おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

路地の絵から海の絵に

2018-09-30 10:54:50 | イラスト

 細い路地を抜けると、ぽっかりと開いた空間があり、人がわたるための踏切があった。渡った先には、再び細い路地が続き、無機質なビルが民家の屋根の上から覗いている。旅先で撮った写真を元に、そんな風景を絵に描いていたら、あまりの乱雑でゴミゴミした風景が面倒臭くなってしまった。色は地味だし、狭苦しくて息苦しい感じがするし、どうしようかなと悩んでいたが、手前から踏切まで描いたところで思い切って方向転換することにした。踏切から向こうの景色をやめ、水平線だけにしてしまったのだ。

 まだまだ時間がかかりそうだった絵は、これだけで終了した。

 雰囲気は鎌倉かどこかにありそうな景色だが、実在はしない。ただ、漁港や港を中心に栄えた町には、こんな場所は多いのではないだろうか。かつては交通や荷物を運搬する手段は、陸上よりも海上が主流だった。古くから栄えた町は海岸沿いに多い。

 今住んでいる福島県にも海はあるが、中心部となる福島市や郡山市は太平洋と日本海をつなぐ中間地点にあり、海からは遠い。不思議なことに東北の太平洋側というのは、海辺にある大きな都市は仙台くらいで、どちらかというと内陸の方が栄えている。福島に来て里山の絵はたくさん描いたが、海の絵がほとんどないのは、原発事故の影響があったこともあるが、海岸沿いに大きな町が少ないこともあって、行く機会が少ない。

 こうした海とともに生きている人たちを見たくなったので、ドリの調子が良ければ、一度福島の海岸沿いを訪ねてみたいと思っている。三陸海岸の電車にも乗りたいし、リアス式海岸にある漁村も訪ねてみたいものだ。

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贅沢な足

2018-09-29 11:06:19 | 日記

 車を車検に出した。外国の車に比べて性能が良く故障しにくいと言われている日本車なのに、なぜか車検だけはせっせと実施する。そんなに日本車は故障しやすいのだろうか。

 車検もだが、日本の自動車にかかる税金はどこの国よりも高いとニュースにあった。自動車を買うときには自動車取得税に消費税、車を持てば車検を受けるたびに自動車重量税を取られ、車を動かそうとすれば今度はガソリン税だ。おそらくこれら以外にも、あちこちに税金はかかっているだろうが、そもそもは日本中の道路を整備するための税金だったはずだ。

 民主党が政権を取った時、高速道路の無料化実験というのがあった。いつの間にやら消えてしまったが、高速道路は建造費を取り戻せば無料になるはずだった。ところが、高速道路を作り続けるための財源として利用されたため、必要のないところまで立派な道路が作られ、維持管理にまた金がかかるという構造になってしまった。

 今の若者は、車を所有すると金がかかりすぎるからと、車離れの傾向にあるらしい。国民の足として普及されなければならなかった自動車は、贅沢品へとなってしまった。国内で車が売れないとなると、メーカーはナビやら自動ブレーキアシスト装置やら、付加価値をつけて単価をあげようとする。ますます自動車は高級品となり、庶民にとっては贅沢な足になろうとしている。

 自動運転技術を磨くのも結構だが、今すべきことは、すべての車のアクセルとブレーキの踏み間違いをなくす装置や、一方通行の場所に侵入しようとしたら、大きな警告音とともに減速するような仕組みだろう。

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ポスターを作る

2018-09-28 10:37:42 | 福島

 2年ほど前から続いている「空の会」というグループで、11月に展覧会をやることになった。誘われて参加しているので、どういった経緯で始められた会なのかはわからないが、ひとつの共通の「お題」のもとに作品づくりをするというお遊びだ。「一緒にやりませんか」というお誘いだったが、「できれば、会合にはカフェを利用させてもらえれば嬉しい」というから、僕はオマケみたいな参加の仕方でいいのだろうと考えていた。

 会は続いているものの、それぞれに別の展覧会などに参加し、どちらかというとそっちの方が力が入っているので、惰性で続いている感があったが、作品が溜まってくると展覧会をやろうという話になった。が、あいにく開催時期には僕は法事があって九州に行くので準備は手伝えない。その旨を伝えると、それでも構わないという。

