おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

四月の終わりに雪が降る

2022-04-30 10:35:11 | 福島

 昨夜は一晩中雨が降り続いたが、天気予報で言っていたような雪にはならなかった。朝5時には、透き通るような大気に朝日が昇ってきた。

 いつもより少しだけ早くテオの散歩に出ると、山は白く変わっていた。ゴールデンウイークを前にして山頂に少しだけ雪を残していた安達太良山は、再び白い峰々を見せている。四月も終わりだというのに、やはり東北は北国なのだ。ちなみに四月に雪が降ると、僕の頭にはプリンスの曲が流れる仕組みになっている。「四月に時々雪が降るように、人生にも時々辛いことがある」。

 気温は低いものの、太陽を浴びている頭はポカポカと温かく、お日様の偉大さを実感する。天気がいいのでカメラを持って出たが、手袋をしてこなかったので凍りつきそうになる。

 ソメイヨシノが終わり、代わりに八重桜があちこちで満開だが、意外と知られていないのがウワズミザクラだ。毛虫のような細長い花の房をつけている姿は、あちこちの雑木林で見ることができる。こんなにあったのかというくらい、森や雑木林はウワズミザクラで溢れているのである。

 いつもリスを見かけるクルミの木を観察していると、リスではなく赤い小さなクルミの花に気がついた。木はでかいが、花はなんとも可憐だ。下の方に何やらブラリと下がっているのがあるが、こちらも花だ。クルミの木は雌雄の両方の花が咲く。まずブラリと雄花が下がった後に、赤い雌花が顔を出す。というのは、後で調べて分かった。

 赤い花を咲かせていたカラスノエンドウは、今朝見るとすでにたくさん豆ができていた。子供の頃はこの豆のフサの端っこを切り、草笛を作ってブーブー鳴らしていた。別名「ピーピー豆」と呼んでいたが、決してピーピーとは鳴らず、ブーブーベーべーとしか鳴らない。

 そんなこんなでのんびり1時間ほど歩き回って家に帰ると、朝日を浴びてアンが窓辺で日光浴をしていた。

「ただいま」
「遅い、ニャー」

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休日の過ごし方

2022-04-29 11:18:51 | 日記

 今日から世間はゴールデンウイークに突入だ。「世間は」とわざわざ断るのは、連休中もカフェを開いているから、我が家にとってゴールデンウイークは無きがごときだ。ただ、5月5日を最後に営業を終了するので、ゴールデンウイークの最後の方は少し休むことができる。とにかく今日を入れてカフェの営業日は6日なので、最後のひと踏ん張りなのである。

 それにしても、待ってましたとばかりみんなせっせと出かけ、あちこちで渋滞が起きている。「どこへも行けずにストレスが溜まっていました」とインタビューを受けている人がいるが、やりたいことというのは、外の世界にしかないのだろうか。

 確かに山登りやハイキング、キャンプにドライブはストレス解消にはなるが、ただしそれは大渋滞に遭ったり、人混みを掻き分けなければならないような状態では、僕の場合かえってストレスが溜まってしまう。人が集まりそうな場所へは、混まない時期を狙って出かけるのが賢いやり方だと思うのだが、世間には渋滞や混雑しているところに行って初めてバカンス気分を味わえるという奇特な人たちが存在するようである。

 ゴールデンウイーク後半にまとめて休むことができるので、普段できないことをいろいろやる予定だ。まずは家庭菜園に、キュウリ、ナス、トウモロコシといった夏野菜を植えたい。普段集中して読めない本をじっくり読みたい。絵も頑張って描きたい。ヨモギ餅も作る予定だし、天気が良ければテラスでバーベキューもしたい。

