おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

川面さざめく

2022-01-31 12:02:57 | 12音詩

 朝から気温はマイナスだ。今日は最高気温でさえ1度にしかならないという。おまけに外は強風が吹き荒れている。うーん、こんな中、休日だとはいえランニングに出るのは尻が大変重たいのである。

 が、走って来ないと、夕方頃になると後悔が始まる。「どうして走らなかったんだろう。ちょっとくらい気が重いからと言っては止めていたんでは、何ひとつできないようになるではないか。オレはそれだけの人間なのか」と、耳元で別の自分がブツブツ言い始めるのがわかっているので、寒かろうがお尻がめちゃくちゃ重たかろうが、とりあえずランニングするために着替えることにする。走りたくない体が抵抗を始め、着替えている最中なんどもえずきそうになる。

 外に出るとたちまち向かい風に遭い、ちっとも前に進まない。頭からすっぽりフードを被り、サングラスだけが空気にさらされている格好だ。こりゃあ、相当危険人物みたいに見えるだろうな。

 それでも30分も走れば汗が吹き出し、やっぱり出てきて良かったと感じる。体感気温はマイナス10度くらいだろうが、寒さなんかちっとも感じない。嵐の雲や雪雲が頭の上を通り過ぎて行くのを、雄大な気分で眺める。

 最初は1時間も走れば十分だと思っていたが、結局2時間近く走ることになった。途中足を止め、風の中で一句ひねる。

「名残惜しむ冬の嵐」
「川面さざめく春の雲」

 ついでなので、朝晩の散歩の時の句も書いておく。

「靴下濡らす春の雪」
「冴え冴えと明星ひとつ」

 それにしても毎日寒いのだ。

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一番好きなテレビ番組

2022-01-30 11:09:13 | 福島

 日曜日の朝は、朝食を食べ終え、コーヒーを飲んでのんびりしていると、大体NHKの「さわやか自然百景」が始まる。日本各地の自然を紹介する15分ほどの番組で、何にも考えずにぼんやり見ていることができるので、まったりしたい時に見るには最高の番組である。

 今朝は北海道の積丹半島の野鳥や魚たちを紹介していた。北海道をトトと車で一周した時に立ち寄った神威岬やローソク岩が画面に現れると、その時のことが思い出されて懐かしい。そんなことを考えていたら、いつの間にか目の前にアンが陣取り、食い入るように画面に見入っているではないか。いろんなテレビ番組がある中で、不思議と「さわやか自然百景」の時だけは熱心に見ているのだ。自然の景色を紹介する番組は他にもあるし、動物のおもしろ動画を流す番組もある。それなのに、アンは不思議とこの番組の時の興味の示し方は半端ないのである。

 番組の最中は、ずっとこの視線で画面に集中している。あんまり集中して、ピクリともしないので、テオがアンの視線の先に何があるんだろうと確認しようとする。

「さっきからこっちを見ているけど、何か来たんだろうか」

「う〜ん、何にも怪しいものはないんだけどな」

「そっちじゃないわ。それよりそろそろ番組が終わっちゃうよ」

 ゲンキンなもので、番組が終わり、次の番組が始まった途端、アンはテレビの前からさっさと移動して行った。アンのために、我が家の日曜日の朝は何があっても「さわやか自然百景」にチャンネルを合わせなければならなくなっているのである。

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超加工食品

2022-01-29 11:40:26 | 日記

 最近、世界中の医師会で超加工食品の危険性に関する研究が報告されているという。ただの加工された食品ではなく、それに「超」の字がつくくらいだから、これでもかというくらい加工しているのだろうくらいの見当はつく。おそらく食品添加物まみれの食べ物に違いないとは思うものの、この際だから、少し正確な知識を得ておこうと調べてみた。

