おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

見ることと描くこと

2018-08-31 13:13:54 | イラスト

 絵を描き始めて以来、ずっと横長のサイズで描き続けてきた。花瓶に入った花や椅子に座った人物を描くのなら縦長の画面の方が収まりはいいだろうが、風景を主に描いていたこともあり、頑なに横長の画面にこだわっていた。たとえ、縦長の方が収まりがいいのがわかっていても、勉強のためだと思い、なんとか横長の画面で構成を考えた。

 が、いつの間にか自分の中でパターン化されてきているのを感じているので、今度は風景を描くには難しい縦長の画面で描いてみることにした。風景を縦長の画面に収めるということは、横の広がりを犠牲にして、地面や空といった部分の割合が多くなる。というわけで、コスモスと古民家、それから以前描いた鳥居とタチアオイの絵を新たに縦画面で描き直してみた。

 僕たちが花や風景を見て、ああキレイだなと感じるとき、雌しべや萼の形状にまで観察が及んでいるわけではない。風光明媚な景色を前にしても、そこにどんな木が植わっているか、どんな種類の岩があるかなど気にしてはいない。つまりは、ぼんやりと大まかな全体として捉えている。

 ところが、これが絵を描くとなると、そうはいかなくなる。自分が描いているものが何なのか、どういう形をしているのか、はっきりさせないことには不安になる。観ている人だって、何だかわけのわからないものがグチャグチャッと描いてあると、一体何が描いてあるんだろうと気になる。実際の自然の風景を見るときと、絵画を見る時というのは、全然別の見方をしているとも言えるのである。

 グチャグチャッとしていて、何が描いてあるかわからなくても平気でいられるようになるには、絵を描く側からすればかなりの大胆さが必要になるということだろう。省略して描くというのは、簡単そうに見えてこれがなかなかうまくいかない。

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無口な作品

2018-08-30 12:57:03 | 福島

 福島県立美術館で、安西水丸さんの展覧会を観た後、ネットで水丸さんの本を探したら、Coyoteという雑誌に特集されていた。この雑誌は確か旅行がメインで、アラスカを旅した写真家の星野道夫さんなどは何度か特集されている。水丸さんも確かに旅行記は出してはいるが、冒険とはほど遠い大人の旅行なので違和感はあったが、特集記事を読みたかったので注文しておいた。

 昨日届いたので、昨夜は酒を飲みながらページをめくっていたが、美術館で観た感動は戻っては来ない。美術館に飾られていた絵とではまったく大きさが違っているのだから、そういうこともあるだろうとも思うが、美術館では最小限の説明しかないのに比べ、雑誌では至れり尽くせりの解説文が紙面を埋めていることが、かえって素直に感動できなくなっているのかもしれない。

 単純に絵とは何、と言えば、僕はどのくらいの色をどこに配置するかで決まってしまうと思っている。テーマや思惑がどうあろうと、色の量と置く場所を間違えれば台無しになる。これには、「そんなに簡単なことじゃないだろう」という反論もあるかもしれないが、例えば音楽や書道で考えればわかりやすい。音楽とは突き詰めれば、どの音をどの長さでどの高さに配置するかで決まっている。それを間違えれば、本人は爽やかな夏の朝をイメージした音楽を目指したと言いながら、たったひとつの音が、不気味で不穏な嵐の夜のようなメロディーにしてしまうかもしれない。書にしても、究極的には墨をどの分量、どこに置くかで決まる。それを間違えれば、いくらお手本通り書いたと言い張っても、失敗しているのは一目瞭然だ。

 どんなに解説しようと、失敗した作品は良くはならない。だから、昔から「作品は作品に語らせろ」と言う。が、この本当の意味は、高級な作品にしろ低級な作品にしろ、目の前にある作品は黙して語らないということだ。人は作品の前で、説明するためにあるいは納得するために、いろいろと言葉を探す。頭の中は言葉にならない言葉で溢れる。ついには作品を鑑賞するのを諦め、どこかにうまい説明がないかキョロキョロと探し始める。