 そう思うと、少しくらいの休日ではちっとも足りず、どこかへ出かけていくような時間的な余裕はなさそうだ。

 というようなわけで、貴重な休みを有効に使うため、ヨモギは今朝の散歩で摘んで来た。絵も休みに関係なく、少しずつ描き進めている。

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常識を働かせる

2022-04-28 11:14:21 | 日記

 コーヒーを飲みながらYahoo!ニュースを見ていたら、目を疑うような記事が出ていた。事件としては小さなものだが、記事を読みながらいろんなことを考えさせられた。

 それは年金に関するもので、ある人物が年金の繰下げ受給を希望し、なるべく歳を取ってからもらおうとしていた。そのほうが受給額が上がりお得だと宣伝しているからである。が、途中で年金をもらわなければならない状況になり、受給開始まで遡って我慢していた分を一括受給することにした。

 ところがである。それによって過去の年収が増えたことになり、所得税も少額ながら追加されることになった。おまけに過去の分は未払いということで、なんと延滞金まで課せられたのである。よほど腹に据えかねたとみえて、延滞金以上の費用をかけて国を相手に裁判を起こした。結果は、原告の負けであったという。

 これは国が仕組んだ罠というよりも、年金を扱う厚労省と税金を扱う国税庁の縦割り行政が、こうした矛盾を生んでいると記事では解説していたが、なんともおかしな事件なのである。

 で、思ったのは、国は年金の支払いに四苦八苦している。将来的には年金受給者が増え、払う側の若者が減る。どう見ても年金のお金が足りなくなるというのに、受給者にとって「お得な制度」なるものが存在するのかということである。国は「年金受給を遅らせるほど得ですよ」という。が、常識を働かせれば得をするのは国であって、国民ではない。「年金を遅らせるほど(国は)お得ですよ」と心の中では思っているのである。

 時々営業で、「お客さまには絶対に損はさせません」という営業トークを聞くことがある。そういう時僕は必ず、「客が絶対に損をしなければ、オタクはどうやって儲けるつもりなんですか」と尋ねてみる。僕の常識には、売る側も買う側もどちらも得をするようなことはない。

 お店で「ポイントカードを作ればお得ですよ」とせっせと勧めてくるのも、ポイントカードを作ればお店が得をするからである。僕の常識はいつだってそういうふうに僕に説明する。

 うまい話は実はマズイことが多いと以前書いたが、損得がからんだ瞬間、僕らは判断ミスを犯す。この世は自分が汗を流した分だけしか見返りとして戻ってこない、と考えていれば、天から幸運が降ってくるというような、夢物語を期待するようなことはなくなる。

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説得はあきらめる

2022-04-27 10:42:19 | 日記

 昨日、ちょっとだけ芸術の単純さということに触れたが、その話にタミちゃんが「書道だって同じで、どの線をどこに引くかですべて決まる」と補足していた。

 例えば、人が海に行き、その壮大さに感動した時、それをどう他の人に伝えるかということを考えてみると、意外とコミュニケーションの本質が表れているような気がする。どういうことかと言うと、海での感動を音楽で表現しようとした時、打ち寄せるさざなみの音を正確に音符に並べたり、風の音をその通りに音符で並べてみたりはしないだろう。海での感動を表すには、まるっきり別の方法を取るのが当たり前である。壮大な調べだったり爽快な雰囲気のメロディーだったり、実際に海で耳にしたり目にしたことではない調べで、海での感動を伝えるだろう。そして、その方が音楽を聴いた人には共鳴してもらえることが多い。

 絵の場合も、いくら緻密に正確に海の様子を描いたところで、海で感動した何かしらが表れているとはならない。海に昇る朝日がキレイだからと写真に撮っても、後で見ると「なんだこれ」と思うほうが普通である。だから絵描きは感動した要素の中から、一番大切な部分だけを抽出し、強調する。抽象画というジャンルがあるが、正確に言うならすべての絵描きが描くのは抽象的な絵なのである。

 ところが、絵や音楽の場合にはリアルさは追求しなくても理解してもらえるのに、言葉で感動を伝えようとすると、なぜか人は途端に正確さ、緻密さにこだわり始める。逐一説明し、誤解を避けようとするが、説明すればするほど説明しきれないことが次から次へと出てきて、収集がつかない状態になる。

 一生懸命おしゃべりして説明してくれるけれども、聞いてる方は何が言いたいのかちっともわからず、うんざりしてしまうことというのは案外多い。そういう話し方について人は「要領を得ない」と言う。

