おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

スマホを使ってみる

2021-06-30 11:38:22 | 日記

 ワクチンの接種券というのが数日前に送られて来た。いよいよ順番が回って来たかと、早速予約をしようと中身を見ると、予約日は6月30日の日付になっていた。電話では受け付けていなくて、スマホを使うか、同封されて来た封書で送り返すかである。予約の受付日までには数日あるので、さっさと封書で送り返したほうが早そうだったが、この前スマホを買ったことだし、こういう機会なので利用してみることにした。

 で、今朝は午前8時半からの受付となっていたので、それまでにいろいろ用事を済ませておく。8時29分に一度アクセスしてみたが、予約のアプリはきっちり制御されているようで、ご利用できませんの文字が出る。8時半、さてどうかなとアクセスすると、ちゃんと予約画面が開いた。

 その後はLINEを使っての申し込みになるが、事前に申し込み方法を確認していたので、あっという間に予約が完了した。おそらく三春町では10番以内だったんじゃないかと思う。説明にあった通り生年月日を書き込む欄で、カレンダーを開いて入力しようとしたら、数十年分も遡らなくてはならなくなって、結局文字入力した。最初からこっちにしておけば、3番以内に予約できたんじゃないかと思っている。

 普段、まったくスマホを使っていないだけに、指先がゴチョゴチョやることに慣れていないので、すぐに変な画面が現れてしまって、最初からやり直しになったりする。これを老人にやらせるというのは、やっぱりかなりハードルが高いように思う。僕にはスマホで便利になったというよりも、なるべく人と関わらないで生活できるようになったというくらいしか、スマホの効用は感じられない。そのくせ、何かというと「絆」とか「コミュニケーション能力」とかを尊ぶのだから、一体世の中はどこへ向かおうとしているのだろう。

 ネットの発達で、情報の世界は狭くなった。大谷くんがニューヨークでホームランを打てば、すぐに記事になる。

 しかしながら、ふと我に返って自分の世界が広がったのかと考えれば、昨日の自分と何にも変わっていないことに気づく。もし今、テレビも新聞もスマホもない生活を送らなければならないとしたら、新型コロナウイルスの騒動も、隣人が罹ってはじめて慌てるようなたぐいの病気に違いない。情報が豊かなばかりに、僕らはいつの間にか、不安やら恐怖に苛まれているということもある。

 予約も無事終わり、ネットで注文していた「刑事コロンボ」も昨日届いた。池内紀さんの「ひとりで旅は楽し」を開くと、前書きにこうあった。「のんびりするには勇気がいる。知恵がいる。我慢がいる。というのは、いまの世の中の構造が、人をせかし、動かし、引き廻して、お金を使わせるようにできているからだ」

 

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安全・安心を目指して

2021-06-29 11:47:53 | 日記

 関西電力は先日、運転開始から40年が経った福井県の美浜原発を再稼働させた。原発は安全を確保するために、稼働から40年が過ぎたものは廃炉にすることになっていた。当然廃炉になるものと思っていたところが、点検の上、「安全・安心」が保障されたので再稼働に踏み切ったという。

 が、そもそも原子力発電所は、安全であることが大前提で作られているはずである。だからこそ40年という期限を区切って稼働させていたはずなのだが、ここに来て安全に運転することを努力目標とすることで、このまま使い続けることになった。この理屈で言えば、事故を起こして安全ではなくなった時に、初めて廃炉にするということになるのだろう。

 新型コロナウイルスの蔓延で、中止や再延期も検討する必要があった東京オリンピックは、「安全・安心」なオリンピックを目指して開催することになっている。

 オリンピックにしても、世界的な平和の祭典である以上、安全であることはあまりに当たり前のことである。もし世界が危険な状態にあれば、平和の祭典などということがすでに自己撞着している。ところがここでも「安全・安心」は努力目標に置き換わることで、オリンピック開催へゴーがかかった。

 もし、僕らがタクシーに乗る際に、運転手から「安全・安心を目指して運転します」などと告げられようなら、すぐに車から降りるだろう。タクシーが「安全・安心」なのは言うまでもないことであって、今さらそんなことを努力目標にしている運転手の車に、おめおめ乗っていることなどできないからである。