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きっかけ

2018-08-29 10:47:57 | 日記

 若い頃というのは、僕もいっぱしの若者ぶって、それなりに悩んだりふさぎこんでいることがあった。人間関係や仕事のことで落ち込むというよりも、いつも自分自身の実力のなさや才能のなさ、根気や根性のなさに嫌気がさし、自分自身にうんざりしていた。

 オッサンになった今では、いちいち自分のことでふさぎこんだりはしない。年相応に図太くなったと言えなくもないが、本当のところは落ちこもうが自信に満ちようが、それで自分が立派になったりつまらない人間になったりしているわけでないことを知っているからだ。僕の好きな哲学者のアランさんによれば、気分が滅入るのは同じ姿勢を続けていたりするせいで、空想が自分を変なところに導いているにすぎない。そんな時は、さっさと立ち上がって体操をするのがいい、と悩んでいる人にとっては身も蓋もない助言をしている。

 しかしながら、これは真実である。人は落ち込んでいたり悩んでいたりするときほど、体を動かしたくはないものだから、その効果のほどを実感できない。もし、強制的にでも外に出て、畑仕事をするなりランニングするなりして、たっぷりの汗をかくなら、さっきまでの気分は嘘のように吹き飛んでいる。いかに自分が些細なことでクヨクヨしていたかが、バカバカしいほどハッキリする。人の一生には、生きるのが嫌になるほどのできごとは、そうそう身に降りかかるわけではないと思えば、体は軽くなる。

 図書館で借りた池内紀さんの「旅の食卓」を読んでいたら、こんな話があった。池内さんと知人のデザイナーとその知り合いの若い娘さんと三人で甲府で山登りをしたときのこと、用水路の縁に腰掛け水面を眺めていたら、水底でキラキラ光るものがある。甲州と言えばかつては砂金が採れたところだと、オッサン二人はパンツ姿になり水に潜ると、持っていたタオルでせっせと水底をさらった。結果、小指の爪ほどの砂金が採れた。同行の若い女性がこの後日本をあとにし、ブラジルに移住する予定になっているというので、砂金を餞別代りに進呈した。

 半年ばかりして池内さんのところに、ブラジルから手紙が来た。実はあの当時、公私ともにいろんなことがあって人生に絶望しており、日本を逃げ出そうとしていた。そんなとき、オッサン二人が水潜りに熱中する姿を見て、なんだか希望が湧いたという。

 きっかけなんて、どこに転がっているか、誰にもわからない。

 

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それぞれの流儀

2018-08-28 11:32:18 | 福島

 夕べ、NHKの「仕事の流儀」で栗林慧さんが取り上げられていたので、見るともなくチャンネルを変えると、栗林さんという人にすっかり釘付けになってしまった。昆虫写真家としてはあちこちの番組でも紹介されているし、世界的な賞ももらっている人なのでかなりの有名人だとは思うが、おそらく有名なのは自作の虫の目カメラで撮った、臨場感あふれる写真作品で、栗林さんという人がどういう人なのかというのは案外知られていないだろう。

 僕が去年一年かけて描いた里山探検隊のシリーズも、登場人物たちが虫の大きさになって里山をうろつくということで言えば、虫の目カメラと同じ発想である。カメラは自作するしかなかったろうが、絵ならば空想を働かせれば描くことができる。遠からず栗林さんからはインスピレーションを得ているとも言えるだろう。

 で、その人となりは昨日の番組で初めて知ったが、現在79歳で現役、毎日生涯最高の一枚を撮るために地べたを這い回っているということで言えば、スーパーボランティアの尾畠さんとそのバイタリティーで重なるところがある。栗林さんの昆虫との出会いは、小学生の時に死んだ父親との思い出にある。父の死後、一家は長崎を離れ東京に引っ越すが、そこで田舎者としていじめに遭う。栗林さんにとって友達は荒川河川敷の昆虫しかいなかった。が、ある日昆虫の知識が豊富にあることが同級生にわかり、それ以来いじめられることはなくなり、将来は好きな昆虫の写真家になると決心する。

 そんな栗林さんにとっての昆虫とは、古い友達だと言う。朝は起きるとすぐに育てている昆虫の観察、日中は好きな虫が現れるのを待つ間、草むらでうたた寝をする。家に帰るのは腹が減ったとき。その姿は、植物写真家の埴沙萠(はにしゃぼう)さんと同じだ。命の大切さや尊さを訴える人は多い。が、それはあくまで主張であって、身をもって実践していると感じさせる人というのは案外少ない。

