おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

規則があったところで

2018-06-30 10:53:31 | 日記

 バカみたいに暑い。おまけにとんでもなく湿度が高いため、不快指数はうなぎのぼりだ。そのせいかもしれないが、世間では無差別に他人を攻撃する頭のネジが外れた人間が次々に出没している。気をつけなければとは思っても、地震同様、どうにも防ぎようがないというのが現実だ。

 というのも、そもそもネジが外れた人間というのは、死刑になりたいなんて願望を抱いて犯行に及んだりする。今の法律では、二人以上は殺さなければ死刑にはならないということもわかっている。結果、通り魔的な犯罪が起こる。いくら刑罰を重くしようが、進んで刑罰を受けたがる人間には、抑止としての効力はまるっきりないのである。

 規則の中で僕らは生活している。それはまるで神様のご神託のように、人類の誕生とともにあったように感じているが、規則というのはすべて後付けにすぎない。歴史上一度も殺人がなければ、法律に殺人罪はない。誰も盗みをしなければ、窃盗罪はない。野球にしたって、バッターが球を選ばず初球からガンガン打っていけば、フォアボールなんてルールは作らなれない。サッカーのオフサイドだって、相手のゴール前でボールを待ち伏せしようという選手がいたから生まれたルールだ。

 ルールの中でなら何をやっても構わない、それどころか、ルールの盲点をつくのが賢い人間のやり方だというのが最近の風潮だが、結局のところ新たなルールが書き加えられ、ますますルールは厳格になって行く。ルール違反ではないということになれば、元巨人のピッチャーの江川卓が、ドラフトの盲点をついて空白の一日で巨人と契約をしたことだって、ホリエモンがフジテレビを買収しようとしたことだって、問題ある行為とはならなかったはずだ。

 ルールは僕らの前にあるわけではない。僕らの行動の後ろに、事後説明のようにくっついてくるのがルールというものだ。

 僕たちは時々、ルールのないような状況にあっても、わざわざ自分自身でルールを作り出し、それに制約を受けて、にっちもさっちも行かなくなったりするおかしな生き物なのである。

 

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規則違反でなければ、という考え方

2018-06-29 09:51:23 | 日記

 ずいぶん前の話になるが、日本で初めての冬季オリンピックとなる札幌大会が開催され、スキーのジャンプ競技で、日の丸飛行隊が金銀銅を独占するという快挙に、日本中が沸き立ったことがある。それまでそんな競技があることさえ知らなかった僕も、子供心に同じように興奮し、学校の階段を使ってジャンプ競技の真似事までして遊んだ。

 ところが後々になって、この快挙の裏にこんな事実があったことを耳にした。ジャンプの競技台というのは、厳密に設計が決まっているわけではなく、傾斜角度や高さなどにある程度の範囲が設けられている。それがジャンプ台ごとの個性になっているわけだが、日本がオリンピックのために用意したジャンプ台は、その規定範囲のギリギリを狙って造ったもので、世界の平均的なジャンプ台とは大きく異なるものだっだ。そのジャンプ台で、オリンピックに向けて日本選手にせっせと練習をさせたのだ。

 いよいよオリンピックという時になって、来日した外国人選手は愕然とした。今まで目にしたことがないような規格のジャンプ台に、多くの選手がボイコットして帰国しようとした。確かに違反ではなかったのだが、常識からは大きく外れていたのである。

 オリンピックと言えば、バドミントンの試合だったと思うが、ここで負けた方が次の試合は楽な相手と対戦できるからと、対戦相手同士がお互いに負けようとし、おかしな試合になったことがある。それ以降、無気力試合の禁止という新たなルールを付け加えなければならなくなった。

 高校野球でも、ルールの適用範囲内だとゴジラ松井を四打席連続四球で歩かせた試合があり、是か否かで大論争になったことがある。

 日本の野球ではセオリーとなっている犠牲バントは、大リーグでは大差のついた試合ではやってはいけないことになっている。が、これはルールブックに書かれているわけではなく、常識として暗黙の了解となっている。

 スポーツでも社会生活でも、僕らは常識の範囲で活動する。が、時としてうっかり常識をはみ出すことがある。が、それでも許されるように、ルールというのは余裕を持って許容範囲が決められている。だから、それを逆手に取り、規則違反の半歩内側だからといって、確信犯的にそれを実行するのは、常識人とは言えない。夜9時以降は静かにという規則に対して、じゃあ、8時59分までは大騒ぎしていいのか、ということにならないのは、大人ならわかるはずだ。

 昨夜のW杯の日本の戦い方は、勝負に徹したという説明がなされていて、それについては賛否両論あるようだが、たとえ合法だとしても、やってはいけない常識というものがあるということを、せめて子供たちには教えてほしいものだ。