 おそらく、かつて甚大な被害を出した太平洋戦争も、開戦に当たって「安心・安全」がスローガンになっていたのではないだろうか。というのも、アメリカに宣戦布告した時、日本は短期決戦であっという間にケリをつけるつもりでいたからだ。すぐに決着が付く戦争なら、被害は最小限で済むはずだったのである。が、そんな日本の軍部の思惑がバブルのようにはじけ飛んだのは、歴史が示す通りである。

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雲よ、雲

2021-06-28 13:09:17 | 12音詩

 先週の月曜日は、歯医者で2本歯を抜いたため、ランニングに出ることができなかった。今日は糸を取るだけだから、歯医者の後はすぐに走ろうと思っていたら、抜糸のほかに、歯のクリーニングやら歯周病の治療やらもやったので、ずいぶん時間が押してしまった。

 それでも先週走っていないので、今日は絶対に走りたい。昼飯を食ってから走ろうかとも考えたが、梅雨とは思えない青空が広がり、午後はぐんぐん気温も上昇しそうだから、準備運動もせずにすぐに着替えて出発することにした。

 一週走っていないだけで、すでに体力は落ちている。おまけに蒸し暑いので汗が半端なく流れる。45分ほど走ったところで、足がすっかり動かなくなった。

 こういう時は頑張っても仕方がないので、風に吹かれながら句をひねくり出すことにする。

 夏空ただひとり走る
 どこまでも雲の群れ
 雲よ雲 君になりたい
 かげろう舞うモンシロチョウ

 ランニングとは関係ないが、我が家の畑の作物たちが、順調に収穫できるようになってきた。今朝もテオの散歩もついでに畑に寄り、ナス、キュウリ、ピーマン、万願寺唐辛子を採る。

 収穫した野菜たちは、すぐに朝食の食卓に並ぶ。朝摘み野菜を朝食で食べる。これほどの贅沢はなかなか味わえないだろう。そこで一句。

 キュウリナスもいで朝飯

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一流、三流

2021-06-27 11:43:17 | 日記

 ネットで購入した池内紀さんの「記憶の海辺 一つの同時代史」を読み終わった。時代背景を語りながら、自分史にもなっていて、自伝としてはかなり面白かった。毎日楽しみに読んでいたが、最近はアンが夜明けとともに活動するのに合わせ、朝の4時からテオを散歩に連れて行く5時過ぎまで読書するという日々が続いた。

 本の最終章は「おわりに ──I.O氏の生活と意見」となっていて、作者の普段の生活ぶりが語られている。これがなかなか面白くて、本編よりこちらの方をすぐに読み返したくらいだ。

 池内さんの朝は4時ごろから始まるという。庭に野鳥が水浴びするための容器を置いているが、まずそれを綺麗に掃除する。椅子に座りCDを聞く。その後仕事に移り、朝の10時に朝食となる。そのあとは昼寝をしたり旅行の計画を立てたりして、夕方に仕事をして夕食となる。ご飯は食べないのでおかずを肴に、ウイスキーだったり日本酒だったり、その日の気分で晩酌を楽しみ、ギターを弾いたりして夜を過ごす。

 池内さんの家にはテレビも車もない。スマホも携帯電話もない。作家という仕事をしながら、情報がまったく入ってこないので、いつも人より遅れをとっている。あんまり遅いので一周回って先頭に立っていることもあるという。

 車はないが、夫婦それぞれ自転車を持ち、普段はそれで間に合う。あとはタクシーを使う。年間10万円ほどだから、車を所有するよりずっと安上がりだ。別荘は持っていない代わりに、日本中の旅館やホテルを利用する。だから別荘の維持費もいらず、好きなときに好きな場所に行ける。

 池内さんは若い頃は大学の先生をやっていたが、ある程度歳を取った時に、あとは好きなことだけをやるために執筆活動一本に絞ることにした。当然決まった収入は入らなくなってしまったが、その時に考えたことは「貧乏はいくらでも耐えられるけれども、貧乏くさいのは嫌だ」ということだった。

 こういう話を読みながら、ふと思い出したのが、以前誰かの発言で「お金を稼ぐのはたいして難しいことではないが、お金を使うのは難しい」と言っていたことだ。ビル・ゲイツかスティーブ・ジョブズも同じことを言っていたような気がする。

