おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

大晦日、走り納め

2018-12-31 12:29:46 | 福島

 どうしても食っちゃ寝になるお正月休みは、体を動かそうにも雪が積もったりして、ツルツル滑るのでその辺を歩いて来るくらいしかない。スキーやスケートといったウインタースポーツは、お金も時間もかかるし、冬山登山はよほどテンションが高くないと行動には移せない。

 日陰では凍結しているところもあるが、日の当たるところは大丈夫そうなので、朝飯を食った後、阿武隈川の土手を走ることにした。大晦日だし、あんまり頑張って走っても、後が大変なのでとりあえず15キロくらいを目標にしよう。雪の残っているところは歩き、凍っていそうなところは慎重に通過するので、休み休みのランニングだ。当初の目的地までやってきたが、まだ体力があるのであと5キロ延長することにした。

 公園になっているところで休憩し、そこから折り返そうとしていたら、むこうから走って来る人がいる。犬と朝の散歩をしていると、いつも走っている近所の人ではないか。言葉は交わしたことはないが、頭くらいは下げているので、声をかけた。

「どのくらい走っているんですか」と聞いてきたので、「今日は20キロくらいですかね」と答えると、「ほお、なかなかですね」と言う。 
「どのくらい走ってるんですか」と聞き返すと、「この先の東北新幹線が交わるところまで」と言うが、そこがどこかわからない僕は、生返事だ。ただ、かなりの距離を走っているのは見当がつく。相手は僕の返事がモヤモヤしているのを感じたのだろう。「今年は364日走りました。走るのが好きでね」と、改めてそのすごさを強調してくれた。

 そこで分かれたが、ここで折り返してはその人の背中を追いかけることになってしまうので、もう少し頑張ることにして、あと5キロ追加で走ることにした。結果、ヘロヘロになり、ようやく家に帰り着いたが、大晦日に体力を使い果たしたことに、ちょっとだけ満足したのだった。

 さて、我が家では様々なことがあった一年であったが、来年はどうなるのだろう。とにかく、一年間に感謝して年を越すことにする。

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冬の朝の足跡

2018-12-30 10:58:33 | 福島

 昨日は昼過ぎには数センチの積雪となり、午後からこの冬初めてとなる雪かきをした。このまま降り続くと、明日はかなりの積雪量になるなと心配していたが、夜にはすっかり止んでしまった。

 休みの今日は、いつもよりだいぶ遅い時間に目を覚ましたので、すっかり明るくなってから散歩に出た。

 雪はたいしたことはないが、路面は凍りついているので、長靴に簡易アイゼンを装着して出発する。登山用のアイゼンと違い、ホームセンターで1000円くらいで売っているゴム製の安物だが、裏についている金属の鋲のおかげで、凍った道路でもまったく滑らないスグレモノなのだ。

 猪苗代湖からの雪雲を遮ってくれている1000メートル級の山々。山は低いけれど、いつも雪をたっぷり乗せている。右端の三角が額取山。左の高いところが大将旗山。その左の低くなっているコルの箇所が御霊櫃峠。ここを出発点に額取山までトトと1回、タミちゃんと1回、そしてドリとトトとタミちゃんとで大将旗山まで1回歩いている。ドリにとっては、最初で最後の自分の足で登った山だ。

 東北の里山は、針葉樹と落葉樹が混じり合い、あちこちから魚の小骨みたいな葉っぱを落とした枝が突き出している。そんな林を弱々しいオレンジ色の太陽光線が照らしているのを見ると、僕はいつでも「ああ、東北だなあ」と感じる。

 足元を見ると、雪の上に小さな野鳥の足跡が残っていた。大きさからするとセキレイの足跡だろうか。途中で方向を変えて引き返しているのは、ここで引き返さなければならない理由があったに違いない。雪が降ると、足跡がたくさん残され、こんなに野生動物がいるのかと驚かされる。普段まったく姿を見せないウサギの足跡は、畑や民家の庭先など、いたるところにある。藪の中から出てきた足跡が、道路をまっすぐに伸び、再び藪に消えている。足跡の大きさから見るとタヌキかなと思う。

 そんな中、小さな足跡を見つけた。前足は開き気味に、後ろ足は内股気味の足跡は、よく見ると小さな爪跡まで残っている。手の感じと大きさからリスかなと見当をつけて家に帰ると、早速図鑑で調べてみた。図鑑にあったのはイラストだったが、どうやら間違いなくリスの足跡のようだ。