 音楽や絵が人を納得させるやり方を考えるなら、言葉で納得させる時にも同じ方法を取るのが一番だ。細かく説明したところで、他人を説得することはできない。なぜなら人は、理屈で納得しているわけではなく、感情で受け取っているからだ。

 一面の菜の花畑に行った時のことを、出発から帰宅まで逐一説明するよりも、「菜の花や月は東に日は西に」という俳句のほうが、目の前にまざまざと黄色い菜の花の絨毯が広がるのである。

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最近のお気に入り曲

2022-04-26 11:20:40 | 日記

 今でもおそらくその傾向は続いているだろうが、昔からコマーシャルソングやドラマの主題歌に決まると、ほとんどの曲がヒットした。何度も何度も繰り返し耳にし、おまけにコマーシャルにしろドラマにしろ、力の入った映像を伴い、さらに一番いいところで流れるのだから当然と言えば当然だろう。

 とは言え、コマーシャルソングだから、ドラマの主題歌だからという理由で、すべてお気に入りということにはならない。いろんな音楽が耳に入りながらも、ちゃんと自分のお気に入りを聞き分けているのだから、人間の耳というのは不思議にできている。

 大体音楽というのは、基本的には音の高低と長さによって構成されている。極端に言えば、その組み合わせでしかない。絵の場合は、音の代わりにどの色がどこに配置されているかで画面が構成されている。芸術というのは、突き詰めれば単純な要素で、人間の感情を揺さぶる表現になったり、ある時には行動を起こさせる力を与えたりするわけだから、なんとも不思議な世界なのである。

 さて、最近僕がお気に入りなのは、NHKでやっている「ファミリーヒストリー」のラストで流れる「リメンバー・ミー」(くるり)という歌で、この番組のために書き下ろされたということである。じっくり歌詞を聞いてみると、前後の脈略もなく、一体何が言いたいのかと思ってしまうが、父母、子供、過去や未来、今日や明日という単語が端々に使われているため、「ファミリーヒストリー」のテーマになっているご先祖さまとのつながりを感じてしまうのである。で、これがいつも一番いいところで流れる。番組は大したことがなくても、この音楽が流れた途端、感動の波が押し寄せてくるのである。

 もう一曲は、やはりNHKで時々流れるドキュメンタリー「映像の世紀」で流れる音楽だ。こちらも番組に合わせて作曲家の加古隆さんが作ったとインタビューに答えていた。「映像の世紀」は、20世紀になり発明された「記録映像」により構成されている。人間の愚かさ、熱狂、願望など、歴史の持つどうしようもない流れに見ていて脱力してしまうほどだ。人間は馬鹿なのか。あるいはまだ何かしら未来があるのか。

 ちなみに曲の出だしのアルペジオの部分が、ウクライナのひまわり畑を舞台にしたソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の映画「ひまわり」の主題曲によく似ていて、より悲劇性を感じてしまうのは僕だけであろうか。

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ちょっとマズイおいしい話

2022-04-25 11:35:06 | 日記

 東日本大震災後に福島で始めたカフェも10年目を迎えるにあたり、5月5日で営業を終了することに決めた。営業日も10日を切り、いよいよラストスパートで疲れが溜まっているが、今日の定休日はゆっくりすることはやめ、20キロほどランニングして来た。午後は買い物と来週のための仕込みが待っている。

 さて、おそらく撮影も終わっているだろうから書くことにするが、断らなければ今頃は地方の食い物屋を訪ねる番組で、「アトリエ・カフェ 青い犬」が使われることになっていた。常識で考えればわかるように、タレントが偶然発見するように見えるテレビ番組も、事前にスタッフがちゃんとお店の了解を取っているのである。

 全国放送のあるキー局から連絡があったのは、今から2年前である。3月の桜の時期を狙ってタレントがやってくることになっていたが、直前になり新型コロナ・ウイルスの騒動が大きくなり、テレビからロケ番組がまるっきりなくなり、「青い犬」にやって来るという話も立ち消えになった。

