朝の犬の散歩の前、夜明けの涼しい時間帯を利用して読書をしている。今読んでいるのは、図書館から借りてきた「教科書が教えない社会科の授業 先生、日本のこと教えて」(服部剛著)で、ようやく今日読み終わった。読んでいる途中、何度も「目から鱗」体験をし、僕が今までいかに雰囲気でしか物事を考えていなかったか、情緒に流され、浅い観点からしか物事を見ていなかったかを教えられた。
最近の安保法制についての議論を聞いていると、皆同様に内容がよく理解できないという。それでも自分の立場はある程度ははっきりさせないと議論にならないので、それなりの意見を持っている。ところが、その意見というのが、僕同様知識や体験に裏打ちされているわけではないのが実情だろう。というのも、学校時代に誰も現代史についてちゃんとした授業を受けていないからである。
「軍隊とは」「軍人とは」ということについても、ぼやっとしたイメージでしか捉えてはいないだろう。現に、この本の中でも中学生にアンケートを取った結果、軍人とは「マッチョ」とか「ミリタリーマニア」とか、「血の気が多い人」などの答えが多いという。
軍隊の仕事とは何か。「国と国民を守る」のがその任務である。だから、東日本大震災のときのような災害時にも出動する。最近はその姿がマスコミでも幾度も取り上げられ、子供たちにとって尊敬すべき存在に変わってきたが、昔は「人殺し集団」などと呼ばれていたのである。
「国を守る」という観点から、外国では原子力発電所は軍隊が守っている。当たり前のことで、そこを攻撃されれば、原爆と同等の被害を受けるからだ。近頃では自爆テロをしなくても、ドローンという便利な機械が出てきたので、こいつを飛ばせば簡単に攻撃できる。となれば、ますます軍隊が原発を守る必要性は高くなるはずである。ところが、日本では自衛隊が原発を守るなどということは絶対ない。なぜなら、原発は安全で、避難マニュアルでさえ必要としなかったのだから。
国際的に、軍人になるにはふた通りしかない。志願兵制度と徴兵制度だ。世界的に見れば徴兵制度のほうが当たり前の制度で、志願兵制度は例外である。というのは、アメリカなどの志願兵を見ればわかるように、兵隊になって最前線に行くのは、人種差別を受けている有色人種だったり、移民系の人間だったり、つまりは所得の低い貧困層が軍人になることが多い。裏を返せば、政治家や官僚、富裕層の子供は戦場に赴くことはなく、そうして、社会を牛耳り制度を作り、戦争へ舵を取ったりするのもこういう層なのである。
徴兵制度にして、地位や身分によって兵役免除がなされないような制度にしておけば、政治家や官僚の息子だって同じように兵役につく。そうなれば、親心として簡単に戦争には突入できないのである。自分の子供が安全無事だと思うから、戦争をするのが平気になる。
国や国民を守るためには、そのリスクと義務は国民全体で平等に担わなければならない。「地区のゴミ清掃は有志がやってくれているから、義務化することはない、やりたい人がやればいい」などという意見がおかしいのは誰にだってわかる論理だ。
フランスは1990年代まで徴兵制度だったが、その後志願兵制度に変えた。その代わり、リスクと義務を他人事にしないために、「体験入隊」という制度を始めた。これは18歳になると国民はすべて軍隊に体験入隊しなければならいという制度で、入隊経験の資格を得なければ、選挙権も大学入試も運転免許も取れない。その根底には、義務を果たさない者には、権利は与えられないという考えがある。
スイスは永世中立国だ。どことも同盟は組まないと宣言した以上、どこの国にも守って欲しいというわけには行かない。従って、スイスは国民皆兵で、兵役の義務がある。
徴兵制度になるとすぐに戦争になるのかどうか。志願兵制度なら戦争にならないのか。また、軍隊を放棄して国民ひとりひとりが国を守る義務を負うのがいいのか。そこまで考えなければ、安全保障をとやかく言っても始まるまい。