 

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積もり始める

2018-12-29 09:44:39 | 福島

 朝起きたら、ちらほらと雪が舞い始めていた。道路はうっすらと白くなり始めてはいたが、このくらいではお昼には溶けてしまうかもしれない。

 普段より遅い時間にカメラを持って散歩に出たが、今日からお正月休みに入っている人が多いので、あたりは静まり返っている。雪のせいか、野鳥の姿も見かけない。

 小降りだった雪も次第に激しくなって来る。ニットの帽子にもあっという間に雪が積もり、メガネはスキーのゴーグルのように雪まみれだ。

 この栗の木では、この冬何度もリスを見かけている。今日もいるかなと少しだけ期待していたが、出てきてはいないようだ。

 昨日までは凍っていなかった溜池もすっかり雪で覆われている。カワセミやカルガモが住処にしている溜池も、冬の間は静まり返っている。

 用水路沿いの道を歩いていると、生い茂った葦の中からカサコソと音が聞こえてきた。足を止め耳をすますと、小さな動物が草を分け歩いている足音がする。音の大きさからすると、野鳥の足音やリスといった小動物ではなさそうだ。ハクビシンかタヌキくらいの大きさはありそうな気がする。音はすぐ近くから聞こえて来るので、しばらく草の間を注視して姿を確認しようとしたが、足音はゆっくりと奥の方へと移動していった。

 雪は家に帰るとますます激しさを増し、道路もすっかり白くなってしまった。今日は大掃除をしようとしているのだが、こう寒いと億劫になる。おまけに午後は買い物に行きたいが、積雪があると道路が渋滞するので、これまたテンションが下がるのである。

 

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仕事納め

2018-12-28 14:56:56 | 福島

 今日でカフェも2018年の営業を終了する。今日から大寒波がやって来ると大雪に警戒していたが、時々粉雪が舞う程度で積雪は心配なさそうだ。と言っても、氷のように冷たい強風が吹き荒れ、青空は見えているものの嵐のようだ。

 今年はドリの病気に始まり、春にはトト、秋にはドリが逝ってしまった。なんだか辛い戌年になってしまったのだった。テレビでは今年の重大ニュースが流れているが、我が家のニュースはこのことをおいて他にはない。

 明日から冬休みに突入するが、犬たちがいないのでスノーシューに出かける気になれないでいる。しばらくは何をやっても思い出してしまうだろうから。

 毎年年末年始は、大量におでんを作っておき、食って飲んで寝てを繰り返す怠惰な正月を過ごす。が、まだ材料を買ってきてないので、明日には買い出しに行かなくてはならない。大掃除もまだ手付かずだし、休みに入るからといって、のんびりもしてられないのだ。

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不寛容な社会

2018-12-27 11:49:04 | 日記

 若い頃はとんがっていたけど、歳を取ってきたらあの人も丸くなった、とは昔からよく言われた言い回しだが、近頃はどうもそうでもなくなってきているようだ。切れる老人が増えたというニュースも流れるくらいだから、ただ単に老人の数が増えたというだけの話ではなさそうだ。うちのオヤジも脳梗塞と脳溢血を併発した後、ちょっとしたことで怒りがこみ上げてくるようだった。おそらくどこか脳が損傷して、それまで理性で抑えていたものが、おかしくなってしまったのだろう。

 今年の健康診断も、地元の集会所で老人たちに混ざって診察を受けたが、中に職員にいつまでも難癖をつけている老人がいて、なかなか行列が進まないということもあった。どうやら最近は、若い頃はおとなしくてどこにいるかわからないような人だったけど、歳を取ってきたらとんがってしまった、と言わなければならない。

 子供の頃は汽車に乗ると駅弁を食べるのを何よりの楽しみにしていたが、近頃はタコ焼きや肉まんなどを食べると、たちまち匂いが気になってイライラすると苦情が来るそうである。飛行機で食べる空弁などは、匂いのしないように調理してあるというが、そのうちきっと公共の場で弁当を食べる行為自体が、禁止されてしまうだろう。