 2009年、ブラジルのサンパウロ大学の研究チームが、食品に関して「NOVA分類」を提唱した。すべての飲食物を、加工度の低いものから高いものに順じて4段階に分類したものである。一番加工度の低いものは、野菜や果物、豆類、肉、魚、牛乳などの「生鮮食品・ほぼ無加工の食品」。次が、料理塩や砂糖、植物油、バター、酢などの「加工食品の材料」。三番目がパンやチーズ、薫製肉など、家庭でも使う材料を使って加工した「加工食品」。そして四番めの一番加工度の高い「超加工食品」と呼ばれるものが、家庭で調理する際には使わない添加物や油脂などを過剰に加えた食品、すなわち大量生産された菓子パン、インスタント食品、保存料を使用した肉加工品など、である。

 で、アメリカ医師会の報告では、「超加工食品」を摂取する割合が10%増えると、死亡リスクが14%増える。英国医師会の報告では、発がん性リスクの向上、ブラジルの研究チームの報告では、「超加工食品」の消費量が10%増えると、肥満が18%増加する。

 オーストラリアの大学の研究チームの報告では、焼き肉やソーセージ、ハンバーグ、ステーキ、ポテトチップス、清涼飲料水を摂取している人たちは、脳の左側の「海馬」が萎縮しやすいという結果を得た。「海馬」は学習や記憶のほか、抑うつなど気分の調節にも関与している器官であり、アルツハイマー病や軽度認知機能障害の患者たちの海馬は小さくなる傾向があるという。

 問題なのは、危険だとわかっていても、超加工食品を食べ続けてしまうことにある。それは単に「便利だから」というだけではなく、これらは往々にして塩分や糖分、脂肪分が多く、それが「超加工食品依存症」へとつながってしまうのだ。

 世界的には、近く「超加工食品」は規制対象となって行くだろう。が、日本のお役所はこういった時には、動くのは一番最後になる。厚生労働省が問題ないと許可したものは、簡単には訂正しようとはしないからである。

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豆はぶつけるためのものではない

2022-01-28 11:27:25 | 日記

 二十四節気の大寒を迎え、暦の上では今が一番寒い時期だ。あと1週間もすれば立春となり、春を迎えることになる。とは言え、実際に大雪が降ったりするのは2月から3月にかけてだったりするので、東北ではとても春とは呼べないが、せめて暦の上だけでは春の気配を感じたいものである。

 旧暦の新年と立春は近いこともあり、地域によっては昔は立春と新年を一緒に祝うというところもあったようだが、立春の前日の2月3日が節分というのは、どうやらその辺に理由がありそうだ。今では節分と言うと、鬼に豆をぶつけて退散させ、福の神を家に招き寄せるというようなことでやっているが、本当の節分とは福の神だけでなく、神様にくっついて有象無象の魑魅魍魎たちも一緒にやって来た。

 古来日本はアニミズムの世界だった。アニミズムというのは、この世のすべてのものには、それぞれ神様がいるという多神教の考え方である。山に行けば山の神、田んぼには田んぼの神、台所には台所の神、火の神もいれば水の神もいる。お金の神なんてのもいる。そういう神様たちがこぞって新年になるとやって来るわけだが、人間にとって役に立つ神様ばかりではないので、福の神様だけ家に入ってもらい、あとのどうでもいい神様たちにはお帰り願わなければならない。貧乏神だの疫病神だの、来られて困る神様もいるのだ。そこで、豆をお供えし、これをお土産にしてお帰りくださいというのが節分の始まりだったそうだ。

 そういうわけで、豆は鬼を撃退するための飛び道具ではないのだが、いつしか豆をぶつけて鬼を追い払うというふうに変わった。1400年頃、室町時代が始まったあたりからだという。となると、それまでお供え物を持たせて帰ってもらうという穏健な時代から、豆を鬼にぶつけて退散させるという強引なやり方になったのは、武士の世の中が当たり前になったことと関係しているのかもしれない。

 そういうことなので、豆はわざわざ窓から放り投げる必要はない。最近は、豆まきをする声がうるさいだとか、豆を撒き散らして環境を汚すんじゃないとか、何かと世知辛くなっているが、太古の日本人に倣って、この世のすべての神様に感謝申し上げ、お供えをするという節分もいいかなと思ったりするアベさんであった。

