おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

副反応

2021-07-31 10:52:20 | 日記

 一昨日新型コロナウイルスの2回目のワクチン接種に行った。世間で広く言われているのは、1回目より2回目のほうが強く副反応が出やすいということだ。僕の場合、1回目のワクチン接種では、翌日になって注射を打った左肩の下の二の腕の部分を、誰かにグーでゴツンとやられたような鈍い痛みが起きた。しかしながら、その痛みも翌日いっぱいで引き、二日後にはまったく影響を感じられなかった。

 今回の2回目の接種も、同じように翌日になり二の腕の筋肉に鈍い痛みがあった。ただし今回は同じ痛みでも、痛みの範囲が少し広く、肩を中心にして周囲がぼんやりと痛む。もっとも、このくらいなら1回目より強く出たと言ってもタカが知れていると安心していた。

 ところが接種から二日、今日になって左の脇の下の柔らかい部分が腫れ上がっている。痛みはそれほどではないが、ソフトボールくらいの大きさの腫れがあり、触るとブヨブヨしている。服を着ていても、なんだか脇の下に変なものが挟まっているようでなんとも気持ちが悪い。これも注射による副反応なのだろうか。

 副反応が出ていることに敏感になったのか、朝から頭も重たいような気がする。もしかしたら布団も被らず寝ていたから寝冷えしただけかもしれないが、これも副反応かもしれないと疑っている。そういえば、腰もなんとなく重たい気がする。もっと言えば、今日は何にもしたくない気もする。注射の副反応に倦怠感というのもあったから、それかもしれない。そう言えば、肩こりもするからこれも副反応の恐れがある。

 などと思っているうちに、すっかり頭の先から爪先まで点検する自分に気づいた。こうなって来ると、調子の悪いところはすべて副反応だ。虫歯の痛みだって副反応だと言いかねない。

 高熱が出たとか、発疹が出たとか、目に見える症状なら副反応と言えるだろうが、痛みだとか気分だとか言うのは、主観が大きく作用するから、世間で言われている副反応にはずいぶん怪しげなものも混ざっているんだろうなと、改めて思うのだ。

 さて、僕たちはその時の気分というものに支配されがちである。その気分がどこからやって来るのか、その正体はいくら考えようと判断がつかないものだ。僕の好きな哲学者のアランの「微笑み」という文章の中に、こんな一節がある。「気分にさからうことは、判断力のなすことではない。ここではなんの役にも立たない」。僕らは自分の気分に対しては、何ひとつ判断を下すことができないのである。

 気分に対して判断を下すことはできないが、「わたしたちの身体のうちで、運動を伝える筋肉だけが、わたしたちが統御しうる唯一の部分だ」とアランは言う。「微笑したり、肩をすくめたりすることは、心配事を追いはらう策としてよく知られている。それに、いともたやすいこの運動がたちまち内蔵の血液循環に変化を与えることに注意するがいい。人は意のままに伸びをしたり、あくびをしたりすることができる」

 いらしらしている人は、わざとあくびをしたり伸びをしたりという無頓着な態度を真似してみることなど思いもつかない。不眠に悩む人は、眠るふりをすることなどバカにしてやらないだろう。新型コロナウイルスの副反応を恐れて、注射に二の足を踏む人もいるというが、無頓着でいることが、時には平和でノンキな暮らしを送る知恵だとも言えるのである。

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初めての夏

2021-07-30 10:48:59 | 福島

 ミニギターを買ったので、毎日のようにギターを抱えている。「ギターを抱いた渡鳥」ならぬ「ギターを抱いた初老のオヤジ」なのである。

 昨日はコロナワクチンの接種の予約が入っていたので、カフェを臨時休業して注射を打ってもらいに行って来た。注射自体は5分もかからない。が、書類の確認だの医者の問診だの、おまけに注射のあとは15分の待機時間というのもあって、結局家を出てから再び戻って来るまでたっぷり2時間かかった。

