紫紺のやかた

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孫のハーフバースデー

2023-08-31 22:05:02 | 日記
     孫のお食い初めを5月21日に行い、早3か月弱経過し、今月ハーフバースデーをめでたく迎えた。今、若い世代では、生後半年をハーフバースデーと言って、お祝いするそうだ。
 祖父として、何をしようかと考えたが、娘の幼児時代に子供用のピアノがあったことを思い出した。
 誰がプレゼントしたのか覚えていないが、どちらかの祖父母の誰かかと思っている。
 ピアノ演奏を身近で聴いていた娘は、見よう見まねでピアノを弾いていた。その後、知人の先生にレッスンをお願いした。3歳で、ピアノ発表会に出た。
 この思い出により、娘の子供ピアノと同じ大手ピアノメーカK社の子供用ピアノを購入して、お祝い品にした。
 まだお座りもできないが、手を添えてピアノの鍵盤を押させた。音を聴いて少し驚いている様子だった。
 育休を推進すべく、政府、自治体等が政策の立案、実行しているが、子育ての現場は大変だとそばで見ているとよくわかる。
 小職は、現役時代は営業職で、夜は仕事の接待、プライベートな付き合いで外食するのがほとんど毎日だった。自宅に居る時間は、極少で子育ては、妻に任せきりだった。子育てに参戦したのは、子供が歩きだしてからで、一番大変な時期を過ぎてからだが、さほどやった覚えはない。
ある休みの日に娘から『パパは、今度いつ来るの?』と言われる始末だった。何か、平安時代の妻訪婚(つまといこん:夫が妻の家に通ってくる婚姻形態。)の様相を呈していた。妻に大変なご苦労をさせてしまい、謝っても、『今更、何をか言わんや?』である。
   例え、当時、育休制度があっても、なんだかんだと理由を言ってやっていなかったと思う。なぜならば『営業とは、酒を飲むことと見つけたり!』を信条にやってきたからだ。男の身勝手な論理である。
 2月中旬に、病院を退院し、私の自宅に来てからは、孫中心の生活のサイクルが始まった。家族の子育て支援が始まった。慢性の腰痛、体の固い私のできることは、限られている。洗濯、食器洗い、ゴミ出し、買い物補助、野菜つくり、家族の早朝、夜間の時間帯の自宅と駅までの送迎が役割である。オムツ交換、入浴などはできないがソファー、イスに座っての抱っこは、何とかできるようになった。日に日に成長して行く孫の姿を見るのは、嬉しく思い、楽しい気持ちになる。
 こうした気持ちを長く持ち続けて行くために、健康に留意し、少しでも体力を維持していくことが肝要かと思うこの頃である。
               以上 tko


8月最後の日、早朝杖散歩で逗子海岸に行ってきました

2023-08-31 20:26:58 | 日記
 今年は毎年恒例としていた8月最後の日曜日の逗子海岸海水浴場視察を行わなかった。私が猛暑で行かなかったのをあまり口にするので、気にした妻が、昨日それなら明日の8月最後の日に早朝散歩で行きなさいという。
 今日5時に目が覚めたのでやや風もあり早朝なら汗もかかないだろうと思い逗子海岸に杖散歩で行くことにした。散歩コースは予め決めたことは無いが、結果的に下記コースで行って帰ってきた。

 亀ケ岡八幡宮から市役所前の踏切を渡って、清水橋手前を右折、川沿いを真っ直ぐ歩いて仲町橋ベンチで小休憩、対岸橋の袂の芙蓉の残花を見て、逗子教会横を通って同じく川沿いに田越橋まで出て、桜山トンネルにいく幹線道路を横切り更に川沿いを杖散歩。5時半前は通勤の人はまだ少なく、犬の散歩か足の運動で出てきた付添い老人に会うだけ。
 猛暑でこの時期草木の観察も限られ田越橋までは枯れた葉を落とした桜やエノキの橙色の実が目に付いたりランタナやホウセンカの花が目に付いた。驚いたことに終わってしまったと思っていた百日紅(サルスベリ)の花が再び咲いていた。早朝の涼しさで息を吹き返したのか夾竹桃の赤やピンクの花も見られた。六代御前先から富士見橋までは道路が狭いので車に気をつけながらも田越川の護岸工事の状況を視察。富士見橋を渡って渚マリーナの横から工事中の(塗装工事か)渚橋の下を通って逗子海岸に出た。途中護岸に生えたセンダンが楕円形の実を多く付けていた。