 普通の人はそうではない。使うのは簡単だが、稼ぐのが大変だと考えている。が、やたらに浪費することが、お金の上手な使い方ではない。時間だって同じようなもので、時間がないといつも騒いでいる人は、ただ単に時間の使い方が下手くそなだけということが多い。案外忙しくしている人のほうが、時間の使い方が上手で、さまざまなことに挑戦していたりする。

 毎朝散歩しながら、いろんな庭先を眺めている。こじんまりした庭しかなくても、そこに住人のセンスが溢れ出ている家もあれば、豪邸に暮らしながら、広い庭はコンクリートで埋めてしまっているような人もいる。ライフスタイルという言葉があるが、あれは日本語に訳せば、「たたずまい」というのがピッタリじゃないかと僕は思う。生き方を含め姿の美しい人というのが、一流と言われる人なんだろうなと、つくづく思う今日この頃のアベさんなのである。

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必ず失敗する

2021-06-26 10:45:22 | 日記

 ジャーナリストで評論家の立花隆さんがお亡くなりになった。「知の巨人」と呼ばれ、田中角栄の逮捕のきっかけになった賄賂の流れは、一般に目にすることができる資料を徹底的に調査することで指摘した。

 立花隆さんの本は、若い頃好んで読んでいた時期がある。政治にはまったく興味がなかったので、最も有名な著書「田中角栄研究」はいまだ読んでいないのだが、アポロ計画で宇宙に行った人たちを追いかけた「宇宙からの帰還」、日本が動物行動学の先端を走っていることを教えてくれた「サル学の現在」、ほかにも脳死に関係する本など、ひとつのテーマを追い続けるというよりも、自分の好奇心を満足させるために調べて書き上げられる本は、読んでワクワクするものが多かった。テーマは多岐に渡ったが、今という時代の最先端がどこにあるのかということを、いつでも最重要テーマにしていると僕は感じていた。

 立花さんの本のおかげになったことがある。それは東京にいた時のこと、30歳を過ぎて就職活動をしていた時に、面接でどんな本を読んでいるかと聞かれたときに、「立花隆さんです」と即答した。十数人の応募のあった中から僕が運良く採用されたのだが、その理由を後で尋ねると「愛読書が立花隆さんと言ったので、それが決め手になった」ということだった。

 今日、Yahooニュースを見ていたら、立花隆さんの記事が目についた。すぐに読んでみると、それは70歳になり、自分の生涯を振り返ったときに、20歳くらいの人たちと自分があまりに違うところに立っているのに思い至った。そこでぜひとも20歳の人たちに話を聞いてもらいたくて東大で、「二十歳の君へ」というゼミを持った。記事はその内容についてかいつまんで紹介していた。

 自分の経験からはっきり予言できることがある、と立花さんは言う。それは「君たちの相当部分が、これから数年以内に、人生最大の失敗をいくつかするだろうということです」

「20代前半で一生取り返しのつかない失敗をしてしまった人なんていくらでもいます。その多くが、自分では文句なしにいいことをしているつもりだった、というところが人生の悲劇です。20代前半というのは、そのような思い込みに基づく大失敗を犯しやすい年代なのです」

 もうひとつはっきり予言できることがあると言う。「これから数年以内に、君たちは次から次に予期せぬ事態にまきこまれて、充分な準備ができないうちに、大きな決断を下すことを何度も何度も迫られるということです」
「準備万端ととのえた上で、人生の大きな曲がり角に差しかかることができる人はほとんどいません。準備不足は人生の常です。したがって失敗もまた人生の常です」

 最近、バイト先で自分の悪さを動画にアップして、自爆する人たちがいる。世間は、それをやったらどうなるかくらいの想像力もないのかと言う。が、僕の経験で言えば、若い頃というのは、それをやったらどうなるかなんて想像しないことばかりやっていた。なんとか人生から脱落しないで済んだのは、その頃はスマホもユーチューブもインスタもなかったからかもしれない。

 失敗で人生を台無しにするかどうかなんてのは、もしかしたら賭博みたいなものなのだろう。作家の小林秀雄さんが、若い頃に「若者は自惚れるくらいでちょうどいい」とアドバイスされ、それを忠実に守るようにしたという。僕もまたそれを読んで、なるべく自惚れるようにしていた。自分で自分が小心者であることを知っているからだ。