 若い人が画一化して行くと感じるこの頃、ジイさんたちの中には、実に面白い骨太な人たちが、それぞれの流儀でこの世を謳歌しているのである。

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美術展

2018-08-27 14:17:15 | 福島

 昨夜、押入れの中から引っ張り出してきたタコ焼き機で、タコ焼きを作った。何年も使っていなかったので、しっかり油を引いたつもりでも、すっかり焦げ付いてしまい、うまくできるようになる頃には粉もなくなり、腹もいっぱいになった。でも、お店のものよりも具だくさんなタコ焼きは、それこそ頬っぺたが落ちるくらい美味かった。

 と喜んでいたら、今日はお腹が緩く、トイレを出たり入ったりしている。

 せっかくの休みで、ランニングに出たいのだが、トイレの心配もあるし、朝から断続的に雨も降っているしで、お昼には中止することにした。その代わり、駐車場の看板や杭が腐ってきていたので、昨日のうちに白いペンキを塗り、今日は雨の止んだのを見計らって設置してきた。さあ、あとはビールでも飲んでひっくり返ってようかなと思っていたら、ふと今週は郡山駅前のビッグアイ6階で、「第21回ふくしま平和美術展」があることを思い出した。明日は作品の搬入日ではないか。こうしてはいられない。展覧会に持って行く絵を額装して、書類も書かなきゃならない。ああ、危ない。もう少しで忘れているところだった。

 出品するのは、この春に三春の美術展にも出したトトとの山登りを描いた「荒野へ」、もうひとつはドリと一緒に木陰で休む「栗の木」。会期は8月29日(水)〜9月2日(日)なので、近くで暇な人は足を運んでもらいたい。

「荒野へ」

「栗の木」

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水丸さんの展覧会

2018-08-26 16:34:23 | 福島

 今日はカフェを臨時休業して、福島県立美術館までイラストレーターの安西水丸さんの展覧会を観に行った。水丸さんは2014年に死んだので、本格的な回顧展は今回が初めてじゃないだろうか。というか、友人であった嵐山光三郎さんや村上春樹さんが死んでしまったら、水丸さん自体、いまのように話題に取り上げてもらえるかどうかは怪しくなる。

 僕が水丸さんを知ったのは、1980年に出た「青の時代」という漫画によってだ。箱入り製本の立派な本で、確か当時で3000円くらいしたと思う。今現在手元に残っていないので、引越しを繰り返すうちに友人に譲ったような気がするが、今ネットで買おうとすると2万円近くする。もう2度と読むことはないかなと思っていたが、今回展覧会を観に行くと、原画があったりしてもう一度読み返したくなった。

 「青の時代」は、デザイナーだった水丸さんが、イラストレーターとして世に出る前に月刊誌「ガロ」に描いた漫画で、東京青山生まれの水丸さんが、体が弱く母の実家があった房総半島の先っちょの千倉で暮らした期間の話をもとにしたものだ。母親と姉妹の間で育った水丸さんが、漁村のたくましい同級生たちの間で、親しく付き合えたとは到底思えない。水丸さんが描く千倉の風景は、いつだって乾いて寂しげだ。そんな水丸さんの原風景を見てみたくて、学生時代千倉まで行ったことがある。今からもう35年も前の話だ。

 というようなことを書くと、水丸さんを知らない人は暗い絵を想像するかもしれないので、展覧会のポスターをアップしておく。ああ、そういう絵なら観たことあるという人は多いだろう。

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子供は哲学者

2018-08-25 12:06:12 | 福島

 図書館に行って本を借りてきた。最近ずっと読み続けている池内紀さんのエッセイから「旅の食卓」。旅先がいつも有名な観光地ではないので、食べ物にしたって有名なものではなく、その地方地方に根付くマイナーな食べ物について書いてあるんじゃないかと期待して借りてきた。ほかにはアルセニーエフの「デルスウ・ウザーラ」を読んで以来、樺太やカムチャッカに興味が湧いたので、岡田昇さんの「カムチャッカ探検記」と、哲学の論理学のコーナーを漁っていて見つけた「おもしろパラドックス」。