 子供の声がうるさいからと保育所が近くにできるのを嫌がる大人、店員にからむクレーマーなど、ちょっとしたことでイライラする人間が増えたのは、社会構造だの環境だのに原因があるというよりも、脳を損傷しているんじゃないかと僕は疑っている。脳梗塞などの直接的に脳に損傷を受けなくても、添加剤たっぷりの食事を取り続けた結果、化学物質が脳にダメージを与えているということだってあり得るのではなかろうか。

 僕は人を評価するのに、「機嫌がいいか悪いか」という基準で判断するようにしている。いくら立派な肩書きを持とうが、立派な仕事をしていようが、機嫌が悪い人にはそれだけで近づきたくはない。歳を取ったら丸くなる、というのが長い歴史の中で生まれた本来の人類の知恵なのである。

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存在感

2018-12-26 11:50:30 | 日記

 もし、ある日どこか外国のえらい王様とか女王様みたいな立場の人が来る、といったようなことになったらどうするだろう。食事を出してもてなさなければならないし、会話もしなければならない。お酒を飲んだ後には一緒に音楽やダンスを楽しまなきゃならない、なんてことになったら、一体誰が応対するだろう。

 これが家庭レベルなら、「とうちゃんが相手をするに決まってるじゃないか」とみんなで押しつけるだろうし、町レベルなら「町長さん、あんたが代表してやってくだされ」ということになるだろう。が、普段からそんな教育も受けていなければマナーも身につけていない人間に、そんなことを任せるのは無理難題だというのは誰もが感じるだろう。

 では国レベルなら誰が応対するか。「日本のトップだから総理大臣だろう」という人もいるかもしれないが、政治のプロではあっても、文学や音楽の知識もなければ、立ち振る舞いのマナーも身につけているとは限らない。ごり押しするのは得意でも、相手が気持ちよくなるように接待する力は持っていないかもしれない。と考えると、結局のところ何事かがあれば天皇様にご登場願うしかないということになる。世の中にはすぐに天皇制がどうのとか、万世一系だとか、政治や宗教で考える人が多いが、それ以前に外国の偉い人がやってきた時に、安倍さんだとか麻生さんだとか、菅さんだとか鳩山さんみたいな人が応対すると考えると、ちょっと恥ずかしい。

 もし、自分の家族に外国語に堪能で、礼儀作法を身につけ、学芸の素養も持っている人物がいるとしたら、それはとても心強いことだろう。どんな時でも前に出てもらえれば、堂々と応接してくれるのだから。

 天皇誕生日に、記者会見でお言葉を述べられていたが、若い頃からずっと日本と日本国民のためだけに教育を受けられ、自分のことを後回しにしている人がいる、という事実だけで、日本人はどれだけその存在に安心していられるか、改めて考えさせられたのだった。

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クリスマスの犬

2018-12-25 11:28:15 | 福島

 平成最後の天皇誕生日が日曜日と重なり、タミちゃんの仕事が三連休になったので、この休みを利用して写真の整理をしてもらった。犬たちが生きていた時には、僕とは違い犬の写真をメインに撮っていたので、犬の写真が大量にある。その中から2匹が一緒に写った写真ばかりを集めてもらったのだ。

 トトとドリは、初めて会った時にはお互いが牙をむいて吠えまくり、決して仲良くなるようなそぶりは見せなかったが、昔の写真を見るとかなり早い時期に仲良くなったのがわかる。数ヶ月もすると同じ毛布を使って寝たり、家の中でレスリングを始めたりしていた。

 久しぶりにそんな写真をまとめて見たが、見ているうちに自然と笑顔になっている自分に気づいた。死んでもなお、人間に与える犬の力を今更ながら感じざるを得ないのである。

 写真の中には、以前のクリスマスの様子が写っているものがあった。生前は犬たちに幸せになってもらいたいと考えていたが、どうやら幸せにしてもらっていたのは人間の方だったようだ。

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ガス欠

2018-12-24 14:52:24 | 福島

 今夜はクリスマスイブだ。イブというと、世間では前夜祭と勘違いする人もいて、イブに前日という意味があると思っていたりする。そのせいで23日のことをクリスマスイブイブと、わけのわからないことを言い出す人もいるが、冷静に考えればクリスマスイブのイブとは、イブニングの略、すなわちクリスマスの夜ということに気づくはずだ。クリスマスとは、本来24日の夕方から25日にかけてを指しているのであって、サンタクロースは25日の未明に来るし、25日は朝から教会に行くのが普通である。

