おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

人間は鈍足

2022-03-31 11:18:29 | 日記

 福島にやって来て、ふたつの美術団体に属している。以前はもうひとつ入っていたが、同じようなことを三か所でやっても意味がないと思い辞めることにした。

 で、ふたつの美術団体は同じ悩みを抱えている。それは若者が入会しないために、高齢化が進んでいるということだ。正確には進み過ぎていて、消滅の危機にある。「最近の若者は絵なんか描かないのかねえ」というのが、会に若い人が入らない理由だと考えている人が多いので、僕はその度「そんなことはありませんよ」と説明している。

 僕が三つ入っていた会のひとつを抜けた理由でもあるのだが、会場を借り、数日間美術展を開催する。見に来てくれるのは、会員がハガキを出して招待した人たちがほとんであり、付き合いで見に来てくれる人も多い。数少ない発表の場としては意味があるのかもしれないが、あまりに手応えがなさすぎるのである。

 今はネットの時代である。若者の多くはSNSを通じ、世界中の人たちと簡単に繋がることができる。ダンスにしても料理にしても、自分ちのペットにしても、SNSにアップすることで、天文学的な数字のアクセス数になることもある。中にはそれを機に仕事にして行く人もいる。どこかの団体に属し、マネージメントしてもらって世の中に出るなんて回りくどい方法を取らなくても、自分の力で世界へ飛び出していける仕組みができあがりつつある。

 江戸時代、絵を描くというのは大商人や殿様や大寺院から頼まれ、襖や屏風に絵を描いた。この世にたったひとつの作品である。江戸時代も中期になると大衆文化が花開き、それまでの一点ものの絵に変わって、大量に印刷できる浮世絵が登場した。葛飾北斎や安藤広重といった浮世絵師たちは、金持ちのパトロンのためではなく、大衆を選んだのである。

 さて、昔ながらの美術協会が、近所の公民館を借り、知り合いに招待のハガキを配って観客を集めるというやり方で、どれほど今の若者の気持ちをつかむだろう。その辺のところが、年配の人たちにはピンと来ないようである。

 音楽だって、一度も生の音を聴いたことがないミュージシャンのファンになれる。絵の世界だって原画など見なくても、好きな画家の名前を挙げることができる。デジタルの世の中というのは、コピーで拡散することができる社会なのである。

 僕らは時代とともに生きていると信じているが、どうやら時代の方が僕らよりも足は早いようだ。ウクライナに侵攻した世界第二位のロシアの軍隊をニュース映像で見ていると、大量の重戦車がぬかるみの中を進軍する様子が映し出されている。今の時代の戦争は、人工知能を駆使したり、サイバー戦で相手を無力にしたりといった戦い方をするんだとばっかり思っていたら、いまだ泥ん子になって大勢でワーワーやっている。

 時代は便利なものを次々に生み出して行くが、人間は泥まみれになってもたもたしているようにしか見えない。

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おらが春

2022-03-30 10:41:13 | 日記

 芸術作品と作者は切り離して考えなければならない、とはよく耳にする言葉だ。確かに世の中には作品は大したことはないのに、作者の奇行によって有名になっている作品は多い。が、完全に作品と作者を切り離すというのも乱暴な考えで、作品はいつだって作者の生活の上で形になっているからには、作者の人生というものを無視するというわけには行かない。

 ネットで頼んでおいた「小林一茶」(大谷弘至著)が届いたので、早速読み始めた。サブタイトルに「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」とあるだけあって、まるっきりの初心者にもわかりやすい文章で解説してくれている。僕のような門外漢には、このくらい丁寧に優しく解説してくれないと、なかなか理解できないのである。

 小林一茶の句といえば、「我と来て遊べや親のない雀」とか「痩蛙まけるな一茶是(これ)に有(あり)」などがよく知られている。小動物を謳ったり、滑稽に詠んだりすることから、深みがないだの、子供向けだのいう批判は昔からあったようだ。