 が、あとひと月近くに迫った展覧会の準備は遅々として進まない。仕方がない、絵につけるタイトルのパネルだとか、ポスターだとか、会場に飾る挨拶のパネルだとか、案内状のハガキだとか、そういう備品は僕が手作りすることにした。

 とりあえず完成したポスターがこちら。ポスターにはメンバーの名前も入れるが、ここでは個人情報の保護のため消しておいた。展覧会の告知は開催時期が近づいたら、もう一度くらいやろうと思っている。

 それにしても、どんなところでもそうだが、掛け声をかける人は多いものの、率先して動こうとする人はなかなかいないなあ。

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大葉のレシピ

2018-09-27 11:45:37 | 福島

 昨日から、ビシャビシャと雨が降り続き、気温も20度に届かない。日は短くなるし、どんどん寂しくなって行くのだ。この前植えた白菜や大根は、葉っぱは出たものの、ちっとも大きくなってくれない。青梗菜や小松菜や春菊などの葉物野菜はあるものの、毎日の献立には限界がある。

 久しぶりに餃子でも作ろうとスーパーで白菜を見てみると、4分の1カットで178円もする。諦めてキャベツを見ると、こちらは半玉になったものが67円で売っていた。よし、キャベツ餃子にでもするか。

 餃子は最近、我が家の定番メニューとなっている。湯通ししたキャベツや白菜をみじん切りにした後、たっぷりの大葉のみじん切りを入れるのがオリジナルだ。多ければ多いほどさっぱりと食べられる。これにミンチを混ぜて生姜やニンニク、塩コショウで味を整えると、大判の皮で包んで焼く。しょっちゅうやっているので、近頃は皮と具の分量がピタリと合って、どちらかが余るということがない。おお、気持ちいい。

 大葉のメニューでもうひとつ定番になっているのが、トマトと大葉のパスタだ。ペペロンチーノの要領でニンニク、鷹の爪を油に入れ、香りが立ったところにタマネギのスライス、カットしたトマトを炒め、最後に大葉のみじん切りを大量に投入して、麺とあえる。これまたさっぱりとして、食欲が進む一品だ。あまりにうまいので、カフェのメニューに加えようかとも考えたが、こんなうまいものはこっそり食いたいので、他人にはとりあえずレシピだけ教えるようにしている。

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究極のひとりよがり

2018-09-26 10:45:55 | 福島

 芸術の秋にふさわしく、この季節になるとあちこちで絵画展や写真展など目白押しだ。そういうこともあって、芸術作品についての話になる時がある。が、話を聞いていると、どうも芸術というとどことなく高級なものとしてのイメージがあるようで、僕はいつも違和感を感じる。というのも、陸上選手のようにタイムや距離というはっきりした決着がつくのとは違って、芸術作品なんてのはどこまで行っても鑑賞者の主観を出ない。公募展などでは仕方がないので順位をつけているが、応募して落選した人間だって「あれは審査員の主観だ」くらいの事情はわかっている。

 芸術作品とは究極のひとりよがりである。と僕は考えているが、良く言えば、究極のひとりよがりが許されるのが、唯一芸術の世界でもあるのだ。

 包丁を造る鍛冶屋が、自分の理想とするデザインを追求するあまり、切れ味を犠牲にしたとしたら、そんなものは誰からも見向きもされない。工芸品とは、機能や使い勝手に優れたものが良い品物である。近頃は、優れた工芸品のことを、「工芸品の枠を超え芸術の域に達している」なんて表現をすることがあるが、芸術は工芸よりも高級だという意識があるのだろう。工芸の世界では、ひとりよがりは通用しないのである。

 クラシック音楽は高級で大衆音楽は低俗だと思い込んでいる人もいるだろうが、辛い戦争体験をくぐり抜けて来た年配者が歌う「同期の桜」のような軍歌を、簡単に低俗だと言い切るのは難しい。反対にクラシックでも、公衆便所のBGMに流れていたりするのが、果たして高級な聴き方なのだろうか。

