紫紺のやかた

紫紺のやかた

中学校の同期会で傘寿を祝いました

2023-11-03 09:43:27 | 回想
 逗子中学校の第10期(昭和34年・1959年3月卒業)の同期会である有志鷹取会を11月2日(木)魚佐次ビル5階の「逗子の海畑marche太陽」で行った。参加者は男子5名、女子4名で昨年より2名増えた。13時から14時半までビールで乾杯の後、予約していた「地魚刺身5種(イシガキダイ・ブリ・クロムツ・メダイ・カンパチ)と地野菜の天ぷら盛ランチ」を口に入れながら歓談となった。

 この同期会は明大卒のY.S.君ら仕事の関係で出会っていた4名が昭和58年・1983年に、皆40歳になったので、仕事で忙しいとは思うが女性も家事からそろそろ解放される年になったので逗子中の同期会をしようということになって、参加できそうな人に声をかけて「鷹取会」と名づけ第1回から第4回を数人で開催したことに始まるという。その後H.A.君が昭和62年5月に100名程の名簿を作成して案内を出し第5回を中華街華正樓で開催し、私はこの時案内が来て初めて参加している。
 逗子中卒業後30年経って沼間中学校が開校したのでそれまで沼間小を卒業すると逗子中に進学が基本だった。旧沼間神武寺トンネル(拡張前)はまだ無く、通学路が神武寺の山越えの生徒も多かった。
                卒業当時の逗子中学校校舎 

 山一つ隔てた場所に昭和30年開校の県立逗子高校(女子高)があり、私の卒業時1年前から男子も受け入れるようになり鷹取会メンバーで逗子高校に進学した者もいた。この逗子高校は今年3月末で無くなり、同じ県立の逗葉高校と一緒になり4月より逗葉高校の地で県立逗子葉山高校となった。

 仕事で忙しく毎年1回の鷹取会にはなかなか参加できなかったが、第10回の平成4年・1992年6月に塔ノ沢 環翠楼での一泊鷹取会は参加し思い出に残っている。環翠楼は昔箱根駅伝の際に明治大学の学生の定宿だったそうで宿で働く女性の方たちは紫紺の前掛けをして明大の学生を応援したという。宿の広間には一時私が暗記していた陶淵明の漢詩「帰去来辞」の額が掲げてあり、故人となってしまったが葉山に住んだ明大卒のT.N.先輩と後日ここに泊まって一緒に朗詠できればと長年思っていた。
         31年前の塔ノ沢 環翠楼での鷹取会
(左から1番目が会長だったY.T.君・2番目が久里浜の例会場主K.H.君) 

 この鷹取会も平成26年・2014年の例会の際に長年勤めたY.T.会長他幹事からこれを最後にしたいとの申し出があったがK.S.君、H.A.君に私と女性2名が新たに幹事となって2020年の東京オリンピックまでは続けることになった。第30回の令和元年・2020年10月開催した時に東京オリンピック迄との申し合わせで(1年延期になったが)これまでの幹事さんに感謝して終了となった。しかしやはり同期で会いたいという人もいて、生徒会長だった多摩市から参加のN.N.君の後押しもあって令和2年から毎年11月有志鷹取会と名前を変えて行なっている。昨年は久里浜の定例会場主のK.H.君の体調不良で場所を逗子に移したが、その後11月末にK.H.君の訃報が届き、今年はK.H.君を偲ぶ話と同期の者の消息および参加者の80歳の傘寿を祝うこととなった。

 歓談の中でテレビ放映されていた牧野富太郎の弟子が大谷茂校長だったこともあり神武寺山が羊歯の宝庫である話が出て、私からはやはり逗子中といえば神武寺が連想されるので薬師如来を本尊とする天台宗のこの寺の境内に薬師草の花を昔見た話をしている。また逗子駅周辺にあった旅館8か所程、映画館4か所、本屋4か所など記載の古い商店街マップが配布され見て昔を思い出したり、また有志鷹取会でも参加常連のH.A.君から逗子中校歌と作曲家信時潔の話が出たのでこの機会に触れておきたい。