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肛門がゆるむ

2018-06-28 11:16:56 | 福島

 トトが死んで3ヶ月が経つ。いなくなったことに慣れたとも言えるし、全然慣れないとも言える。悲しみは時間とともに癒えるかもしれないが、トトの死は僕にとってずっと覚悟していたことだったので、ついにこの日が来てしまったかという終わってしまったことの寂しさしかなかった。

 今はまだ高齢のドリが残されているので、なるべくドリのことばかり考えるようにしている。そのドリも、去年の暮れに倒れてからは、すっかり年寄りになってしまい、トト同様、毎日覚悟して暮らしていかなければならない。

 耳が遠くなったので、名前を呼んでも知らん顔だ。後ろ足が弱ってきたので、方向転換をするのに尻餅をついたり、坂道を登るのに苦労する。その様子は、トトを真似しているわけではないだろうが、晩年のトトにそっくりになりつつある。

 近頃は、体の筋肉が衰えてきているのだろう、横たえた体を起こそうと力を入れると、肛門からポロリとウ○コが転がり落ちることがある。トイレに関しては、絶対に失敗しなかったドリは、つい出てしまった自分のブツに対面し、なんとなくバツが悪そうだ。でも、大丈夫。そんなことはちっとも気にすることはない。老後くらいリラックスしてストレスのない生活を送ればいい。少々しまりがないくらいがちょうどいいのだ。

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言霊信仰

2018-06-27 11:27:01 | 日記

 連日W杯の熱戦が続き、僕も毎日のように夜中に起き出すと、熱心に観戦している。おかげでなんとなく寝不足気味になっているが、トップクラスの技を見ることができるのは刺激的だ。中でも、ロナウドやメッシといった超一流選手たちの、追い込まれれば追い込まれるほど精神力の強さを発揮する凄さは、感心するのを通り越して呆れるほどだ。だからこそ、超一流なのかもしれないが、彼らはプレッシャーに押しつぶされるなんてことはないのだろうか。

 さて、今回のW杯がいつも以上に盛り上がっているのは、日本選手の大活躍がある。W杯にしろオリンピックにしろ、試合前はマスコミが実力以上に大騒ぎして盛り上げに盛り上げ、蓋を開けてみると「なあんだ、大したことないじゃないか」というのが通常のパターンなのだが、今回は期待していなかった分、余計に盛り上がっている。

 それにしても、日本人のメンタリティーには、大昔から言霊信仰というのがあり、今だに大手を振って日本国民の行動を支配している。言霊信仰とは、つまり、言葉を口にすると、それが起こりそうな気がするという感情だ。だから、迂闊にも後ろ向きな発言はできない。そんなバカなと思っている人でも、結婚式のスピーチで「切れる」「わかれる」という言葉を堂々と口にできないだろう。

 社員旅行の前日、「事故が起こらなければいいが」なんてことをうっかり口にし、実際に貸切バスが横転でもしようものなら、口にした社員は「おまえがつまらないことを言うからだ」と責められる。

 福島原発の事故にしたところで、東電は避難マニュアルを住民に配布しようとしたが、住民は避難マニュアルがあるということは危険なんじゃないかと反発し、東電は避難マニュアルを用意しなかったのだ。

 口にしたことは、起こりそうな気がする。だから負けそうなときでも、楽観的観測だけを口にする。分析の結果、負けそうだと思っても、それを口に出すことは控えようとする。が、今回のW杯だけは言霊信仰を前面に押し出し、起こってほしいことだけを口に出して応援するのが、正しい観戦の仕方だろう。いいぞ、ニッポン。がんばれ、ニッポン。

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散歩の猫

2018-06-26 11:30:34 | 里山探検隊

 必ずというわけではないが、散歩の時には大概首からカメラをぶら下げていく。目的があってカメラを持っていくわけではないので、なんにも撮らずに帰ってくることのほうが多いが、季節の花や野鳥、珍しい野生動物に遭遇したりすると、シャッターを切る。夜明けの不思議な光線や、夕暮れの雲間から射し込む光や、嵐の雲など、普段とちょっと違ったふうに感じる風景にもカメラを向けることもある。

 反対に、いくら綺麗だと言っても、公園や他人の家の庭といった人工物はあまり撮らない。同じ動物でも、飼い犬や飼い猫というのも食指が動かない。

 それでも、今までに撮った写真を見返していると、犬の写真はないのに、猫の写真は不思議と撮っている。考えてみれば、散歩の途中で出会う時、犬の場合はほとんどが飼い主が一緒にいるのだが、猫はほぼ単独行動なのだ。おそらくそんな野生的なところに、シャッターを切っているのかもしれない。

