バカみたいに暑い。おまけにとんでもなく湿度が高いため、不快指数はうなぎのぼりだ。そのせいかもしれないが、世間では無差別に他人を攻撃する頭のネジが外れた人間が次々に出没している。気をつけなければとは思っても、地震同様、どうにも防ぎようがないというのが現実だ。
というのも、そもそもネジが外れた人間というのは、死刑になりたいなんて願望を抱いて犯行に及んだりする。今の法律では、二人以上は殺さなければ死刑にはならないということもわかっている。結果、通り魔的な犯罪が起こる。いくら刑罰を重くしようが、進んで刑罰を受けたがる人間には、抑止としての効力はまるっきりないのである。
規則の中で僕らは生活している。それはまるで神様のご神託のように、人類の誕生とともにあったように感じているが、規則というのはすべて後付けにすぎない。歴史上一度も殺人がなければ、法律に殺人罪はない。誰も盗みをしなければ、窃盗罪はない。野球にしたって、バッターが球を選ばず初球からガンガン打っていけば、フォアボールなんてルールは作らなれない。サッカーのオフサイドだって、相手のゴール前でボールを待ち伏せしようという選手がいたから生まれたルールだ。
ルールの中でなら何をやっても構わない、それどころか、ルールの盲点をつくのが賢い人間のやり方だというのが最近の風潮だが、結局のところ新たなルールが書き加えられ、ますますルールは厳格になって行く。ルール違反ではないということになれば、元巨人のピッチャーの江川卓が、ドラフトの盲点をついて空白の一日で巨人と契約をしたことだって、ホリエモンがフジテレビを買収しようとしたことだって、問題ある行為とはならなかったはずだ。
ルールは僕らの前にあるわけではない。僕らの行動の後ろに、事後説明のようにくっついてくるのがルールというものだ。
僕たちは時々、ルールのないような状況にあっても、わざわざ自分自身でルールを作り出し、それに制約を受けて、にっちもさっちも行かなくなったりするおかしな生き物なのである。