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トレイが開かない

2021-06-25 11:07:31 | 日記

 今使っているテレビを買うときに、一緒にDVDプレーヤーも購入した。テレビの録画はテレビ自体がやってくれるが、レンタルビデオ屋さんから借りてきたDVDを観るには、外付けのプレーヤーが必要だったからだ。パソコンで観ることもできるが、やはりドラマや映画はある程度大きな画面で観たい。

 が、近頃はネットの配信が主流になり、レンタルビデオ屋は次々に潰れて行った。それにともない、我が家のDVDプレーヤーも滅多に使わなくなり、ある時手持ちのDVDを観ようとしたら電源を入れても作動しなくなっていて、それ以来パソコンを使うようになってしまっていた。新調するにしても修理に出すにしても、1万円近くはするだろう。ますます使用頻度が減るだろうプレーヤーに今さらお金を使うという気にもなれないのである。

 昨日、ふと思い立ってプレーヤーの電源を入れてみると、電源は入り、待機状態にはなっている。問題はトレイの開閉ボタンを押しても、ビクともしないことだ。ネットで取扱説明書を見てみるが、トレイの開閉に関するトラブルシューティングは載っていない。ならば、それに関係する記事はネット上にないだろうかと検索しみると、YoutubeにDVDプレーヤーの「トレイの開閉を修理してみました」というコンテンツがいくつも出てきた。

 参考になるかもといくつか見てみると、故障の原因はほとんどモーターと連動させてトレイを開閉させているゴムのベルトの劣化だということがわかった。動画では、プレーヤーの蓋を外し、新品のベルトと交換するやり方を説明していた。

 理由はわかったが、新品のベルトを購入しても、僕に修理できるかどうか自信はない。また、別の箇所の不具合も考えられる。かといって、このまま放っておいてもDVDは観れないし、ゴミと同じなので思い切ってドライバーでネジを外して中を見てみることにした。

 プレーヤーの構造はほぼどの機種も同じとのことだったので、すぐにベルトを見つけることはできた。指を突っ込んでベルトを外してみると、Youtubeで観たようにゴムが劣化しているということはなかった。だとしたら、ホコリが付着しているか、ゴムが伸びたせいで空回りしているということだろう。別の動画では、ベルトを新調するのではなく、輪ゴムを追加で巻きつける方法をやっていたので、とりあえずそちらを試してみることにする。

 念のため、ベルトは洗剤でキレイに洗っておき、ベルトが回転する部分も掃除しておく。輪ゴムを結ぶのは、よほど指先の器用な人でないと無理じゃないかというくらい面倒臭い。それでも何度も失敗を重ねた後、ついに結ぶことに成功する。後はその上からベルトをセットし、電源を入れて作動するかどうかを試してみるだけだ。

 と思っていたら、輪ゴムがパチンと外れてしまった。え〜。もう一度やるのは想像するだけでウンザリする。とりあえずベルトを洗ってキレイにした効果だけでもと思い、電源を入れて動作を確認すると、な、なんと、トレイがちゃんと出てきたではないか。オフにするとちゃんと引っ込む。面白いので何度も出したり引っ込めたりして、作動状況を堪能する。どうやら輪ゴムの再登場には及ばないようだ。

 というようなわけで、再び蓋をネジで止めて修理完了。ついでに使っていなかったリモコンにも電池を入れておく。 捨てるしかないと思っていたプレーヤーが蘇るなんて、僕って案外スゴイのかも。というよりも、ネット動画というものが誕生してくれたおかげで、以前はできなかったことがいろいろできるようになった世の中に感謝だ。

 さて、DVDプレーヤーを使いたかったのにはわけがある。先日田村正和さんが死んで、「古畑任三郎」を再放送していた。放送を観る機会はほとんどなかったが、「古畑任三郎」と聞いてすぐに連想するのが、「刑事コロンボ」だ。というより「古畑任三郎」がほぼ「刑事コロンボ」のパクリなのだが、僕は少年の頃、すっかり「刑事コロンボ」にハマり、再放送があるたびにテレビにかじりついていた。