 で、すぐに「おもしろパラドックス」をパラパラ目を通していたら、すでに知っている有名なパラドックスがいくつか目に止まった。例えば、中国の思想家荘子の逸話「胡蝶の夢」は、こんなお話だ。ある日荘子は蝶になった夢を見た。夢を見ながら「今自分は蝶になっている夢を見ているんだな」と自覚している。本当は自分は人間なんだということもわかっている。と、そこで目が覚めた。そこには横になって寝ている自分がいたが、はたとわからなくなった。自分は「蝶になった夢を見た人間」なのか、それとも「人間になった夢を見ている蝶」なのか。

 ほかにも、「アキレスと亀」の話も紹介されている。これは先に出発した亀にアキレスはどんなに早く走っても追いつけないという話だ。つまり、亀に追いつくためには、亀との距離を走らなければならないが、その距離を走った時には亀は少しだけ前に移動している。アキレスはその距離を詰めるために走り続けるが、亀のいた場所までくると、その時間分亀は前に移動している。というわけで、どこまで行ってもアキレスは追いつけない。

 同じような話に、高校の数学の時間に的に向かって射った矢は、絶対に的に到達しないというのがあった。これは弓と的の間の距離の半分まで矢が到達した時のことを考えると、次はそこから的までの半分の距離というのが存在する。結局いつまでも矢と的には半分の距離というのが存在するため、矢は的まで届かないという話だ。

 これは当然、論理の世界なので、実際に矢が的に届くことは経験的に知っている。が、こういう理屈を並べられると、う〜んとうなってしまう。数学的には確か級数というので簡単に解決できるようなことを言っていたと思うが、そんなことはすっかり忘れてしまった。

 それよりも、小さい頃の僕は、このアキレスや弓矢のようなことを実践し続けていた。バナナやチーズやチョコレートなど、滅多に口にできないオヤツを食べるときは、常に半分残すようにしたのだ。これは子供心に自分は天才だと思った。バナナを半分かじる。次にその半分をかじる。その次にはまたまたその半分をかじる。つまりはバナナは永遠に半分を残して存在することになる。

 というわけで、大好きなオヤツが出た時には、親から意地汚いとか卑しいと言われながらも、毎回この天才的な理論を実践していた。当然、一度として成功しなかった。もし成功していたら、僕はいまだにバナナを半分ずつかじり続けていることになる。

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弔電を打つ

2018-08-24 12:01:28 | 福島

 二週連続で喪服をクリーリングに出した。またすぐ使うことがあるかもしれないから、「少し様子を見てからクリーニング屋に持って行くか」なんて冗談を言っていたら、瓢箪から駒で、今週も親戚のお葬式の話が飛び込んで来た。が、今回は葬儀が横浜のため、妹に代表して行ってもらうことにし、僕は弔電とご霊前で勘弁してもらうことにした。

 哲学者のアランさんが、著作の中で礼儀や儀式の重要さについて説いているが、若い頃の僕は上っ面ばかりで心のこもらない礼儀や儀式になんの価値があるのかと思っていた。それ以上に、心がこもっていれば、形式に囚われる必要なんてないとうそぶいていた。

 若い頃は格式張った席に出ることが少ないので、大口を叩くこともできたが、歳をとって来るとそうは簡単にいかなくなる。例えば、葬式にしたって、故人との付き合いの深浅で態度を変えるわけでない。となると、心がこもっているとかこもっていないとかは、本人にしかわからない心の問題となる。もし、冠婚葬祭の席で儀礼が決まっていなければ、その都度僕たちはオロオロ、アタフタ大変な目に遭うはずである。

 儀礼がきちんと決まっていてくれるおかげで、僕らは自分が失礼な真似をしているんじゃないかとか、見当違いな振る舞いをしているんじゃないかということから免れる。そう考えると、礼儀や儀式、マナーや慣習と言ったものが、僕たちをあやふやな存在から連れ出し、何者かにしてくれる。そういうことで言えば、制服もまた同じような効果を持つだろう。