 というようなことを人に喋ると、「えっ、そうだったの」と驚く人が多いので、改めて書いておくことにする。間違ってもイブに前日なんて意味はないのである。

 で、今夜がクリマスになるのだが、いいオッサンで純粋な日本人でもある僕は、クリスマスには無縁なので、ケーキを買ってきたり、パーティーの準備をしたりする用事がない。午前中、買い物に行って来ると、午後はいつもの休日同様、走りに行くのである。

 今年は積雪がなく、冬になっても走れる日が多いが、今日は青空は見えるもののあいにく強風に雪が舞う一日となっている。河川敷に出ると、立っているのも難しいくらいの横殴りの風と雪に、時々立ち止まってやり過ごさなければならない。それでも1時間ほど頑張って走り続けていたが、今朝からどうもお腹が張って調子が悪く、走っていてもオナラが出て困る。プップクプー、プップクプーと出したくもないのに、足の動きに合わせ、勝手に肛門がリズムをとっているようだ。

 まあ、風も強いし、誰もいないしと構わずに走っていたら、そのうちガス欠気味になってきた。車ならガス欠になるとエンジンが止まるが、僕の場合はガス欠になると次は具材が「こんにちわ」と顔を出しそうな気配になってきた。

 やばい、走ると出そうだし、歩くといつまでも家にたどり着けないし、で、ジレンマに襲われながらなんとか我が家のトイレまでたどり着いたのであった。

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そこにあるもの

2018-12-23 11:46:49 | 福島

 今朝はいつもより30分遅く散歩に出る。というのも、写真を撮るにはある程度明るくなっていたほうが綺麗な写真が撮れるからだ。特にリスや野鳥などの小動物は、暗いとシルエットがかろうじてわかるくらいで、後で見ると何が写っているのかよくわからないということが多い。しかしながら、カメラを用意して張り切って出かけたものの、霧が出ていて遅く出た意味がなかった。

 なんだか野鳥のさえずりもたいして聞こえず、何度か目撃したリスも、今日は留守のようだ。それでも、冬枯れの里山の写真を何枚か撮ってみる。散歩コースはだいたい同じなので、同じ場所で同じ構図で何枚撮ったかしれないが、それでも何か新たな発見があるんじゃないかと期待する。

 この前から、人間は神様じゃないんだから新たに何かを生み出すことはできない、ただ当たり前に目の前にあるものに気づくことができるだけだ、というのを座右の銘のようにして頭の中で大事に抱えこんでいる。たとえ見慣れた風景でも、何か見落としていることがあるんじゃないか、あまりに当たり前に目の前にありすぎて、かえって見えなくなっているものがあるんじゃないか、と考えていると、今までと周囲のものがひと味もふた味も違って見えてくる。

 田舎の人で「ここには何もない」という言い方をする人がいるが、僕はその「何も」の中に、商店だのレジャー施設だの観光地だのしか含まれていないのが気に入らない。山があり川があり海があり、様々な生き物や植物があるにも関わらず、それでも「何もない」というのは、どういうことなのか。

 確かに僕たちには、自分の見たいものしか見ないという特性がある。が、時にはそれが僕らの目をくらまし、世の中をつまらないものにしてしまっていることがある、ということにも気づく必要がある。

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まっすぐな道

2018-12-22 12:18:58 | 山頭火を描く

 山頭火の第2弾を描く。当初、「あの雲がおとした雨にぬれてゐる」という句を絵にしようと頑張っていたが、どうしても雨雲がうまく描けない。雨雲というのは、雨を降らせていなければ雨雲ではないが、それだと雲自体は見えないことが多い。遠くにあり、ああ、あそこは雨だなと思わせてくれる雲というのは、案外難しいのだ。仕方がないので、雲を描くのを諦めた。

 さて、絵は完成したものの、これに合う句を探すため、絵を前にして一句一句並べては絵と比べて見る。すると、面白いことに俳句が絵の方向を決め、それまでなかった情緒が絵に生まれてしまう。

 例えば、完成した下の絵に「炎天をいただいて乞ひ歩く」という句を添えると、隠れるところのない夏の野を感じさせるし、「どうしようもないわたしが歩いている」と添えると、悶々とした空気が漂い始める。

 で、いろいろ検討した結果、今回は「まつすぐな道でさみしい」という句を選ぶことにした。何を感じるかは、見る人に任せよう。

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