 しかしながら小林一茶という人は苦労人で、その生涯を知ると、そう簡単に深みがないと片付けられないものがある。

 小林一茶は3歳で母親を失った。8歳の時に父親が再婚するが、継母と折り合いが悪く、ひどいいじめに遭う。継母に子供が生まれると、長男である一茶は家を追い出され、江戸へと奉公に出る。一茶、15歳の時だ。ちなみに一茶の故郷は長野県信濃町である。

 以降、江戸で借家住まいをし、俳句の勉強に励み、旅に暮らし、ついには俳諧師としての地位を得る。一茶が故郷に帰ることができたのは、40年後のことであった。が、一茶の苦難は続く。幼い自分の子供を二人亡くし、その後は奥さんも亡くしている。

 さて、こういう生涯を知ると、「我と来て遊べや親のない雀」いう句も簡単ではないことがわかる。一茶はこの句の前文として、この句の作者は6歳の哀れな弥太郎だと書く。弥太郎とは、一茶の幼名である。実際に6歳の時に作ったわけではないが、そう書くことで一茶が何を感じてこの歌を作ったのかに思いを馳せれば、とても子供向けの無邪気な歌とは思えないのである。

 作品を作るとき、自分の人生から感じたことを深刻に表現する人は多い。一茶のように、辛い自分の人生を、高みから見下ろし一歩引いた立場から、滑稽に慈しんで表現するタイプの人は日本人には少ないように思える。

 一茶が自分の人生をどう捉えていたか。一茶はこんなふうに詠う。「目出度さもちう位也おらが春」(めでたさも 中くらいなり おらが春)。

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テオと歩く

2022-03-29 10:25:38 | 福島

 週に一度の休日は、よほど天気が悪いか雑用が入らない限りは、午前中いっぱいランニングする。午後は買い物やカフェの準備をし、それが終わるとテオを連れて夕方の散歩に行く。朝から分刻みのスケジュールで、おまけに体力も使うのでヘトヘトになる。

 昨日は朝イチで歯医者の予約を入れておいたので、早く終わればランニングに出ようと思っていた。が、朝からイマイチ膝の調子が悪い。歯医者では、「しばらく通えないかもしれないので、一旦これで終わりにしておきたい」と申し出ると、「わかりました」ということでいつもより時間をかけて丁寧に歯のクリーニングをしてくれた。

 歯医者から出ると、天気は悪く強風が吹き荒れている。この時点ですっかりランニングに出る気は失せていたので、その足でスーパーに買い出しに行き、お昼に家に帰って来た。

 昼飯を食べると、最近忙しくてのんびり出かけることができなかったテオの散歩に出ることにする。今日は走る代わりに時間を気にせず、里山をぶらぶらしてくることにする。

 目的地は岩江パークという名前の農業公園。一体どうしてこんなものを作ったのかわからないが、春先に古代米を植えて、秋に田んぼアートが見られるようにしている。花菖蒲の頃にも菖蒲祭りというのをやっているが、僕はいつでもお祭りの日を避けて来ているので、何をやっているのか知らない。

 昨日来ていた回覧板では、もう少ししたら春のウオーキング大会というのを開催するらしい。コースを見ると岩江パークも休憩場所になっているが、僕らがいつも散歩しているコースと似たり寄ったりで、わざわざ参加するほどのことはないのである。

 岩江パークの上空では、ノスリがアオサギを追いかけ回していた。普段、カラスに追いかけ回されている可哀想なノスリの姿を見ているだけに、ちょっとだけ意外だった。いじめられっ子というのは、自分より弱い立場のものを見ると、いじめずにはいられないのか。

 林床にあるカタクリの群生地に入ってみると、すでに足の踏み場もないほどにカタクリが芽を出していた。

 よく見ると、すでに花の蕾が顔を出している。きっと一斉に花を咲かせる日も近いだろう。

 足元ばかり見ながら歩いていると、ツクシやスプリング・エフェメラルの花々が咲いている。ランニングではなかなか足元の花々を楽しむというわけには行かない。こういう発見は、犬を連れての散歩に限る。

 テオは、毎日の散歩コースとはちょっと違うコースに、オドオドキョトキョトしている。相変わらず肝っ玉が小さいので、少しの物音にもビクッと辺りを見回す。慣れない場所なので、早く先へ進もうと引っ張る。せっかくの探検なんだから、おまえも楽しめ。

