、猫はほとんどが殺処分になるということだったので、連れて行くことはできない。

 子猫は毛むくじゃらのテオに寄り添いたがるが、テオの方がビックリして逃げ回る。そのくせ、遊ぼうとちょっかいを出すことは忘れない。

 さて、そんなこんなで、しばらくはカフェに来るお客さんに猫を飼わないか尋ねてみるつもりでいる。猫が欲しいと考えている人は、一度見に来てください。

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お箸の国の人だから

2020-09-21 08:02:13 | 福島

 散歩の時、いつも気にしていることがある。それは「ああ、秋だなあ」とか「夏だなあ」と感じる時、何に反応してそう感じたかを自分なりに見つけようと思っている。「それは温度でしょう」と言われたとしても、それだったらエアコンの温度設定で夏を感じたり秋を感じたりするのか、ということになる。「周囲の風景とか、空気感みたいなものかな」と言われても、僕が気にかけているのはそういう漠然としたものではない。

 人間の注意力なんてのは、全体を総合的に感じるということはできないんじゃないかと思っている。視覚にしろ聴覚にしろ、ピンポイントでしか感受できない。それを瞬間的にたくさん積み重ねることで、脳みそで総合的なものに作っているのではないかというのが、僕の考えだ。僕が気にかけているのは、ピンポイントで感じている、ひとつひとつの些細なことのほうだ。

 と、偉そうなことを言っても、自分ではどこに秋を感じているかはわからないので、あちこちに目を向ける。写真を撮る時も絵を描く時も、漠然とした全体ではなく、はっきり自覚できたものを作品にしたいと思っている。

 で、今日は時間に余裕があるので、ケンくんと遊んだ後、いつもより長い散歩を続けた。

 空は灰色、風はなく、田んぼは黄色く色づき始めた。どこを見ても秋の気配が漂っているが、では何に一番強烈に秋を感じているかというと、それはよくわからない。

 そんなことを思いながらブラブラ歩いていると、遠く畑の向こうを歩いているじいちゃんに気がついた。そのじいちゃんは、自分の身長より長い竹を2本、杖代わりにして歩いている。腰は90度に曲がっているので、杖をつかむ位置は半分のところだ。両腕を前に突き出し、2本の杖を交互にアルファベットのXみたいな形にして交互に突きながら歩く。

 このじいちゃんは、僕が何度かランニングの際に追い抜いたことがある。そのせいか、じいちゃんは僕のことを「跳ねる人」と呼ぶ。「あんた、いつも跳ねて回っている人だね」と僕に確認する。

 久しぶりに見かけたので、追いついて声をかける。

「まだまだ元気で歩いているんですね」と、挨拶すると
「生きていたから、ここまで歩いてきた」と言って、ワハハハと笑う。

 こんなにヨボヨボになり、歩いていると言ってもほとんど杖にしがみついているような格好なので、このままいつ行き倒れになるかわからない。もしかしたら、そうやって行き倒れているところを誰かに発見されるということもあるのかもしれないなと、ふと思う。

 ただ、昔はこういう死に方は嫌だなと思っていたが、最近はそれもまたいいかなと思うようになっている。歳を取り、なんとか体が動くくらいまで長生きし、畑で野良仕事中に死んだり、道端で行き倒れになったりすれば、「かわいそうに」と言う人もいるだろうが、山登りの人が遭難してクタクタになり、「オレのことは構わないから先に行ってくれ」と言って、その場で眠るように死んでしまうのと似て、「もうこのまま寝かせてくれ」と思いながら死んで行くのは、生物としてごく自然な気がする。病院でチューブをつけられ生かされているほうが、よほど不自然なことではないだろうか。

 じいちゃんと別れ、少し経って振り返ってみると、やたらに長い杖だけが目立ち、じいちゃんが杖をついていると言うより、大きなお箸が互い違いになりながら動いているようにしか見えない。「お箸の国の人だからな」という、どうでもいいような言葉が頭をよぎった。

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