 普段は絵画作品を前に「色使いが素晴らしい」とか「構図に見るべきものがある」と語る批評家も、戦争や被ばく体験をした人が描くリアルな絵を前にして、色使いがどうこうと軽口を叩かなくなるのは、芸術作品は、作家が究極のひとりよがりのうちに目指しているものがあるからで、本来誰かが口を挟むような余地はない。作品に理解しやすいもの、難解なものがあるという考えが、そもそも幻想なのである。

 

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3週連続たこ焼きパーティー

2018-09-25 14:26:04 | イラスト

 昨日は、午前中に車検に車を出した関係で、午後からランニングに出かけることにした。たっぷり昼飯を食い、1時間もせずに走り始めたので、すぐに体が走るのを嫌がりだした。それでもなんとか30分ほど走ったが、やはり食後のランニングは厳しいのだ。結局、その後はブラブラと風に吹かれながらのウオーキングとなったが、駐車していた車まであと500メートルほどになったところで、突然の夕立に見舞われ、慌てて全力で走ることになってしまった。「いつまでチンタラ歩いとんじゃ」と、神様が堪忍袋の尾を切らしたのだろう。

 いつもなら、ランニングの後はビールビールとなるところを、今日は夕方車検の車を取りに行かなければならないので、グッと生唾を飲み込んで我慢する。とりあえず車を取ってくるまではお預けだ。

 夜は3週連続のたこ焼きパーティーだ。三度目にもなるとさすがに手慣れたもので、準備を早ければ焼くのも上達する。まんまるのたこ焼きが、外はカリカリ中はトロトロで焼きあがる。それを一気に口に放り込み、あまりの熱さに全身をよじり、口を開けたままハフハフ大騒ぎしながら食う。飲み込むまではビールでたこ焼きの温度を下げたりはしないのが、醍醐味なのだ。

 ああ、うまいなあ。来週も休みの日はたこ焼きでいいなあ。なぜ平日にやらないかと言うと、食べ終わるまで毎回2時間はかかるからである。

 

 今日のイラストは、以前白黒で描いたキャベツ畑とモンシロチョウ。空にたっぷりスペースを取った構図にした。

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貝殻

2018-09-24 09:14:09 | イラスト

 せっかくの休日なのに、今日は車検があるため、朝のうちに車を持って行き、検査が終わった夕方にはまた引き取りに行かなければならない。ということは、昼間っから酒を飲んでグダグタしていることはできないということになる。ちょっとでもアルコールが残っていて、途中で通行人にぶつけて逃げたりしたら、人生台無しになってしまうのだ。従って、日中は品行方正にするしかないのである。

 何を描くかとか、どう描くかとか、そういうことに悩む前に、絵とは色であるということに開眼した近頃のアベさんは、新たなステージで絵を描いている。去年一年、里山探検隊を描いた時には、図鑑である必要もあったため、対象が持つ固有色や形から大きく逸脱することはできなかった。その点、今は好きな形を好きな色で描くことができるので、試してみたいことが次々に出てくる。

 今度の絵は、白を色として使い、画面のほとんどを白くした。砂浜の貝殻は、貝殻の持つ固有色は無視し、波に揉まれたガラスの破片のようなシーグラスみたいに描いてみた。

 赤い服を着た女の子は、以前茨城の海に遊びに行った時、ひとりで波と戯れていた。ひとりでは寂しいので、画面では犬を描き加えておいた。今までとはちょっと違った雰囲気の絵になったんじゃないかと思う。

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天高く

2018-09-23 09:45:34 | 福島

 ずっと続いていたグズついた天気も、昨日の午後には晴れ間が広がり、今日は朝から秋晴れの空が広がった。暑かった夏は遠いところへ去り、いつの間にやら秋の真っ只中にいる。

 秋といえば真っ先に思い浮かぶ言葉に、「天高く馬肥ゆる秋」があるが、先日テレビを見ていたら、秋の収穫を喜んでいるという意味ではなく、夏の間草をたらふく食べた騎馬に乗って、敵が攻めて来る時期が来たという物騒な意味だという解説をしていた。