 去年もテレビ局から連絡があり、中止していた企画を進めたいから、春に訪問したいと言う。で、そんなこんなしていたら、Go To キャンペーンにより感染者数が過去最高になり、春には緊急事態宣言発令となって再びロケは中止となった。

 で、今年も懲りずに同じテレビ番組からオファーがあり、4月の◯日に伺いたいと連絡があった。けれども、ほぼ4月いっぱいで営業を終了するというのを理由に、断ることにした。テレビ局側は、まさか断られるとは思っていなかったようで、「へっ」と間抜けな声を挙げた。

 最初は福島のカフェに来られない九州の知人たちに、こんなお店をやっているという宣伝になるかと思っていたが、よくよく考えれば断って正解だったと今では思っている。と言うのも、全国放送で流れた後は、県内外から興味本位でやってくる人たちで溢れることは想像できるからだ。となると、住宅街の中にポツンとある「青い犬」は、駐車場がないために至るところで路上駐車が横行するのは目に見えている。おまけに閑静な住宅街にガヤガヤと行列ができるなんて事態になれば、隣近所に迷惑をかけまくるに違いなく、まったく申し訳ないどころか、僕らでさえ住みにくくなってしまうからである。テレビ局は宣伝したつもりでいるだろうが、その後の騒動までは責任は取ってくれない。

 同じようなことは、昔豆腐屋でアルバイトした時にも経験した。その豆腐屋は町の小さな家族経営の豆腐屋だったが、ある時全国展開しているスーパーから、数千という単位で豆腐を作って欲しいと頼まれ、大喜びで引き受けたのである。営業しなくても、それまで数百という単位の豆腐が、毎日数千単位で売ってもらえる。目の前のおいしい話に夢は膨らみ、豆腐を量産するために大型の機械を導入し、せっせとスーパーに卸し始めた。

 ところがである。豆腐屋の取引先が大手スーパー一つに頼るようになると、スーパー側は豆腐の値引きを打診してきた。ダメなら別の豆腐屋に乗り換えると言う。機械の借金を抱える豆腐屋は、当然のことながらスーパー側の要求を飲むしかない。そのうち原材料や燃料費が高騰するものの、豆腐の原価を上げることができない。そんなことをすれば、スーパーは契約を打ち切り、別の豆腐屋と契約するだけである。仕方なしに従業員の給料をカットし、なんとかやりくりしていたが、ついには従業員も辞めていき、にっちもさっちも行かなくなってしまったのである。

 「おいしい話」というのは、あくまでも「話がおいしい」というに過ぎず、本当はマズイ場合がほとんどだと、僕は肝に銘じている。

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ヨモギを摘む

2022-04-24 10:20:26 | 12音詩

 朝、散歩している途中で、タミちゃんと子供の頃の山菜摘みの話になった。子供の味覚では山菜というのは、お菓子や果物に比べればそれほど興味を食指を動かされることはなかった。それでも、山菜摘みの思い出はあって「おばあちゃんと一緒にヨモギを摘んだ」とか「近所の人たちとヨモギ摘みに行ってヨモギ餅を作ったことが楽しかった」という会話から、「今度、ヨモギ餅を作ってみない」という話になった。

 餅つきは年末にタミちゃんの実家にあった餅つき器を取ってきて、初めての餅つきに挑戦して味をしめた。それならヨモギさえあれば、ヨモギ餅だって作れるだろうということなり、歩きながら早速スマホでヨモギ餅の作り方を調べてみた。

 どうやら餅米と重曹があればできそうだとわかったので、散歩しながらヨモギを探してみることにした。ちなみに重曹はヨモギのアク抜きに使うということだ。

 と、ヨモギなんて道端のどこででも見つけることができるではないか。普段、いかに注意を払わず歩いているか思い知らされる。だったら、さっさと摘んで帰り、下処理だけしておけばいいんじゃないかということで意見が一致し、散歩の犬のおしっこがかかっていないような場所でヨモギ摘みをする。10分も摘めば、ビニール袋にひとつ半取れた。レシピでは餅米1キロにつき、ヨモギ200グラムとあったので、これくらいで十分ではなかろうか。