 2時間かけて里山をブラブラし帰途につくと、見慣れた光景が広がるに連れてようやくテオはのんびり道草を食い始めた。自分のテリトリーに入り安心したのだろう。なんだかなあ、内弁慶なんだよなあ。

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変わる勇気

2022-03-28 12:35:02 | 日記

 ニュースを見ていたら、ドイツが軍事費の増額を決定したと発表していた。ずっと平和路線でやって来て、国民の多くも軍事費の増額に反対していたが、ロシアの動向に一気に舵を切った。

 ドイツという国は日本同様、第二次大戦の敗戦国である。従って戦勝国で作った国際連合の常任理事国には入れない。なぜなら国際連合とは、日本、ドイツ、イタリア三国を仮想敵国として集まった団体だからである。

 そんなドイツだが、日本が戦後アメリカが草案を練った日本国憲法を頑なに保持し続けるているのに反し、ドイツは自国の憲法を戦後すでに60回に渡り改憲してきた。時代背景が変われば、当然憲法も進化させていかなければいけないという当然の考えだからだ。そうした臨機応変なドイツの姿勢は、福島原発事故の後でも原発依存からの脱却へといち早く舵を切ったことに現れている。

 それに比べると、日本という国は自分の周囲が変化していくことに目を瞑り、耳を塞ぎして、何も変わっていないと信じ込もうとしている。世界中の国が環境保護についての憲法を新たに書き加えているのに対し、日本はいまだに環境保護に関する憲法を作ることもできず、戦後すぐの公衆衛生の憲法でやりくりしている。

 夕べ、アマゾンのプライムビデオで、「ビリーブ 未来への大逆転」という実話を基にしたアメリカの映画を観た。第二次対戦後、女性が法学部へ進学することが許されたが、将来の道は先生になることくらいしか選択肢がなく、検事や弁護士として働くことはできなかった。それを主人公の女性が、猛勉強の末、国民の平等を謳うアメリカ憲法に違反すると裁判する物語である。

 先日もNHKで、「ドリーム」というアメリカ映画をやっていたが、こちらは天才的な数学者である女性が、差別を受けながらNASAで活躍する物語であった。

 弁護士を目指し、性差別を受けた主人公の反骨心はもとより、僕が感心したのは、差別を差別として認め、男女差別にある法律を違憲として認めた裁判官たちの態度である。「女性は家を守る存在」「子育てが重要な仕事なのだから、就職するなんてもってのほか」と、旧来の慣習を大事にしながらも、最後は自分たちの子供や孫には、差別のない自由な社会で生きて欲しいと、ジェンダーレスの判決を出す判事たちの姿を見ていると、逆の意味で、やたらに旧態然とした頭の硬い日本の年寄りの政治家たちの姿が思い出され、日本という国は、どうしてこうも変化することに尻込みするのだろうと、苦々しい思いになったアベさんなのである。

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ジャガイモを植える

2022-03-27 10:22:26 | 福島

 天気予報では、今日の最高気温は15度を超えるという。来週はどうなるかわからないし、とにかくジャガイモを植えるチャンスは今日しかないと、朝飯を食べたらすぐに畑に出かけることにする。

 先週雪が積もったばかりで、4月になっても雪が積もる可能性もあるが、今年は雪が多かったせいもあり、一斉に植物が芽吹いた感がある。

 菜の花は花が開き始めたばかりのものは、お浸しにして食べると美味い。

 フキノトウはあちこちで顔を出しているが、かなり薹が立って来ていて、食べ頃も過ぎようとしている。

 例年は4月になってから見かけるツクシも、雪が消えたら一斉に顔を出し始めた。

 白い小さな花を咲かせているのはタネツケバナ。田植えのための苗を発芽させるためモミを水につけるのだが、その目安となるのがこの花が咲く頃で、名前の由来となっている。

 踊り子草は群れて咲き、バレリーナの群舞を思わせる。

 我が家の庭でもクリスマスローズが咲き、もう少しで花の季節を迎える。

 で、ジャガイモの種芋は、畑で数えてみると男爵30個、メークインが36個あった。畑の上にマルチをし、ビニールに等間隔で開いた穴の数を数えると、四つの畝で60個ある。いつもは種芋を芽の出ているところでいくつかに切るのだが、穴の数と種芋の数がほぼ同じなので、切っていては畝の数が足りない。贅沢だけど、丸のまま一個ずつ穴の中に埋めていたら、近所の人がウオーキングの途中で立ち寄った。