 カフェを臨時休業したので、その後の時間がごっそりと余った。幸い副作用もないので、この前からかかりっきりになっていた新曲を作ることに専念する。なんとか完成にまでこぎつけ、これで全部で7曲になった。今時の人ならSNSで作品を発表するだろうが、人に聴かせられるような歌声ではないので、非難を浴びないようにアップすることはしない。

 ただ、歌詞のほうはごく普通の歌詞だから、非難ゴーゴーとなることはないだろうから、ここに紹介しておく。どんなメロディーかは、各人の脳みそに委ねることにする。歌詞の内容は、もうすぐ1歳を迎える猫のアンを題材にした。

「初めての夏」

空に浮かんだ白い雲を
窓辺に座り見上げている
かげろう揺れるアスファルトに
影を落としたヒマワリの花

ああ 灼けついた風が 吹き抜けてゆく
君は喉鳴らし まどろんでる

空に浮かんだ白い雲が
見る見るうちに大きくなる
降り出した雨が 流れてく
雷の音に 目を丸くする

ああ 小さな瞳で 見つめるのは
まばゆく光る 初めての夏

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指数関数的

2021-07-29 10:22:13 | 日記

 昨日、東京のコロナウイルスの新規感染者数が3000人を超えた。首都圏だけで言えば、日本全体の6割近く、約6000人だ。日本の総人口からすると、まだまだ微々たる数だと言えるかもしれないが、指数関数的に倍々で増えていく感染症は、1万人から1億人に増えるのに2週間かからない。昨日、日本人の半分が感染したとすると、今日は全人口が感染しているのだから、いかに急激に増えるかがわかる。

 昔、あるお殿様が功績のあった家来に褒美を取らせることにした。何が望みかと尋ねると、家来は「では、今日は1文、明日は2文、明後日は4文と毎日倍ずつご褒美をください」と申し出た。それを聞いてお殿様は、なんと欲のない家来じゃと褒めたのだが、ひと月と経たないうちにお城の蓄えが底をついたのだった。

 環境に関するナゾナゾでこんなのがある。1日で葉っぱが1枚が2枚と倍に増えていく浮き草がある。ある池にこの浮き草が根付いてから、500年かけて池の水面の半分までが浮き草で埋めつくされた。では、池の水面がすべて浮き草に覆いつくされてしまうのはいつのことか。答えは明日である。

 さて、僕も今月中に2回のワクチンを打ち終える。三春町は小さな自治体だけあって、すでに高校生以上の予約が始まったようだ。とにかく、ワクチンを打ち終えるまではじっとしてなければならないというのが、国民としてやれることのはずだが、いよいよゴールが近づいたという実感があると、人間というのはどうしても気が緩んでしまう。

 ランニングをしていて、「あの電信柱まで走ったら休もう」と考えると、それが頭に浮かんだ途端、足は動かなくなってしまうというのは、ランニングをしていてごくごく当たり前のことである。だから、ゴールのことなんて考えないようにしているのだが、コロナウイルスに関しては、かなりの人たちがゴールを設定してしまったようだ。

 国産の製薬会社による治療薬の完成が近づいているという。完成すれば、コロナウイルスもインフルエンザと同じような扱いになるだろう。ワクチンを打たなくても薬を飲めば治るとなれば、恐るに足らないからである。が、薬はまだできない。指数関数的に感染者を増やさないためには、国や製薬会社やマスコミの言うことは信じずに、おとなしくしているのが正解だ。

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台風やら、いろいろ

2021-07-28 09:32:50 | 12音詩

 明日7月29日(木)は、諸事情により誠に勝手ながら「アトリエ・カフェ 青い犬」は臨時休業させていただきます。

 ところで、台風は福島に直接上陸するかと思っていたら、宮城県の方へと北上して行った。おかげで大雨になって阿武隈川が氾濫する、というような事態にはならなかった。スマホにはラインにひっきりなしに避難のお知らせが入っていたが、今回は空振りに終わったようだ。