 さあ、あとはまた実家から餅つき器を持ってくれば、いつでもできたてのヨモギ餅が食えるのだ。田舎には何もないという人は、コンビニでヨモギ餅を買って食べる人たちであろう。何にもないどころか、旬の楽しみに満ちているのが田舎なのである。

 ということで、一句。

「餅食うためぞ蓬摘む」

 ついでに桜の時期に作った句も書いておく。

 林の奥の藪椿
 花散らすヒヨドリの群れ
 桜葉も大和心か
 山に来て大きな桜
 酢味噌で和えてノカンゾウ
 春山歩けば二輪草
 里山ここにも山桜

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天然のジム通いなのだ

2022-04-23 10:48:52 | 福島

 散歩の時に、我が家の畑の様子を見に立ち寄った。今現在、ジャガイモ、ニンニク、生姜、茎ダチ、ネギ、豆が植わっているが、そろそろキュウリやトマトなどの夏野菜のための畑づくりもしておかなければならない。

 家庭菜園は近所の人に借りている小さな畑なので、いろんな野菜を少しずつ作る。同じ野菜でも時期を少しずらして植えると、その分長く楽しめる。そんな調子なので、耕運機を使うほどではない。最初の時だけ、カボチャの植わっていた粘土質の畑を借りたので、耕運機を借りて掘り返した。それ以降は、ずっと人力で鍬で耕している。

 朝飯後、畑を数畝掘り返しておこうと、車に長靴と手袋、鍬の三種の神器に、肥料入りの土もちょっと積み込む。ついでに畑の様子を写真に収めておこうと、慌ててカメラを取りに家に戻るが、ついでなので花盛りになってきた我が家の庭の写真も撮っておいた。

 桜やモクレンやムシカリといった花木が終わり、次はチューリップなどの花々の季節だ。

 畑に着いてみると、冬の間ほったらかしにしておいた畝は、タンポポやナズナといった草で覆われていた。

 今日はとりあえずこの草を鍬で撤去し、そこに石灰や化成肥料、堆肥などを撒いておく予定だ。ちなみに畑いっぱい広がったナズナやハコベラは春の七草でもある。食おうと思えば食えるので、「雑草」とひとくくりにしてしまうのは気がひけるが、こんなに七草粥ばっかり食えるかっつうの。

 1時間半かけてなんとか雑草の撤去が終わる。腰が限界に近づいているので、鍬を杖代わりにしてヨボヨボと車にカメラを取りに行くと、近所の知り合いが僕の姿を見つけて、散歩の途中で畑に立ち寄った。
「何を植えるんだい」
「まだ掘り返しただけで、もう少ししたらトマトやらキュウリやら、夏野菜を植えるんです」
「そりゃ楽しみだね。無理しないように」
「アスレチックジムに通っていると思えば、タダで体が鍛えられるし、野菜は収穫できるし、耕運機を使うより、人力が一番ですよ」と強がりを言う。

 関係ないけど、日本が戦争になった場合、いくら最新鋭の軍備を充実させてもダメなんだそうだ。なぜなら、食料自給率が世界でもダントツに低く、石油などの資源のない国は、戦争になれば途端に行き詰まるからである。

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見当はずれなことを書く

2022-04-22 11:21:23 | 日記

 連日ロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れる。どうにか終わって欲しいものだと思うものの、現実にはどんどん収拾がつかなくなりつつあり、すでに泥沼とかした戦場は、長期化しそうな事態に進みつつあるようだ。

 何かしら解決の糸口はないのだろうかと、あちこちのニュース記事を拾い読みしても、どれも的を射ているとは思えないことのほうが多く、憂鬱な気分にさせられる。人間というのは、どうしてこうも自分で自分の首を絞めるようなことを平気でやらかしてしまう生き物なのだろう。