 大人になり、いつかコロンボ全集を揃えたいなと思ってはいたものの、7万円くらいかかりそうなので、手を出しかねていた。それが田村正和さんの死により、たびたび「古畑任三郎」が話題に上り、その連想から再び僕のコロンボ熱が高まってしまったというわけのである。

 改めてネットで調べて観ると、全集ではなく、数話ずつまとめたものなら廉価で買えることがわかったので、すかさず注文することにした。「刑事コロンボ」は数日中には届く予定である。DVDプレーヤーを修理したいという僕の執念は、ここから生まれたのであった。

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ようやくスタート

2021-06-24 11:28:56 | 12音詩

 昨日、ニュースで事故を起こした福島第二原発の廃炉作業がいよいよ開始されたと言っていた。すでに作業は進んでいると思っていただけに、「いよいよ開始」とニュースになりビックリである。ビックリ、ポンである。

 この事故発生から10年、一体今まで何をしてたんだろうと不思議に思っていたら、これまでの10年は廃炉作業のための準備期間だったそうだ。普通、準備も含めての作業工程だろうと思わず突っ込みたくなったが、廃炉作業とそのための準備作業を厳密に分けたかった何らかの理由があるのだろう。もしくは、廃炉計画の用紙に、ただ単に最初の10年が「廃炉作業のための準備」、そのあと「廃炉作業」と書いてあっただけかもしれない。

 何にせよ、ようやく廃炉への一歩を踏み出したというのは喜ばしいことだ。ちなみに計画では廃炉作業が終わるのは44年後らしい。

 さて、僕のほうも、ようやく抜歯した後の痛みも引き、長い間苦しめられた口内の違和感がなくなってスッキリした。このところイライラが高じていたが、ほとんどはこのためのストレスだった。おかげで腰を据えて何かやろうという気になれず、そのことでますます胃が痛くなっていたりしたので、心機一転、好きなことがやれるという期待にワクワクしている。

 昨日は散歩のための靴を新調した。散歩は朝と夕、毎日最低二回は行うので、あっという間に靴底が減って、3ヶ月も履いていると底に穴が開く。この季節、穴の開いた靴ではすぐに靴下がビショビショになり、気持ち悪いのだ。おまけに一旦靴の中が濡れると、次に履くときにも気持ち悪いままだったりする。これまたストレスの元になっていた。

 新しい靴は、どうせすぐにダメになるのでなるべく安上がりに済ませたい。靴屋で手頃な値段で気に入ったものを見つけたが、安いのは現品のみという札がぶら下がっていたから、仕方がないので少しだけ窮屈だったがその靴に決めた。で、昨日の夕方、早速新しい靴を履き、傘をさして散歩に出た。靴下が濡れずに快調である。カメラは持って出なかったので、メモ帳片手にブラブラする。

 鉛色をした空の下、テオを連れて歩いていると、急に冷たい風が吹き抜けた。
 「風吹き夕立の気配」

 すぐ近くに見えていた山肌が、気がつくと白いベールに隠れてしまっていた。
 「雨が幕引く夏の山」

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有言実行の人々

2021-06-23 11:13:51 | 日記

 東京都知事の小池さんが、東京オリンピックを直前に、体の調子が悪くなったと入院した。政治家の入院は別に珍しいことではなく、不祥事をやらかして表に出て来たくない時に使う常套手段だ。小池さんの入院を同じように言う人もいるが、今回の場合は不祥事とは関係ないだろう。それよりも、新型コロナと東京オリンピックの開催が重なり、ついに心が折れてしまったというのが本当のところだろう。

 僕の記憶では、オリンピックの東京招致と騒ぎ出したのは、石原さんが最初だったんじゃないかと思う。そのときは落選してオジャンになったが、猪瀬さんが都知事だったときに、ついに東京への誘致に成功した。リオオリンピックでは安倍元総理が何を血迷ったかマリオの格好をして、次は東京ですと張り切っていたが、その頃から東京オリンピックは、東京主催のお祭りというよりも、政治家たちが自分の功績にするための手段と化したようである。