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おまえじゃない

2022-01-27 11:20:22 | 福島

 ヒマワリの種を入れているテラスの給餌台に、何やら野鳥の影が見えたので、近くにあったカメラを手に取ってのぞいてみると、数羽のスズメだった。

 ヒマワリの種を用意してあるのは、おまえのためじゃないんだけどな。

 カフェを始めるためにあちこち自分の手で改装した時に、野鳥が訪れる場所にしたいと思い、本屋で野鳥の来る庭なんて本まで購入して勉強した。どういう木の実を食べるとか、どんな野鳥がきやすいかとか、とにかく野鳥に関してはカラスと鳩とスズメくらいしか判別できないくらいの知識だったので、本に書いてあることを忠実に試してみた。

 結果、スズメが大挙して押し寄せるようになったわけだが、時々あまり目にしない野鳥も混じるようになった。ヤマガラ、シジュウカラ、ジョウビタキ、メジロ、シメ、カワラヒワなどが給餌台にやって来ていた。こうした知識はすべて後から図鑑を見て覚えたわけだが、観察を続けるうちに、給餌台に入れておいた野鳥の餌の中でも、シジュウカラやヤマガラはヒマワリの種しか食べない。それなら「野鳥の餌」というのをホームセンターで買って来るより、ハムスター用のヒマワリの種を置いたほうが、ヤマガラやシジュウカラが来やすいに違いないと、それからはヒマワリの種しか置かなくなった。

 これは大正解で、それまでスズメの巣窟だった我が家の庭からスズメが減り、代わってヤマガラやシジュウカラが頻繁に顔を見せるようになったのだった。

 今年の冬は、毎年顔を見せるヤマガラやシメの姿は見かけない。そろそろだろうと注意しているので、野鳥の影が見えると、すぐに確認するのがすっかり習慣になっている。というわけで、スズメの姿だったりヒヨドリだったりするとガッカリするわけだ。「おまえじゃない」。

 さて、そんな我が家の裏の空き地のハクモクレンも、プックラと蕾を付けている。九州では梅の開花があったようだが、ひと月は季節が遅れる福島では、ようやく春の気配が感じられるようになって来たというところだろう。

 と、外を眺めていると、近くのモッコウバラの枝にシジュウカラのカップルが来ていた。白黒のツートーンカラーで、胸にネクタイのような黒い線が入っている。人間を怖がらないので、民家の近くでは年中見ることができるが、すぐ近くでじっくり見ようと思えば、やはりヒマワリの種を用意しておく必要がある。

 ちなみにヒマワリの種以外では、野鳥やリスは松ぼっくりが大好物で、隣の家の庭にあった松の木が切られるまで、野鳥は今よりもっと頻繁にやって来ていた。確かに松は手入れが大変だが、野鳥が来ることを思えばそのままにしておいて欲しかった。

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割りに合わない

2022-01-26 10:25:35 | 日記

 このところずっと気をつけているのが、「うっかり」しないということである。

 出来上がった料理を運ぼうとして、うっかり手が滑ってしまったり、荷物がいっぱいなのでなんとか足で車のドアを開け閉めしようと頑張っているうちに玉子を割ってしまったり、とにかく普段やらないことを、なんということもなしに思わずやってしまうときに限って、つまらない失敗をしてしまうのである。どうしてやらなくてもいいことをしたんだろうと思っても、後の祭りだ。

 「うっかり」ほどバカバカしいものはない。だから、少々面倒臭くても、なるべく「うっかり」ミスをなくすように、日々心がけているアベさんなのである。

 先日も、1時間ほど外出するまでに時間があるからと、タミちゃんは習字をすることにした。ところが、「うっかり」墨汁を落としてしまい、結局出かけるまでの1時間は、飛び散った墨汁の掃除に費やされたのである。墨汁ももったいないが、余計な仕事を増やしてしまったことはもっとバカバカしい。おまけにやるはずだった習字の練習はまるっきりできないのだから、「うっかり」の代償は大きいのだ。