 少し風もあって小波が立っていたが、天気も良く江ノ島から茅ケ崎方面と富士山や伊豆半島も見えた。ただ海水温が高いためかややぼんやりの感じだった。ここからは鐙摺葉山港の赤い灯台は見えても逗子市浄化管理センターの建物の影になってラマレードチャヤや葉山港管理事務所の茶色の建物及び当然葉山マリーナの建物も見えない。
 反対側の浪子不動の高養寺の建物は良く見える。逗子に移り住んだ小学校低学年の頃はこの前で潮の引いた後の磯遊びをしたがまだ高養寺の建物はなく海岸道路も無かった。1953(昭和28年)年に葉山堀内にあった慶増院の建物を移築したということで今年丁度70年経つ。歴史的に名前の由来は尽力の有った高橋是清と犬養毅 両者の名を取ったということは郷土史関係者にはよく知られている。小坪仏乗院から逗子延命寺そして池子東昌寺の管理と変わったが、明大校友会初代支部長だったH.O.夫妻に私の夫婦と高養寺眞田有快住職(当時磯子金蔵院副住職でもあった)と歓談したことなど記憶が蘇ってくる。海中に建つ徳富蘇峰の筆による「不如帰」の記念碑は1933年(昭和8年)に出来たのでこれも今年90年経つ。

 海岸散歩は波打ち際の硬いところを歩くのが一般的だが、海の家視察もあり砂浜散歩だった。海中のスプラッシュウォーターパークの入場受付建物の左に葭簀(よしず)の海の家「利休」があり幸い早々に準備していた。良くここのお婆さんとは昔の話をしたものだったがここ3~4年会っていなかったので息子さん?に聞いたところ2年前に亡くなったとのことだった。葭簀の海の家は座る台が子供や老人向けにやや低くなっているのが特徴でまず商売というより止めたくないという思いで海の家を開いていると思う。話では建物用の丸太が無くて困ると言っていた。現在葭簀の海の家は海岸中央近くに「わたや」がありここはまだ誰も来ていなかった。名前の判らない葭簀の海の家が1軒あったが昨年はなかったように思う。白豊旅館や養神亭別館など昔は多くの葭簀の海の家があったことなど頭をよぎる。本業の旅館が無くなった後も海の家だけあった時もあった。
 ところどころの海の家の前で休み休み海岸中央に来た時には朝のラジオ体操も終わって皆帰った後だった。海水浴は暑さの中で涼を求めてくる場所なので、幸い逗子は台風被害が無くどこの海の家も多くの客で賑わったようだった。事件らしきものも無く平穏な海水浴期間で終われそうな感じを受けた。逗子海岸海水浴場の期間は9月3日(日)までなので、この期間は9時から17時まで犬を連れて浜には入れない。
 海に入っている人は1人だけを確認したが、やは早朝で海の家もほとんど閉まっていて会話はあまり出来なかった。海岸中央から海岸通り・八幡通りを真っ直ぐ歩いて帰ってきたが途中家の前の大きな植木鉢に水をかけていたお年寄りもいて立話もしている。珊瑚樹が真っ赤な実を付け、又暑さで葉を殆ど落としたカリンが多くの大きな実だけ横に付けていたのを見たりして帰ってきた。万歩計は4500歩程だった。時間の割に歩みが遅いので万歩計も進まないのかなと思う。(yoo)  