 グーグルやヤフー検索で『あまねし平和』と入れるだけで逗子中学校校歌が出てくるのは意外と知られていません。
  • 海はひたす 半島の緑 富士はそびゆ なぎさのかなた 太平洋の 波音聞けば 世界と共に あまねし平和 われ等 若き世代なり 誇れ逗子中
  • 友はしたし 信愛の天地 雲よ風よ 花さくところ 自由は広し 身も健やかに 祖国の朝へ 輝く知性 われ等 若き世代なり 競え逗子中
 作詞:土岐善麿(哀果)、作曲:信時潔(のぶとききよし)。土岐の父は僧侶で信時の父は牧師だったそうで、この二人は一緒に多くの学校の校歌を作っていた。
 土岐は早大卒で若山牧水や北原白秋と同級で、読売新聞社会部長の任にあった1917年(大正6年)、東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝徒歩競走」を企画し、大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっているそうです。箱根駅伝が1920年(大正9年)に読売新聞主催でスタートし途中戦中戦後5回中止となったが来年は100回目を迎える。
 信時は幼い時から讃美歌に親しみ東京音楽学校に入り留学から帰国後に教授、山田耕筰とは作風、経歴、戦後の処し方も異なるが同世代の作曲家でした。山田耕筰はご存じ明治大学校歌の作曲者で、信時潔は慶應義塾塾歌を作曲していますが明治大学とは縁がなかったようです。信時は万葉の長歌から選んで「海ゆかば」を作曲していますが、この歌は戦時中準国歌と言われ、同じ歌詞で早稲田大学校歌を作曲した雅楽の家に生まれた東儀鉄笛(とうぎてってき)も別の「海ゆかば」を作曲し軍艦マーチの一部に使用されていると聞いていますがどの部分か知りません。

 そういえば戦後GHQ(連合軍総司令部)の指令により、暫く「日の丸」掲揚が全面禁止となり「君が代」の国歌も日本政府が音楽教科書から自主的に削除した後に作詞:土岐善麿、作曲:信時潔で「われらの日本」という「君が代」に代わる歌を作り何年か前の先輩は学校で歌ったそうです。この人たちの中には戦前「君が代」を2番まで歌った人もいました。私が逗子小学校に入ったときは横須賀市立逗子小学校で既に「われらの日本」を歌う時代は過ぎていました。また3年先輩までは入学時逗子町立逗子中学でしたが逗子は1954年に市となり来年は市制70周年を迎えます。

 逗子は横須賀海軍関係者が多く住んでいたことと、大戦時日本周辺に敷設された数万個の機雷を除去する必要から、戦後旧海軍軍人達による機雷掃海による航路啓開業務の必要性から海軍の多くの人は指揮官をふくめ職を失うことなくそのまま残りその後の海上保安庁に引き継がれました。私の中学校の頃は「丸」という日本海軍の軍艦を記した雑誌があったり、他の雑誌記載の小松崎茂の戦艦イラストにワクワクした時代でした。

 会場の「太陽」を出て、そのまま帰った者、二次会を「珠屋」組と「レモン」組に分かれましたが、レモン組は飲み足りない者5名で17時頃まで歓談となった。背の曲がった者2名、杖利用2名いて、私は背が曲がって1年前から杖利用の身ですが数年前より同じ状態の同期が参加しているので暫くは私も大丈夫かなと思います。(yoo)


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
多摩市諏訪在住 (平戸幹夫)
2024-04-08 19:10:55
生徒会長だった鈴木伸生の訪問を得たことがある。小生は当時仕事の関係で八王子市初沢町にいました。
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多摩市諏訪在住 (平戸幹夫)
2024-04-08 19:11:59
生徒会長だった鈴木伸生の訪問を得たことがある。小生は当時仕事の関係で八王子市初沢町にいました。
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訂正 (平戸幹夫)
2024-04-11 10:30:48
鈴木伸生君の姓が変更のようです。
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