「あら、こんなことこで畑をやってるの」
「ええ、借りてるんです」
「もう、ジャガイモ植えてるの。うちは4月5日くらいに予定しているの」
「今日の逃したら時間がないんです」
「丸のまま種芋を植えるなんてもったいない」
「一番少ない種芋が3キロからしかなかったんです」
「私だったら、半分は食べて半分植えるわ」
「そうなんですけど、食べる分は食べる分でまだあるんです」

 と、いろいろ言い訳をしながら種芋を植える。きっと二、三日中に、「あそこの家は丸のまま種芋を植えるなんて贅沢なことをしているのよ。もったいないわねえ」という噂がこの辺一体に立つだろう。

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本屋から本がなくなる

2022-03-26 10:43:10 | 12音詩

 久しぶりに本屋に立ち寄ってみた。最近は目当ての本を本屋に探しに行っても、よほど人気作家の最新刊でもなければ、なかなか欲しいものは見つからない。ネットならば、新刊も中古本も同じように探すことができ、何冊かの候補の中から一番面白そうなものを選ぶことができる。ただ、中身をパラパラめくって見ることができないので、届いた本を開いてがっかりすることもあるのだが、それでもネットで本を買うのは魅力的だ。

 そういうこともあってすっかり足が遠のいていたのだが、与謝蕪村か小林一茶の句集くらいなら、わざわざネットで注文しなくても本屋にあるだろうと思い立ち寄った。が、久々の本屋はすっかり様変わりしていた。

 店内に入ると、すぐに本の量が以前の半分くらいになっているのに気づいた。減ったスペースには、漫画本が進出してきている。あとはビジネス本か人気作家の作品か雑誌くらいだ。1時間ほどかけて、本屋の棚を見て回ったが、結局目的のものは何ひとつ見つけることができなかった。

 これでまた本屋から足が遠のいてしまうなあと考えながら家に帰ってきたが、街からレコード屋さんやレンタルビデオ屋さんが消えたように、本屋さんも風前の灯だ。

 さて、僕が欲しかった与謝蕪村と小林一茶の句集だが、江戸時代の三大俳諧師が、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶の3人なのである。最近、そのことを知ったのだが、僕がかじったことがあるのは芭蕉さんくらいで、蕪村さんはつい最近伝記を読んだところだ。一茶さんについては「そこのけそこのけお馬が通る」くらいしか知らない。

 で、この3人の違いだが、芭蕉さんは俳句というジャンルを芸術の域に高めた第一人者だが、天才というより秀才の部類に入るそうだ。平均的に名句が多いが、芭蕉というブランドを外すと、凡人のような句も多いという。

 蕪村さんは当たり外れの激しい人で、追随を許さぬ名句がいくつかあるものの、あとは別人かと思うくらい凡作ばかりだという。一茶は天才的な俳諧師だったそうだが、あくまで芭蕉さんが切り開いた俳諧の世界を歩いたということでは、芭蕉さんほど有名ではない。

 さて、日本人として、この3人くらいの句は読んでおこうと思ったけれども、結局ネットで探すしかなさそうだ。

 俳句ではないが、僕のオリジナルの12音ひねくり出し句の最新作を書いておく。

  赤い雲 吹雪始める
  黒白染めて雪は降る
  雪山写し春の川
  あんな高いところにトビ
  シャツ一枚の春の宵
  ごっそり抜けて衣替え
  ホオジロ空に何探す

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調子っぱずれ

2022-03-25 11:44:52 | 日記

 ワクチンを打ってから今日で一週間になるというのに、いまだに頭は痛いし、味覚も微妙な味わいみたいなものを感じないし、鼻水は垂れるしで、いっこうに本調子とはならない。なんとか早く回復しようと、夜は飯を食べたらすぐに寝ているし、食事はしっかり食べて体力が落ちないようにして、とりあえずは8割くらい戻った感じだ。