 最近小池さんはちっとも東京オリンピックの話をしなくなった。オリンピックと言えば菅総理だとか大臣の丸川さんとか、組織委員会会長の橋本さんが喋るだけで、当事者である小池さんはすっかり舞台袖に追いやられてしまった。一般家庭で言うなら、お客さんを呼んで焼肉パーティーを主催したら、客に仕切られてしまい、その家の主人はすっかりいじけて出て行ってしまったみたいなものである。これでは、「もう勝手にしろ」と投げやりになっても仕方がない。

 東京オリンピックは、何があっても開催するようである。今まで中止やら延期やらのアンケートを取っていたが、そんなものは最初から関係なかったということがはっきりした。政治家もお役所も、これまでいろんなことは言って来たが、結局は既定路線の上を突っ走って来たにすぎない。当初の予定通り、すべてはブレることなく進んだのである。

 では、彼らが嘘をついて国民を騙したのか。いや、そうではない。彼は実に口にしたことを、きちんとその通り実行に移して来た。その点は誠実なのである。が、残念なのは彼らの話す日本語の意味が、一般国民との間にズレがあったことである。

「前向きに検討します」→「永遠に検討することはございません」
「対応を協議する」→「とりあえず先おくりします」
「早急に対策を練る」→「何もしませんけど、何か」
「何らかの処置を取る」→「だから、何もしません」
「全力を挙げて対応する」→「あんまりうるさいから、とりあえず今回だけやります」
「総合的に考えて」→「根拠はないけど、たぶん」
「十分に配慮し」→「(自分の仕事が増えないよう)配慮します」
「厳粛に受け止めて」→「ほとぼりが冷めるまではおとなしくしてます」
「真摯に受け止めて」→「悪いのは自分じゃない。もちろん反省もしない」

 まだまだお役所言葉というのはあるけれども、ここに挙げただけでも、政治家や官僚がいかに自分が口にしたことを忠実に実行しているかがわかる。

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ストレスだらけ

2021-06-22 11:16:55 | 日記

 昨日、抜歯したので、今朝はその後の経過観察と消毒のために再び歯医者に行った。

「どうですか」
「昨日はずいぶん疼きましたけど、今朝はほとんど痛みもないですね」
「はい、口を開けて下さい。傷口はまだ少し腫れてますが、出血もないし、大丈夫でしょう」

 そう言うと、歯を抜いたところにチョイチョイと薬を塗った。
「はい、では来週糸を抜きますので、また来て下さい」

 って、5分もかからないじゃないか。こっちは予約時間に合わせるために、バタバタと朝早くから雑用を済ませたり、車を運転して来てるんだぞ。こんなにあっという間に終わるんなら、テレワークで十分だったんじゃないか。などと思いながら、診察室を出る。「はい、では今日は190円いただきます」

 歯がなくなったのはガッカリだが、このひと月何にも手につかなくなるくらいストレスになっていた奥歯がなくなったことで、ようやくいろんなことが前に進み出した気がしてホッとする。ストレスなんて、大層なことがなくてもその辺にいくらでも転がっている。歯が痛いとか、寝違えたとか、腰やら膝やら痛いとか、面倒な人に会わなければならないとか、やりたくもない用事をやらなければならないとか、ストレスがない時のほうがよほど珍しい。

 が、ストレスがなくなれば快適な生活が送れるのかと言えば、ストレスがないならないで、物事はうまく運ばない。簡単な話、僕らが歩くことができるのは地面との摩擦で体が固定されているからで、もし足の裏に摩擦がない状態、例えばツルツルの氷みたいなストレスのない道を歩くとすれば、転んでばかりでちっとも前に進まないのである。というような言い訳をいつも用意して、僕はストレスに対処している。

 Yahoo!ニュースを見ていたら、近頃の若者は映画やドラマを倍速で観たり、途中を端折ってラストだけを観たりして楽しむんだそうだ。そしてハッピーエンドでないようなドラマや、問題意識のあるようなものは好まないという。筆者はそれを観劇の幼稚化と表現していた。で、話はそれで終わらず、そうした若者に顕著に現れる傾向が、スポーツ観戦で贔屓のチームを応援したりしないということである。また、批評本は読まないが、ファンブックを喜んで読む傾向があるという。