 天気予報によると、宮城県、福島県、茨城県というのは、今までに台風が直接上陸したことはないということである。そう言えば、台風が来る時というのはいつも日本海を北上して来た台風が、東北を横切って太平洋側に出るということが多かった。今回は、ついに宮城県に上陸したということで、福島県と茨城県は記録更新したわけだが、もし太平洋側から台風が上陸して来たら、経験がないだけに大変な被害にもなりかねないということでもあるのだろう。

 九州、四国上陸というのは当たり前で、たまに紀伊半島や名古屋あたりに上陸するということがあった。が、近頃は東京、千葉あたりに上陸することも増えて来ているから、それだけ地球温暖化による海水温の上昇で、台風の進路が北上しているということなのだろう。今回は福島県は台風の直撃をまぬがれたが、温暖化が進めば、いずれごく当たり前のことになって行くのかもしれない。

 さて、台風接近の中、雨音に負けないように音量を上げてソフトボールの試合を観戦した。結果は日本の金メダルに終わり、テレビを見ながら大いに盛り上がった。今回はお互いのチームにエラーもなく、それどころかピッチャーの投げあいと守備でのファインプレーの連続に、どちらが勝ったとしても楽しめる試合だった。オリンピックでは個人で戦う種目が多いけれども、やはり団体競技というのは面白い。最後には、個人の力というよりも、チームワークがモノを言うところが見ていて感動を覚えるのである。

 さて、台風の影響は思ったほどではなく、今朝は台風一過、ビックリするくらい涼しい。晴れているのに、細かい雨が風に運ばれて来て、空には大きな虹がかかっていた。早速、台風を詠むことにする。

 台風近づく静けさ
 台風一過 秋の風
 入道雲へツバメ飛ぶ

 

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ミニギター

2021-07-27 10:49:55 | 福島

 ギターを始めたのは、高校三年生の夏休みだった。進学校だったから、ほかの生徒は受験勉強の追い込みで、何か新しい趣味を始めるというような余裕はなかっただろうが、すっかり勉強を諦めていた僕は、何か始めないことには退屈し切っていたのだ。

 勉強する気のない人間とはいえ、ギターを始めたのは偶然に過ぎなかった。たまたま友人のひとりが中古のギターをもらったのだが、少しやってみて難しいからと押入れに放り込んでいたのを、僕がもらい受けることになったのだ。「いくらで売る?」と聞くと、「じゃあ、お昼のうどんをおごって」ということで、ふたりでうどん屋に行き、一杯500円のうどんをおごったのだった。

 そもそも新しいギターを買う金もなければ、ましてや一応受験生ということになっているから、バイトも親の金をあてにするわけにも行かなかった。だから、500円のギターとはいえそれからは熱中してギターを練習した。毎日夜中の2時、3時まで弾いた。指先から血が出るんじゃないかと思うくらい熱中した。夜中にギターを弾いているのがバレないよう、夏の間は外で弾いたりもした。

 初めて新しいギターを買ったのは、それから1年後だ。しばらくはどこへ行くにも持って出かけていたが、大学を卒業するとき、ギターが欲しいという後輩に譲った。それ以来ギターを買うことはなかった。今はタミちゃんが買い、ちっとも練習しないギターがあったので、それを使わせてもらっている。

 ギターを弾き始めた当初から、僕は他人の曲をコピーするということはあまりやらなかった。自分で作って自分で口ずさむということにしか興味は湧かなかった。だからいまだにテクニックと呼べるものは身についていないのだが、1年半ほど前から、テオやアンをテーマに曲を作るようになった。イラストが日記の延長として描いているのと同様、曲も日記の延長として作りたいのである。

 というようなことで、ここに来て再びギターを弾くことが多くなった。そこで、あちこち持って行け、いつでも弾ける小さいギターかウクレレが欲しいなとネットで探してみると、ギターメーカーとしては有名なヤイリのミニギターが安く売っていたので、早速注文することにした。但し、安いのは中国製だからで、国産のヤイリはそれなりの値段なんだそうだ。