 以前一緒に働いていた人は、車を運転中にシートに置いた空の弁当箱がカタカタとうるさいからと、手を伸ばして移動させようとしているうちに、田んぼに転落してしまった。車はそれでオシャカである。翌日、みんなから「空の弁当箱なんて放っておけばいいじゃないか。バカバカしいにもほどがある」と呆れられた。

 僕の親戚に、運転中にCDを聞こうと思ったら、手が滑って落としてしまった。で、足元のCDを拾い上げようとしているうちに、前の車に追突して、2台の車をオシャカにしてしまった。

 こういうことを思い出したのは、つい先日も川崎で、3人が死傷するという大事故があり、運転していた50代の女性の言い訳を聞くと、飼っていたインコを動物病院に連れて行こうとしたとき、助手席のインコに気を取られたのだという。がその結果、対向車線に大きくはみ出し、ふたりを死なせ、ひとりが重傷という取り返しのつかないことになったのである。

 運転中に助手席のインコを見たところで、インコの具合が良くなるわけではない。まずはさっさと動物病院に行き、先生に診てもらうことが大事だったはずである。「うっかり」気を取られていたせいで、インコを動物病院に連れて行けなくなったばかりか、自分の人生も他人の人生も台無しにしてしまったのである。「うっかり」の代償は、とにかくどうしようもなく割りに合わないのだ。

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究極のポジティブ思考

2022-01-25 10:33:55 | 日記

 去年、11月にクライマーの山野井泰史さんが、アジア人として初となるピオレドール(黄金のピッケル)生涯功労賞を受賞された。ピオレドール賞は、毎年山登りに貢献した人に贈られていて、日本人でも数人がすでに受賞しているが、生涯功労賞というのは現在までに世界で12人の受賞者しかおらず、山野井さんで13人目である。この賞を受賞する人が少ないというのは、途中で命を落とした有名クライマーが多いということの証明でもある。日本人女性でピオレドール 賞を受賞した谷口けいさんも、2015年に若くして滑落事故で死亡している。

 去年の暮れ、12月には日本での記者クラブで受賞記念のインタビューがあり、その映像がYoutubeで紹介されていた。記者クラブでの会見は、山登りをしない人たちもいることから、一般的な質問も多かった。その点、専門的な質問やクライミングの技術的な質問はほとんどなく、一般の人でもわかりやすい受け答えになっている。

 山野井さんのインタビューを見て、改めて山野井さんの凄さと人間力に圧倒されたのだが、山野井さんはヒマラヤのギャチュンカンを夫婦で下山中、雪崩にあって視力まで失う事故に遭う。その時、両手の指5本と足の指5本を凍傷で失うのだが、クライマーとして再び活動を始める。そのためには、まず指のない足で鏡を見ながらまっすぐに歩く練習から始め、力の出しにくい手でどうやってクライミングをするか、トレーニングと努力を重ねて克服して行く。そして現在、トップクライマーとして活動しているのである。

 インタビュアーは当然のように、大事故に遭いクライミングを諦めようとしなかったかを尋ねる。それに対して山野井さんは、それまでの活動で、すでに自分の実力が頭打ちになり、これ以上伸びないだろうというところまで来ていた。ところが事故に遭うことで一般人以下の運動能力しかない人間になってしまった。ということは、子供の頃の自分のように、一から登山を始められるのだから、これほどワクワクすることはない、と応えるのである。

 歳を取り、多くのクライマーは垂直から極地探検などの水平の世界へと移行しているが、との質問にも、歳を取れば当然できることは少なくなる。ということは、それだけ挑戦することも増えるのだから、そういう時期になればワクワクするだろうと応える。

 これこそ究極のポジティブ思考である。普通の人なら、今までやって来たことが全然できなくなれば、すべてを失ったと思うのがオチである。ところが人生をリセットし、再び挑戦ができることを喜んでいるのだから、過去は一切気にしないということなのである。

 大リーグで活躍した大谷くんが、肘や膝の手術をした時にも、挑戦することが増えて落ち込んでいる暇がないと話していたが、おそらく僕らのような一般人に欠けているのは、目の前のことだけに集中する力なのだろう。