 これにはすべて同じ原理が働いている。それは、悲しいラストや難解な内容のドラマはストレスでしかなく、スポーツで贔屓のチームを持つことも、負けたときのストレスが嫌さに避けるという。スポーツを見るときは、ダイジェストでファインプレーや珍プレーを楽しむんだそうだ。

 なぜこういう傾向が生まれたのかと言うと、それは現代の若者がストレスを抱えすぎているせいだと解説している。これ以上ストレスを抱え込みたくないために、ストレスを発散できるものしか楽しめない。ドラマでは伏線や沈黙がストレスになり、スポーツでは贔屓チームの負けがストレスになる。批評の対象になるとストレスだから、賞賛記事ばかりのファンブックが愛読書になる。

 時代は変わったものだ。昔の若者というのは、読めもしないくせにマルクスの「資本論」やらサルトルの哲学書を小脇に抱えて、偉そうにしていた。難しい顔をして深刻ぶっているほうがモテると勘違いしていた。乗れもしないのに、サーフィンボードを抱えて歩いたり、弾けもしないギターを担いで歩いたりした。若者は背伸びしたいものだと言えば言えるかもしれないが、幼稚な発想であることは変わりない。

 となると、若者の特徴とは、幼稚である自分に気づかないことなのだろうととも思う。

 もっとも、現代の若者がストレスに晒されているというのなら、年配者も老人も、あるいは小さな子供も同様にストレスに晒されているはずである。となると、これからの世の中がどう進んで行くのかということも、少しは予想できそうな気がする。

 

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ジジイ化への道

2021-06-21 11:50:52 | 福島

 ボーダーコリーのケンくんが、頭部を残してサマーカットしてもらっていた。

 それまではサラサラのロン毛だった体はマットみたいな手触りになったが、頭はそのままなので、奇妙な犬になっていた。狼っぽくもあれば、シッポとタテガミがライオン風でもある。

 飼い主のオッチャンは、ケンくんを刈った犬用バリカンを使って、奥さんに坊主頭にしてもらっていた。「これが人間のバリカンよりよく切れるんだな」と、自分の頭を撫でながら笑っていた。

 テオは夏になると、お尻の部分を少しだけカットするが、基本的には年中おんなじだ。

 ケンくんみたいに頭部だけ残してカットしたら、一体どんな犬になってしまうのだろう。

 ケンくんと別れ、いつもの散歩コースを行くと、今朝もリスに遭うことができた。同じ枝に座り込み、カリカリとクルミを齧っているので、近頃は探さなくてもすぐに発見できる。

 「なんだ、なんか用か」とクルミを咥えて移動しようとしているので、「そのまま食事を続けてください」と、その場をすぐに立ち去る。危害を加えないということをリスに理解してもらえれば、だんだんと距離を縮めることもできるだろう。

 昨日までの梅雨空も嘘のように、今朝は青空が広がっている。貴重な梅雨の晴れ間を利用して、朝から布団を干すことにする。

 今日は休日なので、早速ランニングと行きたいところだが、午前中に歯医者の予約が入っている。この一年、歯周病の治療を続けているが、結局奥歯のところは治らなかったとみえて、最近歯がグラグラし始めた。歯がぐらつくので、噛み合わせもうまく行かず、ストレスになっていたので、歯医者に行くなり、なんとかしてくださいと頼んだ。

 レントゲンを撮ると、すっかり根元の部分がなくなっているので、「こりゃ抜くしかないですね」と歯医者に言われる。おまけにその隣の奥歯もすぐにダメになるので、「ついでに抜いておきましょう。どうしますか」と言うので、「じゃあ、すぐに抜いてください」とお願いする。

 というわけで、麻酔を注射され、あっという間に奥歯を2本抜かれる。すでに歯周病で1本抜けていたので、これで片っぽの下側の奥歯がすっかりなくなってしまった。

 家に帰って鏡を見ると、ぽっかりと空間があいている。明日は消毒をしますと言われているが、おそらく部分入れ歯を作りましょうということになるのではないかと予想している。ストレスの元になっていた奥歯を抜いてもらい、ようやくスッキリはしたものの、おっさんは着実に老化し、クソジジイ化して行くこの頃なのである。

 いくら足腰を鍛えても、歯だとか目だとかいうのは、年相応にダメになって行くのを自分でも実感する今日この頃なのである。

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