 以前は、誰よりも早く猫の気配をドリが察知し、その瞬間には猫に突進しようとしたので、リードを抑えるのに必死で写真を撮る暇なんてなかった。が、歳をとったせいかすっかり猫にも興味をなくし、姿を見かけたとしても我が道を行くだ。最近は、どこからか視線を感じたりすると、猫がじっとこちらの様子を伺っていたりする。そういう時は、つい写真を撮ってしまうアベさんなのである。

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犬と扇風機

2018-06-25 12:05:46 | 福島

 W杯の日本対セネガル戦が深夜からあるというので、夜中まで少し寝ていようと夕飯後に寝ることにした。普段は冷たいフローリングの上で寝るドリは、人間の近くで寝たいらしく、暑いにも関わらず枕元にきて寝る。

 時間が早いということもあって、なんだか暑そうにしているので、クーラーをつけて扇風機もつけてやる。涼しい上に空気も動くのでドリは快適と見えて、長々と横になって熟睡している。

 深夜、サッカーが始まる前に起きたものの、どうやらこっちは風邪を引いたらしく、二日酔いの朝のように頭がガンガンする。それでも起き出し、テレビの前で日本代表を応援すると、僕の応援の甲斐があったようで、なんとか試合は引き分けに終わった。ああ、負けなくてよかったと、再び布団で寝たが、今朝は頭が2倍くらい重たい。これはしっかり寝冷えだな。

 午前中は畑に水をやりに行ったりしていたが、さすがにランニングに出かける気がしない。せっかくの休日なのに、がっかりだ。それに引き換え、ドリは風邪をひくこともなく、日中はフローリングの上で扇風機を前にして昼寝をしている。暑さにはめっぽう弱いくせに、風邪をひくことはない。その丈夫な体を、休日の時くらい貸してほしいものだ。

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収穫の夏

2018-06-24 11:48:42 | 福島

 朝起きると、外は白い霧で覆われていた。こんな日は天気が良くなる。天気予報をみると、福島が全国でも一番暑くなるようで、32度予想だ。昨日までが肌寒かっただけに、福島県人はぐったりしてしまうだろう。

 朝の散歩は約束通り、ドリを連れてキュウリの収穫にいく。この日を待ち続けて来たドリは、見ていてもルンルン気分なのがわかる。普段の重い足取りはどこへやら、夏草をかき分け畑に直行だ。

 今日のところは、キュウリが3本。そのうち曲がって形の悪いキュウリは、その場でドリにあげることにする。

 ボリボリと丸かじりする変な犬。これからはどんどん収穫できるだろうから、そのうちキュウリ地獄にうんざりして、最後はドリのオヤツとなるのだ。

 他には万願寺唐辛子が大きくなっていたので、試しに2本だけ収穫する。

 炒め物かな、それとも天ぷらかな。今年は豆が途中でダメになってしまったので、その代わりに万願寺唐辛子がたくさん採れるとありがたい。さあ、これからは食卓がどんどん賑やかになっていくだろう。庭の隅ではナスやゴーヤが少しずつ大きくなり始め、勝手に増える大葉は、田楽につける大葉味噌にしたりギョーザの具に加えたりして大活躍している。

 畑から帰る頃には、すっかり霧は晴れ、夏らしい青空が広がった。来週は再び雨模様だから、今日は貴重な一日になるだろう。

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ジョウロの修理

2018-06-23 11:29:16 | 福島

 我が家の畑では、春菊がすっかり黄色い花をつけて満開になり、小松菜は葉っぱが黄色く萎えてしまった。可哀想だが、食べられなくなったのですべて引っこ抜いた。さて、次はそこに何を植えるかだ。今までに買ったタネの残りがいろいろあるので、その中から今の季節に合ったものを蒔くのがいいだろう。

 というわけで、今朝はクワと水をたっぷり入れたポリタンクとジョウロを持って畑に出かけ、ふた畝ほど掘り返した。本当は雨が少ないので掘り返したところに水を撒いておき、午後からでもタネ蒔きの予定だったが、キュウリやトマトの葉っぱが元気がないようなので、持っていった水はすべて野菜の苗たちのために使った。

 畑が家の近くにあれば、ホースを引っ張っていき水を撒くことができるが、車で行くしかない我が家の畑は、いちいちジョウロで撒くしかないのだ。ところが、このプラスチック製のジョウロはいつ買ったのかわからないくらいの年代物だから、すでにヒビが入り、あちこち欠けてきているのだ。おまけに首の部分や先端のシャワーヘッドの部分はグラグラする上、簡単に外れる。畑に水を撒いていても、畑よりも自分のズボンの方にたっぷりと水をかけている始末なのである。