 で、届いたのがこれ。ミニギターという言葉は、ペットとして改良したミニブタや、ちょっとだけ食べたいミニカレーと同様の可愛らしさがあって、微笑ましい。どれくらい小さいのかというと、普通のギターと並べるとこれくらい。

 ギターは小さいが、弦を張っている部分の長さがほぼ同じなので、キーは同じだ。ただし、ボディ部分が小さいだけに、音を出してみるとポコポコといった段ボールのような響き方だ。オモチャと思えば、これはこれで楽しい。

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災い転じて金メダル

2021-07-26 12:45:52 | 日記

 テレビをつければ、ほぼどこかしらでオリンピックが流れている。見たくなくても、面白い番組もないし、ぼんやりと日本人の活躍を見ているのだが、昔から僕はヨットだとか馬術だとか、クレー射撃だとか、そうしたマイナー競技も見てみたいのに、なかなかテレビでやってくれない。視聴率が取れないからという理由だろうが、せめて自国開催の時くらい、すべての競技を流してもいいんじゃないかと思う。もっとも、流したところで、全部を見ることはできないわけだが。

 今日は歯医者の型取りがあったので、朝食後はアンの毛づくろいをした後に歯医者に出かけた。ちなみに昨日買って来た猫用ブラシを、アンはすっかり気に入ったようで、そっと体を撫でくりまわしてやっていると、ゴロゴロと喉を鳴らして目を細める。ブラシをみると、結構ごっそり取れているので、少しずつやっていれば、ピカピカの猫が誕生するであろう。

 歯医者の後は買い物に行ったり、ホームセンターで買って来た遮光ネットを玉ねぎを干してあるところに張ったりして、あっという間に午前中が終わる。

 ラーメンを作って昼飯にしている時、ハタと「そういえば今日もソフトボールの試合があったはず」と、思い出した。オリンピックのほかの競技と違って、ソフトボールだけが「復興五輪」の名の通り、福島の野球場で開催されたのだ。ピッチャーの上野さんは、去年五輪が延期になったときにも、本来行われていた時期に福島を訪れ、自分がソフトボールをしている理由を見出そうとしたとインタビューで応えていた。そういうこともあって、ソフトボールだけが、僕の中では「復興五輪」の象徴として感じられるのである。

 とは言え、今日はバタバタしているうちに見逃してしまった。お昼のニュースを見ると、アメリカと対戦して負けたとあった。総当たりの予選で、唯一黒星となってしまったわけだが、アメリカに次いで2位通過した日本は、次もアメリカと金メダルを争って決勝を戦うことになる。実力が拮抗するチームの対戦では、同じ相手に2度続けて勝つというのは難しいものだ。そう思えば、予選最終戦となったアメリカに負けておいたのは幸いだったかもしれない。ことわざにも、「災い転じて福となす」というように、次はきっと勝って金メダルを獲るに違いないと、せっせと応援しているアベさんなのであった。

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猫のボディケア

2021-07-25 11:52:00 | 福島

 アンの抜け毛が目立つようになってきた。昔、全身真っ白な猫を飼っていた時には、どんなに丁寧に部屋中掃除しても、必ず服に白い毛が付き大変だった。アパートではふた部屋あるうちのひと部屋は猫の出入りを禁止し、洋服ダンスはそこに置き、毎日着るスーツになるべく猫の毛が付かないように注意していた。

 アンは子供の頃にはほとんど抜け毛はなかったが、そろそろ一歳が近づいてきた現在、ちょっと触っただけで白い毛がフワフワと漂い、しょっちゅうコロコロであちこち掃除しなければならなくなった。さすがにこのままにしておくわけには行かないので、猫用のブラシを買ってくることにした。

 テオの場合は、以前飼っていたゴールデンレトリバーのドリのブラシが数種類あるので、それを利用している。アンのブラッシングもそれで出来るだろうと試してみたが、やはり犬用のだと痛いようですぐに逃げてしまった。