 さて、そんな山野井さんに、若いクライマーや子供たちにメッセージをというお願いがなされる。と、山野井さんは自分には子供がいないので、何も言うことはないとそっけない。若者にも頑張れとは絶対に言わないし、自分もそんなことを言われたことがないと、質問者泣かせだ。

 と言うのは、命をかけてクライミングに取り組んでいる自分に対して、頑張れと言われても意味がないからである。あるいは、頑張れというひと言が、引き返すタイミングを逃してしまうということだってあるだろう。判断は常に自分がやらなければならないことであって、他人の気安いエールは、判断を誤らせることだってあるかもしれない。

 子供に頑張れとエールを送る親は、もしかしたら子供の逃げ道を塞いでしまっていることだってあるかもしれないなと、インタビューを見ながらそんなことも考えさせられた。 

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瞑想する

2022-01-24 11:09:32 | 12音詩

 「瞑想」をウィキペディアで見てみると、「心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと」というような説明がしてある。座禅を組んだりヨガをしたりというのは、瞑想のための手段だから、瞑想状態になるにはどういうやり方でもいいということなのだろう。実際、イスラム教やキリスト教、仏教など、それぞれに瞑想のやり方は独自にあるようで、特にこうしなさいという決まった方法はないようである。

 たまたまランニングの前に見ていたネットの記事の中に、ランニング瞑想のやり方などというのがあったので覗いてみたら、あまりに細かくいろいろ指示がしてあって、読むのが面倒になってしまった。やり方のひとつに「自分の足音を数える」というのがあったが、僕は走っていて苦しくなると、百からゼロに向かって数を数えるようにしている。とりあえずゼロまで数えたら休憩しようと思って走っていると、意外に遠くまで走っているので、じゃああと50だけと付け足したりして走るのだ。

 こうして数だけ数えていると、他に何かを考える余地というのはなくなってしまう。数を数えながら、別の空想をするというのは、まるっきりできないのである。こうして1時間も走っていると、普段抱えているストレスというものが、ちっぽけでどうでもいいような気がしてくる。気分が前向きになり、ちょっとだけ自分の自信を取り戻した気になってくる。こういうことがあるので、休日に時間があるのに走らないでいると、かえってストレスが溜まってしまうのである。

 アップルの創始者スティーブ・ジョブズ氏が、禅を生活の糧にしていたことは有名である。禅でなくても、1日に15分でも何も考えない時間を持つのを習慣にしている知識人や有名人は多い。こうすることで頭がクリアになり、しがらみから逃れ、新しいアイデアを得やすくなるからである。

 心理学の世界で「日曜日効果」というのがあって、普段の朝と日曜日の朝は、何ひとつ変哲ない窓から差し込む光でさえ、違って感じるというものがある。人間はしがらみから解放されると、自然と感受性が豊かになる動物なのだ。

 ランニングの途中、水分補給のために立ち止まったときに、周囲を眺めながら一句ひねってみた。

「重機が浚う春の川」
「空を塗りつぶせ カラスよ」

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春間近

2022-01-23 11:36:18 | 福島

 今朝も氷点下なのか、凍りつくような寒さだ。けれども風はなく、雲も少ない。普段は6時には家を出発するテオの散歩も、30分遅く、明るくなってから出かけることにした。

 ケンくん家の前を通りかかると、軽トラックがない。きっと今頃はボール投げをしてもらっているのだろう。そんなことを思いながら歩いていると、丘の上から軽トラックが降りて来た。早くもケンくんがボール投げを終えて帰って来たのだ。テオはすぐにケンくんの軽トラだとわかったようで、軽トラに向かってキャンキャン吠えながら突進しようとする。それに気づいたケンくんの飼い主さんが、道路脇に車を止めてくれる。

 テオはおっちゃんにいつもオヤツをもらっているので、ケンくんに挨拶する前にまずはおっちゃんに飛びつく。人間が怖くて仕方がないテオも、近頃はオヤツをくれる人には自分から飛びつくようになったのである。果たしてこれは進歩なのか。ただのワガママな甘えん坊になっただけなのか。