 今年は天候不順で、稲の成長は例年より悪そうで、穂のつき方も小さい。早いところでは稲刈りが始まっているが、今年は豊作とはいかないかもしれない。

 昨日一日、近くのお宮から、ポクポクと木を打ち鳴らす音が聞こえていた。一度見学に行った時には、大きな数珠を参加社がグルグルと回していた。お彼岸と関係あるのかな。

 秋の日を浴びて、トンボが休憩している。爽やかな秋の日は、酷暑を過ごした体にはなんだか優しく、干上がっていた気力が蘇るのを感じる。

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都会を離れた頃の絵

2018-09-22 10:50:57 | イラスト

 若い頃、大阪で10年、東京で10年暮らした。どちらも路地裏にある風呂もない安アパートで、平日には仕事場、休日には劇場や映画館で過ごし、太陽の存在も、この世に海や山があることも、湖や森があることも忘れていた。自然に触れていることを感じるのは、電車の窓から見える空くらいなものだった。ある時、郊外へ電車で出かけると、そこには久しぶりに見る畑が広がっていて、土を踏む感触まで忘れていたことに我ながらビックリした。今までの生活は何だったんだろうと、少しばかり気味が悪くなった。ニュースでは東京で殺虫剤が売れなくなったと言っていた。徹底的に清潔にしたこと、家の気密性が高くなったことで、家の中に虫が入って来ることが少なくなったかららしい。

 東京を脱出し、漠然と憧れたのが、河岸や浜辺で昼寝をすることだった。周囲に人影のない広々とした場所で、誰に遠慮するわけでもなく、大地に横になる。都会では考えられない贅沢な振る舞いだ。

 そんな頃、試行錯誤をしながらパソコンを使って絵を描き始めた。パソコンの前に座って描くため、最初のうちは想像の世界を描くのに精一杯だった。パソコンの中の絵のフォルダには、現在数百のデータが入っているが、その最初の001番の絵が、これだ。

 今回、そんな001番の絵を、新たに描き直すことにした。上の絵が下の絵に変化するのに、17年かかったことになる。

 小さくて見えないだろうが、川にはウキが浮かんでいる。ボートは構図と色のバランスを取るため、新たに描き加えた。

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海の絵

2018-09-21 10:30:08 | イラスト

 季節外れだけど、海の絵を描く。人も犬も海も、それぞれに別の場所で描いたことがあるのだが、今回はそういったモチーフを集めて、想像の世界で海の絵を描いてみた。自分でも納得いくものが描けると、しばらくは幸福感に満たされる。それは他人に認められたとか、賞をもらったとか、お金になったとかとはまるっきり関係ない。ただ、自分のやったことが自分でも満足行くものだったというそれだけのことだが、それだけのことがどれほど難しいか。

 夜、テレビで面白いものをやってなかったので、無料の動画サイトGyaoで映画を観ることにした。あるときある家族の玄関先にボタンのついた箱とともに見知らぬ男の訪問を受け、「24時間後に箱を回収に来るが、それまでにボタンを押せば、1億円があなた方のものになる。その代わり、この世界のどこかで人がひとり死ぬことになる」と告げられる。夫婦は生活に困っていることもあり、ついボタンを押してしまう。その結果を書くとネタバレになってしまうので伏せておくが、展開は想像がつくだろう。

 つまりは現代版の「金の斧、銀の斧」なのである。なくしたのが金でも銀でもなく普通の斧だと神様に正直に申告することで、ご褒美として金の斧も銀の斧も手にすることができる。映画では、目の前の不幸を回避するために、正直に暮らすことを放棄してしまうのである。

 見知らぬ男が何者かは最後までわからないが、話は昔からある神様が人間を試す物語である。神様は出てこないが、人質になった友人を救うため、死ぬような目に遭いながらも死刑台に戻って来る「走れメロス」も同じような主題を扱っている。

 そういえば、最近こんな神様が出て来るような映画や話が減ったなあと思う。救いようのないドラマや、現実はどうやっても変えられない人間の無力さばかりが強調される。

 が、正直に努力することを放棄した瞬間、未来は逃げて行くということでは、不誠実な「金の斧、銀の斧」を地で行くことになる。スポーツ選手などは練習がきついからと手を抜けば、その瞬間金メダルは消滅する。

 が、僕らは案外、ボタンを押すだけで1億円もらえる箱を羨ましく思う。

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