 最近は個性や自由の尊重から制服を嫌がる風潮もあるが、実は制服が僕たちに及ぼす心理的肉体的影響は無視できない。ナチスドイツが人気だったのは当時の人に制服がオシャレに映っていたということが大きいし、炎天下で立ちっぱなしの警備員や警察官も、制服を着ていなければとても職務を遂行できないだろう。もし、新幹線の運転士や飛行機のパイロットがTシャツにジャージ姿だったら、僕らは到底安心して身を委ねることはできない。

 一昨日たまたま見たドラマで、強面のヤクザが警察官を前にした途端観念するシーンがあった。警察官が背広を着たオヤジだったら、ヤクザだって「なんだてめえ」と抵抗するだろうなとぼんやりと思ったが、形式というのは実は多大な影響力を僕らに与えているのである。

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巨大入道雲現る

2018-08-23 11:22:18 | 福島

 台風が接近しているせいか、馬鹿みたいに暑い。お盆をすぎて秋の気配がなんてことを言っていたら、台風が秋を吹き飛ばし、猛暑を連れて来た。

 サウナ風呂のような蒸し暑い大気の中、夕方の散歩に出ると、目の前に巨大入道雲が出現していた。慌ててカメラを取りに家に帰る。

 今年の夏は猛暑にもかかわらず、意外に入道雲はできなかった。入道雲が出現するには湿度も関係しているのかもしれない。それにしても、今年一番の巨大入道雲に蒸し暑さも忘れ、テンションが上がる。

 カラスも怪しげな雲の姿に驚いているのか、口を閉じるのを忘れているようだ。

 入道雲は車のガラスにも写り込み、まるで怪獣映画に出てくる怪獣みたいなのだ。

 ドリもテンションが上がったのだろう。児童公園まで来ると、草の上にゴロリと倒れ、得意の「ドリの舞」を披露し始めた。散歩から帰って来た時、飯を食った後、ドリは嬉しさが頂点に達するとなにやらモドカシイのか、ジタバタする癖がある。

「ねえねえ、ボクの華麗なる舞姿、ちゃんと見てくれた」

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なぜ四人集まるとうるさくなるのか

2018-08-22 10:58:36 | 日記

 新幹線に乗っていて、団体客と同じ車両になり、まるで我が家でおしゃべりしているような大音量にうんざりすることがある。普段からよほどのおしゃべりなんだろうと思ってしまうが、ことはそう簡単ではなさそうだ。

 カフェの中には、「四人以上のお客様はお断りさせていただきます」と張り紙をしているところもあるが、同じようにカフェをやり始めて、この意味がよくわかった。静かにコーヒーを飲み、音楽に耳を傾けてもらったり、本を読んだりして過ごして欲しいというオーナーの意図などは、四人以上になるとまるっきり伝わらなくなってしまうのである。

 同じ人でも、ひとりやふたりで来店する時には静かだとしても、三人四人と人が増えるに従って音量は上がる。で、このことを考えてみると、例えば電車に乗っている時を想像するとわかりやすいが、ひとり乗車している時は、「社会」とは同じ車両に乗り合わせている人たちのことで、「私」はその「社会」と向き合うことになる。ふたりで乗車した時には、「私たち」が「社会」と向き合うことになる。この場合は常に「社会」の中で自分がどう見られているかという意識が働くが、四人で乗車している場合は、「私」にとって意識しなければならない「社会」とは、「私」を除く残りの三人のことになり、同じく乗り合わせている人たちは消滅してしまうのだ。

 これと同じような状況というのは、学校が「社会」のすべてである子供に、「世の中に出ればいろんなことがあるから」と言ったところで通用しないのは、学校以外に意識すべき社会が存在しないからである。家族や狭い地域に縛られた考えしかできなくなっている人も、同じことである。

 僕らは「社会」だの「世の中」だのという言葉を簡単に使っているが、そうした場所がどこを指すのかは案外注意していない。ある瞬間に意識が切り替わると、僕らは見知らぬ人たちと同じ車両に乗り合わせていることに気づく。電車の窓の外には、無数の人たちが生活する社会があることを意識する。僕たちが意識するしないにかかわらず、僕たちの周囲にはいつだって広い世界がある。

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