 ホームセンターに行くと、ブラッシングのための道具は櫛タイプやラバーのもの、細い針がついたスリッカーブラシといろいろある。長毛用や短毛用もあって、アンはどのタイプかよくわからなかったが、一番取れそうな長毛用のスリッカーブラシにした。ただ、針の先に小さな丸い玉がついているので、アンが短毛タイプの猫だとしても、痛くはないだろうと考えたのである。

 帰宅して、猫のブラッシングについてネットで検索してみた。と、アンはどうやら短毛用の猫に属するようだ。記事には、ブラッシングについてのコツが伝授してあった。
 ・ブラシをかじらせたり、じゃらしたりしながら、ブラシに対する恐怖心をなくす
 ・ブラッシングされて喜ぶ場所から始める
 ・嫌がったらすぐにやめる
 ・一気にやろうとせず、できるところだけ短時間やる

 早速、恐る恐るアンのブラッシングを始めると、ドリのブラシの時とは違って、目を細め、気持ち良さそうに横になったままだ。これなら大丈夫としばらく撫で回していたら、ピンポン球くらいの毛玉がすぐに取れた。ちなみにスリッカーブラシは、力を入れすぎないように鉛筆を持つように握るのがいいらしい。

 アンの爪切りは、我が家に来た時から週に一度は必ず行っている。ただ爪切りをしただけではおとなしくじっとしていてくれないが、テレビコマーシャルのように、チュールを舐めさせながら切ると、最後までじっとしていてくれる。

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炎天下を走る

2021-07-24 12:03:21 | 福島

 今度の休日に歯医者の予約が入っている。この前抜歯したところの歯型を取ることになっているので、もしかしたらすぐに終わるかもしれないが、もしかしたら時間がかかるかもしれない。長くなればランニングに出る時間がなくなってしまうので、前もって時間に余裕のある今朝のうちに走ってくることにした。

 昨日、たっぷり雨が降ったので、今朝は久しぶりに涼しい朝を迎えた。これならランニングには快適だ。ただ、気になるのは、足の爪がズキズキと痛んでいることである。左足の親指の爪が巻き爪になって深く肉に食い込んでいたので、爪切りで切って引っ張り出し、絆創膏を貼っておいたのだが、痛みがなかなか引かない。タンスの角に思いっきり足の指をぶつけたような痛みが続いている。

 それでも走っているうちに気にならなくなることを期待し、絆創膏を二重にして出発した。着地するには痛みはないが、左足を蹴り出す時に爪先に力が入ってズキズキする。そのうち自然と左足はそっと足を出し、そっと蹴るという妙な走り方になってしまったので、20分も走っているうちにすっかり疲れてしまった。

 おまけに時間が経つに連れ、雲は消え、太陽が燦々と注ぎ始めた。頭の毛という毛から汗が吹き出す。持ってきていたペットボトルの氷水で顔を洗い、熱中症対策に首の後ろにもかける。

 ジリジリと陽に焼かれながら、走ったり歩いたりしたが、さすがに土曜日の朝とあって、ランニングする人、サイクリングする人、ウオーキングする人と、たくさんすれ違った。いつもは孤独なランニングだが、久しぶりに頻繁に頭を下げて挨拶をするランニングとなった。

 そんなこんなで1時間半ほど走り回り、家に帰ってシャワーを浴びてビールを一気飲みする。クーラーの下にひっくり返り、クールダウンしていると、いつしかトロトロと睡魔が訪れる。

 最高に気持ちがいいが、残念なのはこの後仕事が控えていることで、ダルい体に鞭打って動かなければならないのだ。

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なかったことに

2021-07-23 11:13:29 | 福島

 問題が勃発する東京五輪だが、オリンピック組織委員会が先週発表した開閉会式式典の共通コンセプトと五輪開閉会式コンセプトの発表文書から、「復興五輪」の文字が消えてなくなっていた。それには橋本聖子会長も驚き、文言が盛り込まれていないこと自体に驚いたという。

 それについて、式典の制作進行をプロデュースする日置貴之さんの言い訳が物議を醸している。「復興五輪」という言葉をコンセプトに盛り込まなかった意図についてインタビューで聞かれた日置さんは「省いたつもりはない。たまたま書いてないだけ」と釈明し、被災地へのメッセージをどう伝えるかについては「見てもらえば分かる」と答えた。