 風がないので、歩いていると寒さはほとんど感じない。そう言えばニュースでは「大寒」を迎えたと話していた。一番寒い時を超えたということだ。

「大寒の次ってなんだっけ」と僕
「立春じゃなかったっけ」とタミちゃん
「一番寒い時期の次がもう春だっけ」
「多分、一年の始まりが立春から始まるんだよ」
「じゃあ、立春の次は」
「うーん、うーん」と、これでふたりとも頭を抱えてしまった。

 二十四節気は、一年を季節により24に区分している。有名なのは「春分」や「秋分」だろう。あとは「立春」や「立夏」などだろう。こういう時、24を全部スラスラ言えるとカッコいいんだがなあ。

 結局思い出せないまま、家に帰って確かめることにした。

 空には秋のようなうろこ雲が現れている。静かな静かな朝で、いかにも里山の早春といった雰囲気だ。春は着実に近づいている。

 途中、時々すれ違うミニチュアダックス2匹と出会う。テオは早速挨拶するが、いつも2匹からキャンキャン吠えられて大変だ。

 で、家に帰って二十四節気を調べた結果、「大寒」(1月21日頃)の次は「立春」(2月4日頃)で、これが新年一発目だ。次から「雨水」「啓蟄」「春分」「清明」「穀雨」と続く。ここまでが春で、次が「立夏」となり夏になる。

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まさかこんなことになるとは

2022-01-22 11:04:17 | 日記

 朝食を摂りながらテレビを見ていたら、情報バラエティー番組で代替肉のことを話題にしていた。地球上に人間が増えすぎ、食料が足りなくなって来た上に、畜産によって肉を得るという方法が、地球に優しくないという説明をしていた。穀類をそのまま食べるのに比べ、それを家畜に食べさせて肉を得るとなると、そのまま食べるのに比べ数十倍も穀類を必要とする。おまけに、家畜から出るメタンガスが、地球温暖化にも寄与してしまっているから、今以上に畜産を盛んにするわけにも行かない。そこで、大豆を加工して、肉そっくりのものを作ろうというわけである。

 番組で紹介された人は、「地球を終わらせないために」をメッセージに掲げ、温暖化防止と人類の食糧難を解決するため、少しでも関われたらと言う。番組では、素晴らしい取り組みですねとキャスターが持ち上げていたが、ことはそう簡単じゃないんじゃないかと、僕は眉に唾をつけて聞いていた。

 食糧難の問題も、地球温暖化も、喫緊の大問題である。それはなんとか解決しなければならない。が、そもそもどちらの問題も、人類が繁栄するために自らが行って来た行為の結果である。別の言い方をすれば、地球の歴史に逆らう形で、環境を人間の進化に合わせようとした結果である。

 例えば、プラスチックが発明された時、加工が簡単で大量生産ができ、腐らないということから「夢の素材」と呼ばれた。それにより社会は便利さと効率性が尊ばれ、使い捨てという楽ができる世界になった。ところが、腐らないということと、使い捨てができるということが、後の時代にどれほどの負荷を与えただろう。

 原子力発電にしても、石炭や石油に代わるクリーンエネルギーとして期待されて来た。が、クリーンどころか、その扱いのために、必要以上の面倒を抱えることになってしまっているのである。

 戦争にしたって、自分の国を滅ぼそうと思って始める指導者はいない。日本だってドイツだって、国民を窮地から救うために始めたことである。しかしながら、いつだって正反対の結果しか生んで来なかった。

 将来に希望を持つために人類は次から次にテクノロジーの力を借りて現状を打破して来たつもりでいる。が、人間の知恵くらいでは新たな問題を生み出すのが関の山である 「代替肉」は、人類の目の前の危機を回避させるかもしれない。とはいうものの、原材料を粉砕し、化学添加物を加えて成形し、完成させた自然界には存在しなかった食品を、これから人類が大量に摂取することを思うと、そう簡単には夢を託すというわけには行かないのである。そうして市場に出回るようになる加工食品がどうやって作られるか、おそらく企業秘密として公になることはないだろうから。

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