 誠実に平和を願い、千羽鶴を折ってウクライナ国民に送るという。が、あえて言わせてもらうなら、千羽鶴を送る相手はロシアへ送るのが正解だ。毎日毎日日本から莫大な量の千羽鶴が送られて来たら、ロシア国民だってなんだか物凄いことが起きているんじゃないかと気づくのではないだろうか。サイバー攻撃のひとつに、莫大な量のデータを送りつけてコンピュータを使用不能とするやり方があるが、日本国民はロシアの平和を願い大量の鶴を送るのがよろしい。

 著名人や政治家の発言を聞いていても、僕にはいまいちピンと来ない。「ロシアばかりが悪いわけではなく、ウクライナにも原因がある」だとか、「ロシアを悪者にすることで、わかりやすい構図にしている」だとか、「ウクライナ国民は国を脱出して、プーチンさん亡き後に故郷に戻ればいい」だとか、これで一体、どうやって戦争が終決するというのだろう。

 見当はずれを承知で書くなら、ニュースを見ている限り、僕には単純にいじめっ子が自分より立場の弱い子供をいじめているというふうにしか見えない。いじめっ子がなぜいじめているか、というような理由はあってなきがごときである。「いじめに遭っている子供にもいじめられる原因がある」と言っても、「いじめっ子が悪い子かどうか」を考えたって、「いじめっ子から逃げて転校すればいい」とアドバイスしたって、いじめの解決にならない。それと同じことが、今現在ロシアとウクライナで起きているんじゃないかと思う。

 ウクライナに資金援助をするとか、防護服やヘルメットを送るとか言っても、それはいじめられている子に、「このお金でボクシンググローブを買って戦いなさい」と言っているようにしか見えない。いじめっ子からのとばっちりを受けないために、そっといじめに遭っている子に、カツアゲにあった分のお金を渡したり、戦い方を助言しても意味のないことである。

 こういう時は、いじめている側の人間に対して、「おまえが強いのは十分わかったよ。可哀想だからそろそろやめてあげてもいいんじゃないか。そうしないと、今におまえだって困る時が来るかもしれないよ」と、助言してやるのが、大人の対応というものである。

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春の山菜

2022-04-21 11:36:15 | 日記

 近所に、春になると山菜を持って来てくれる知人がいる。昨日もひょっこり顔を見せたかと思ったら、「はい、コシアブラ」とビニール袋に入れた山菜を手渡してきた。コシアブラは漢字で書くと「漉油」。どうしてこういう字を当てるのかは知らないが、名前だけ聞くとサラダ油みたいでとても山菜とは思えない。見かけはタラノメをどうにしかしたような感じで、天ぷらにして食べると大変うまい。僕が子供の頃は、お袋に山菜の知識が少なかったのか、コシアブラはおろかフキノトウも食べさせてもらった記憶はない。もっとも、子供にとって山菜は、たいしてうまいものとも思えなかったのだが。

 この春、すでに食べたものはフキノトウ、ウド、ノカンゾウ、行者ニンニクくらいのものか。フキノトウは天ぷらやフキ味噌に、ウドはキンピラに、ノカンゾウは酢味噌和えで、行者ニンニクは醤油漬けにして食べた。

 これから口にするだろう山菜と言えば、タラノメやワラビ、ゼンマイにコゴミ、筍やフキといった具合に目白押しだ。ノビルなんかもうまい。

 そんな山菜の中でも、もらって一番処分に困るのが筍かもしれない。筍だけでもハチクやマダケ、モウソウダケと旬がずれているので、あちこちからもらう筍があっという間に冷蔵庫いっぱいになってしまうのである。天ぷらやパスタやら煮物やら、いろいろ作っても間に合わない。そういう時は我が家では細切りにして豆板醤などで甘辛く煮て、大量のメンマを作り置きしておく。甘酢漬けなんかもうまい。

 そうやって、毎日「うまいうまい」言っているうちに夏がやって来るが、山菜のいいところはたらふく食っても太らないということだ。外国で日本食はダイエットにいいなんて言われているが、そんな中でも山菜料理は、究極のダイエット料理と言えるかもしれない。

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