 で、「本調子」と書いた後、調子が悪いことは「調子っぱずれ」とでも言うのかなとふと思った。となると、「本調子」の語源はどうやら音楽にあるのではないかとネットで検索すると(便利な世の中になったもんだ)、三味線のもっとも基本的な調弦法とある。ギターで言うオーソドックスなチューニング方法のことである。確かに、チューニングができてない楽器の演奏は、なんとも聞きづらいのである。

 語源というのは案外意識していないから、改めて聞くと「ヘェ〜」というものが多い。最近、フキノトウを天ぷらにして食べたが、もう少し大きくなって花が咲くと、食べるのには時期外れとなる。歳をとった女性のことを「薹(とう)が立つ」と言うが、その語源はフキノトウが花を咲かせるほど大きく立ち上がってくると、食べ頃を過ぎたと言うところから来ていると、最近テレビでやっていた。

 昔、四国を旅行していて、偶然昔の家並みのある町を通りかかると、そこの家々の二階には、火災よけのために、「うだつ」というものが付けられていた。金持ちはうだつを上げ、貧乏人はうだつを作る余裕がないことから、「うだつが上がらない」という言葉ができたと、そこの観光案内の看板に書いてあった。

 ある競馬好きから、「埒(らち)が開かない」の「埒」は、競馬の最終コーナーを回ったところで、馬が前に出たくても開けてもらえないような時に、「内ラチが開かない」と言うんだよと教えてもらい、そんなところに語源があったのかと意外だった。

 ちなみに、我が家のアンは用を足した後、丁寧に猫砂をかけてる。あんまり丁寧にかけるので、時々用を足したのがわからないほど真っ平らにしてあって、掘ってみて初めて用を足していたことがわかることがある。犬はそこまで自分のブツを隠さない。このブツを隠す猫の習性から、「ネコババ」という言葉が生まれた。関西地方では、ウ●コのことをババとも言う。

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信用できない

2022-03-24 11:21:53 | 日記

 先週、3回目のワクチンを打って以来、平熱にはなったものの体調は万全とは言い切れない。頭が痛かったりお腹を壊したり、鼻水が垂れたりと、すっかり風邪をひいている感じになっている。もともとワクチンを打つというのは、軽くコロナウイルスに感染し、抵抗力をつけるのが目的だが、ワクチンを打ってこれでは、コロナに感染したのと同じである。政府は早ければ5月には4回目のワクチン接種を目指すと言っているが、どうしようかちょっと迷うところではある。

 それにしてもだ。外国で次々にワクチンが開発される中、日本製のワクチンも近々できるといったような報道があったが、あれから2年、いつになっても日本製ワクチンを打つ機会は来ない。開発はまだやっているのだろうか。それとも世界に遅れを取ったので、今更ワクチンを作ってもたいして稼げないため止めてしまったのだろうか。あるいは、開発はやっているが、日本の医薬メーカーや研究所に、完成させるだけの能力が不足しているのだろうか。

 かつてはメイド・イン・ジャパンと言えば、安心、安全、高性能というイメージがあった。今でもスーパーの精肉コーナーや鮮魚コーナーに行けば、「国産」のラベルが貼られている。が、「国産」が安心、安全だったのは、過去の話になりつつあるのではないだろうか。

 今日のニュースでは、台湾が日本から輸入したイチゴに、基準値以上の残留農薬が認められたため、日本に対して説明を求めていた。原因がわからなければ、イチゴの輸入を禁止するという。僕は最初、台湾から輸入したイチゴの残留農薬が高かったのかと思ったが、実際にはその反対で、日本の基準は台湾に比べると甘いのだそうだ。

 少し前に世界的にミツバチの大量死が問題になり、原因がある特定の農薬にあるらしいという話になった。その結果、欧州などはいち早く使用禁止にしたが、日本政府の対応は、因果関係がわからないの一点ばりで、いまだ当たり前に流通、使用されているという。