 さて、これについて、被災地の知事も県民も怒らなければいけない。「復興」をダシにオリンピックを招致しておきながら、いよいよ本番となったら、改めて言う必要はないということにしてしまったからだ。

 おまけにオリンピックで食材を提供するために、GAP認証というしち面倒臭い資格を被災地の農家などに取らせながら、選手村で提供される食材については、放射線に対する抵抗がある国に遠慮して、産地の表示をなくしたというのである。こうなってくると、ますます「復興」を世界に訴えるというよりも、東日本大震災を世界から隠そうとしているとしか思えないのである。

 開会式は予定通りにセレモニーを行うことに決まったようだが、どうやら橋本聖子さんは内容を知らないようだ。なぜなら「心に被災地の火がともるようなものが込められたオープニングであることに期待しています」と発言しているからだ。「被災地の火がともるようなオープニングです」とは言わず、「期待しています」とはあまりにお飾りにすぎない会長職だと言うしかないようだ。

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いっぱい歩きたい

2021-07-22 10:45:41 | 日記

 明日はいよいよオリンピックの開会式だが、待ちに待ったと感じないのは僕だけではあるまい。東京に住んでいれば少しは実感できるかもしれないが、田舎に住んでいるとテレビの中の世界でしかないのである。テレビの中のことというのは、非現実の空想の世界とあまり変わりはないのだ。

 で、僕はこのところ宮田珠己さんの「だいたい四国八十八ヶ所」を読んでいる。読み返すこと3回目だが、何度読んでも面白い。面白いというよりも、なんとなく旅している気分に浸れるのが嬉しい。野田知佑さんのカヌーでの川下りの本も、気分はアウトドアになれるし、山登りの地図を眺めていても山登り気分は味わえる。鉄道ファンなら、時刻表を眺めているだけで旅行できるに違いない。

 著者の宮田さん自身が、もともと信仰心があってするわけでも、お寺巡りに興味があるわけでもなく、理由は次の三つだと書いている。
 一周してみたい(四国)。
 全部回ってみたい(八十八ヶ所)。
 いっぱい歩きたい。

 そういう理由だから、お寺の由緒や案内にはほとんど触れず、道中の話がメインである。

 それにしても、「いっぱい歩きたい」という理由そのものが、現代人ではほとんど願望とは言えないんじゃないだろうか。普通は「あまり歩きたくない」であって、旅行をしてもなるべく交通の便の良さが目的地選びの上で上位にきていたりする。今や、「いっぱい歩きたい」などと言うような人間は少数派なのである。が、僕もいっぱい歩きたい派であって、子供の頃は「歩け歩けの会」というのを勝手に作って、ひとりで活動していたくらいである。

 さて、八十八ヶ所参りの方は終わりに近づいているのだが、作者は今までの道程を振り返って、「また歩きたいかどうか」という視点で思い返している。

 「山道、峠道の多くは、むしろまた歩きたい部類に入る」。「日和佐から室戸岬への道は、途中自販機もないなどといって敬遠する人もあるようだが、真夏を避け、食事や飲料水を確保していれば、むしろ楽しい充実した道である」。

 反対に、二度と歩きたくない道というのは市街地だと書く。「道が狭く歩道も細く、危険が多かった」。工業地帯では景色が汚いうえに、トラックも多い。結局のところ、一番きついのは、かつて「へんろころがし」と言われていた山よりも、車道である。

 こういうのを読むと、日本の道路というのが、車のためにしか整備されてこなかったことがよく分かる。江戸時代までは馬車でさえ禁止にされ、旅といえば籠か自分の足しか頼りにならなかったのだから、日本中に歩くための道があったはずである。

 最近になってようやく古道の保存や整備といったことが言われ始めているが、せめて一台の車も通らない歩くためだけの道で、日本をぐるっと回れるくらいの整備をして欲しいと願っているのは、僕だけではあるまい。

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