 で、思い切ってホームセンターにジョウロを買いに行くことにしたが、置いて合ったのはすべてポリバケツと同じ水色をしたプラスチック製で、デザインもダッサダサですっかり買う気を削がれてしまった。仕方がない、シーリングテープでも買って、今あるジョウロを修理するか。外れて困るヘッドは接着剤でくっつけてやろう。ジョウロはそのうちカッコよくて使いやすいのが見つかるだろう。

 ちなみに、ジョウロは漢字で書くと「如雨露」だが、実はポルトガル語の「jorro」から来ているらしい。南蛮渡来のブツだったのね。

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畑の見回り

2018-06-22 11:13:41 | 福島

 梅雨入り宣言したもの、ちっとも雨が降らないせいで、畑の作物が元気をなくしていた。ようやく一日だけまとまった雨が降ったので、畑の様子を見に行くことにした。といっても、一番楽しみにしているのは我が家のドリで、キュウリに目のない変な犬は、連日畑に行こうと畑方面に向かってリードを引っ張るのだ。まるでサルカニ合戦のカニのように「早く芽を出せ」と作物にプレッシャーをかけたいのだろう。

 今朝は久しぶりに夏らしい快晴。からりと晴れ上がった空が、早くも梅雨明けしたんじゃないかと思わせるような爽やかさだ。どれ、今日は畑に行ってみるか。

 すぐに畑に行くことを感づいたドリは、普段はヨボヨボしか歩けないのに、畑に行くときばかりはやたらに張り切る。張り切りすぎて後ろ足がついていかず、自衛隊のように匍匐前進をしてでも畑に向かう気だ。

 一番乗りのドリ。じゃあ、野菜たちの成長具合を確認してこよう。

 里芋は芽を出すか心配だったが、ずらりと畝の上を整列している。でも、食べられるほどになるにはまだまだ時間が必要だ。

 パプリカはずいぶん大きくなってきた。心配なのは食べ頃になると、どこからともなくハクビシンが現れて、美味しそうなところを齧ってしまうことだ。

 トマトもミニトマトも、今年は豊作の予感。早く赤くなんないかな。

 そして、キュウリ。おお、かなり大きくなっているではないか。この分だと日曜日には食べ頃のサイズになっているだろう。ドリよ、今日のところは少し辛抱してくれ。そのうち食べきれなくなるほどでき始めるから、そしたらお前の主食はキュウリにしてやろう。

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我を忘れる

2018-06-21 11:22:19 | 日記

 小林秀雄の「読書について」を読んでいたら、こんな一節にぶつかり、しばらくそのことをぼんやり考えてみた。それまで人々を夢の世界に連れて行ってくれた小説が、映画の登場によって観客を奪われてしまった。小説には、圧倒的にリアルな世界を作り出す映画の力を超えることはできないとした上で、読書の本来の楽しみというものを紹介して行くのだが、小林秀雄はこうした映画の持つ力に身を委ねた観客を、現代人の異常な心理症状だと断ずる。

「自ら行動する事によって、我を忘れる、言い代えれば、自分になり切る事によって我を忘れる、という正常な生き方から、現代人はいよいよ遠ざかって行く」

 自分のことが何よりも大好きという人を除いて、大概の人は自分自身にまるっきり満足している人というのはいないだろう。僕らは自分自身に何かしら不満を持っている。自分のダメなところをたくさん知っている。自分の能力のなさや才能のなさ、根気のなさ、意思の弱さなどなど、あまり面と向かいたくない部分ばかりで、自分は成り立っているんじゃないかと感じている。

 さて、「正常な生き方」というのは簡単だ。とにかく今の自分を超えるために行動を起こす。努力を始める。これが、つまらない自分から解放される唯一の手段だ。が、このごく当たり前のことから現代人は遠ざかって行く。

 こういうことを強く感じるのは、オリンピックやサッカーなどのイベントがあるたびに起こる異常なまでの盛り上がりが、近年ますますひどくなって行くように感じるからだ。

「意力ある行為などという厄介なものなしに自分を忘れたい、それには心理の世界を様々な妄念で充たせばよい、そういう道、言わば社会人たる面目を保ちながら狂人となる道を、いよいよ進んで行く」

 ワールドカップを目指すサッカー選手なら、自分が出場できなかった試合をどういうふうに観るだろう。そこには同じように日本チームの活躍を喜びながらも、嫉妬や悔しさや自分の未熟さなど、複雑な感情を抱いているに違いない。

 他人のことを素直に我がことのように喜ぶことができるというのは、もしかしたらそこにはすべての努力を放棄した狂人がいるということかもしれない。

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