 熊本のアサリのほとんどは中国や北朝鮮から来たアサリだったし、なんだか今一番信用できないのは、メイド・イン・ジャパンということになっている気がしてならない。

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試し画き、三月の雪

2022-03-23 10:28:11 | イラスト

 ずっと使っていたお絵かきソフトが、パソコンのアップデートに伴い使用できなくなったので、ネットで無料のお絵かきソフトをダウンロードした。今は漫画やアニメもパソコンで描くようになったので、無料のものでもかなり進化して来ている。

 ただ、僕が必要とするツールくらいは装備しているものの、今までと配置が違うため、線を描いたり色を変更したり塗ったりするたびに、ツールを探さなければならず、思ったより時間がかかる。それでもとりあえず1枚完成させることができたので、あとは慣ればなんとかなっていくだろう。

 田んぼの脇の一本道を描いたが、爽やかな色使いにしたので、白いシャツの学生が自転車に乗っているところを後で描き加えてみた。

 昨日一日降り続いた湿って重たい雪は、今朝は一面雪景色に変えた。寒い時期のサラサラした雪と違い、水分の多い雪は木々や電線にひっつき、あまり見たことがないような光景を生んでいた。それが朝日を浴びて輝くので、今朝の散歩は夢のように美しい中を歩いてくることができた。

 今朝の温度は氷点下6度。家を出ると冷蔵庫の中のように、白い冷気が漂っている。

 テオは久しぶりの雪にテンションマックスで、野生の顔を取り戻している。普段は寒がりですぐに布団に潜り込もうとするのに、こういう時は人間の子供同様、制御できないほどにはしゃぎ回る。

 普段見たことがないような近所の様子。真冬でもこんな樹氷にお目にかかることはない。

 可哀想なのは、ようやく暖かくなったと思って咲き始めた梅の花だ。ようやくちらほら咲き始めた花が、今朝はカリカリに凍りついている。

 今日は休日だったら、のんびり遠くまで歩いて来たのだけれど、そういうわけにも行かず、近所をぐるっと回って帰宅した。ちょっと残念。

 

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冬に逆戻り

2022-03-22 10:46:48 | 福島

 天気予報では、今日は朝からお昼にかけてみぞれになるようなことを言っていたが、朝のうちは小雨に近かったみぞれが、お昼に近づくにつれて重たい雪に変わり、気がつけば辺りは雪化粧している。午前10時半現在の我が家から見た裏の空き地の景色がこれ。

 真冬じゃないか。昨日までの春の陽気が嘘のようだ。

 昨日の朝の散歩では、春だなあといい気持ちでカメラ片手に歩いた。

 遠く、那須の茶臼岳が雪を被っているのを見て、まだあんなに雪が残っていると驚いたり、

 コブシの花の蕾がずいぶん大きくなっているのを見て、やっぱり北国の春はコブシの花が咲かなきゃね〜なんて思ったり、

 一面に咲いた福寿草の花を眺めながら、そろそろカタクリとかニリンソウとか、他のスプリング・エフェメラルも顔を出す頃だろうな、なんてことを考えていた。

 ところが、今日はカフェの営業を始める前に、まず玄関先の雪かきから始めなければならないような状況なのである。やっぱり東北の春は、まだまだ遠いなあ。

 ちなみに、東京ではこの寒さで電力の使用量が増せば、電力が足りなくなって停電する恐れが出ているそうである。慌てて周辺の電力会社から電力を回してもらったりしているが、突然電気を使うなと言っても、都民は言うことを聞かないだろう。第一、東日本大震災で日本中の原発が停止していた時ならまだしも、なぜ今頃電力が足りないなんて言い出したんだと思っていたら、なんと先日の福島の地震で、福島にある火力発電所が二つ、停止しているからだという。

 なんだ、東京の電力は福島原発だけでは足らず、火力発電所にも依存していたのか。金の力で田舎に発電所を作り、その電気で都市生活を謳歌しているからこういうことになるのだ。電力会社の人は、オール電化を進める努力をする前に、もう少し頭を使いなさいと、僕は言いたい。が、絶対に潰れない電力会社というところは、政治家の出来の悪い子供たちの就職先になっているということだから、知恵のある人材が不足しているのかもしれない。

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