昨日は8月最後の日曜日だったが海岸に行かなかった

2023-08-28 14:53:15 | 日記
 昨日8月27日は8月最後の日曜日だった。逗子が海水浴の町であることから毎年8月最後の日曜日は決まって逗子海岸の海の家の状況視察を兼ねて散歩に行っている。海水浴客の様子や海の家の人と会話してその年の賑わいなど確認するのが恒例となっていた。これは少し雨が降っていても欠かしていなかった。地元住民として“今はもう秋 誰もいない海”の直前の海岸風景を見納めしたい感傷にかられたためでもあった。
 今年は猛暑で熱中症になるのを避けて散歩を控えて万歩計も1日1000歩を切った日が続いていた。昨日はやはり午後3~4時の間には海岸に行かなくてはとの思いがあったが、例年の海水浴の終わりを感じさせる状況にはないと思ったりしていて結局海岸には行かなかった。
 毎日日中は家で新聞、テレビを見る生活で、朝や夕方は庭の植木鉢や庭木に水を撒くことが仕事になっている。神社の木々の葉が落ちるので外の掃除もある。町内会が逗子市の公園里親となっているので亀井児童公園のボランティア掃除も早々と7月と8月はお休みとしたが、今年は公園の百日紅(さるすべり)の花も赤い色の勢いを感じないまま終わってしまった。
 我が家の宗旦木槿(むくげ)の花も蕾を2~3個残しているだけで終わりを迎えている。隣に植えてある芙蓉(ふよう)は猛暑の中今年は多くの花を付けた。まだ10個以上蕾が付いているので9月初旬までは花を見れるだろう。木槿と芙蓉は俳句の季語は初秋で芙蓉の方が後迄咲くので秋をより感じさせる。共に樹木であるが芙蓉は漢字で草冠の字になっているのを昔不思議に思って調べたことを思い出す。中国では芙蓉は蓮(はす)のことを指し蓮なら木ではなく草で納得。また日本で言う芙蓉は中国では木芙蓉(もくふよう)と言うそうです。朝白い花を付け夕方赤色になって終わる1日花の酔芙蓉(すいふよう)という木もあり、散歩中出会った記憶がない。しかし2~3年前鎌倉二の鳥居傍の鎌倉彫店近くの歩道に植えてあったのを見た。夕方海水用客がゴムサンダル姿で逗子駅方面に帰ってくるハイビスカスの絵柄のカラフルなシャツなども昔は暑さが去る風情を感じたものだったが、最近は白地が多いのは残念に思う。(yoo)

夏野菜に異変が起きた!大きなナスの葉が出現 (続編)

2023-08-20 21:47:50 | 野菜つくり
 毎日、花が咲いた部位を毎日観察していた。写真の通り、ナスの実が10cm位になった。いわゆる〇〇ナスではなかった。


このナスは自分で種を蒔いて育苗したもので、小さな苗ポットに長く放置したので、植え替えるまでの時間が長かったので、生育に時間がかかっていて、これは失敗作かと思っていたが、見事、実がなって来た。ポットに長いことおいていたので、ストレスが、相当溜まっていて、プランタに植え代えてから思い切って成長を加速させたものと思われる。同じ生産ロットのナスの成育状況を見たら、やはりものすごく大きい葉をつけていた。
 順次、ビッグサイズのナスの収穫が見込まれるのが、今から楽しみにしている。
       以上  2023.08.20
                    tko        

薄らぎかけた記憶❹

2023-08-14 11:14:07 | 追憶
  頃は太平洋戦争末期 S20年広島市に8月6日・長崎市に8月9日原爆が投下された日であった。悲惨な状況が今もって語り継がれ、なお世界にその時の状況を投げかけている。また丁度明日が「8月15日」終戦記念日にあたる。それに「沖縄慰霊の日(6月23日)」を加え「忘れてはならない4つの日」(宮内庁ホームページより)とされている。我々世代人は複雑な思いでいっぱいであろう。
 
 さて、この投稿は最後となったがカテゴリ「追憶」等へ振り返ることになる。一つ気になったことがある。それは現場勤務をしていた時四季を通じてヘルメットの着用で(そのせいかどうか解らないないが)中年以降私の頭の髪の毛が薄くなってしまった。これも遺伝や体質であろうと残念でならない。
 以後私の勤め人生活は「不動産事業部」に転身してから職種も変わり工事現場を預かる立場から技術営業の職種に変わり必要に迫られ「宅建」の資格も取得した。引き続き業務活動も軌道に乗り激動の時代15余年を段階ごとに無事部長職で乗り切るに至った。建設業は複雑な業種で常に技術を伴った経済的立場で携わる任務に立たされた。若かりし頃叔父の背を見ながら仕事をしていた時おぼろげながら自分の将来の進路を決める切っ掛けとなったのはこの頃ではなかったかとフト感じたことがある。
 多数の物件が抱えていた些細な諸事情も工事期間を経て新しい姿となり、代金引き換え と同時にすべての任務が終わる。個々物件の工事期間中の経緯は記憶に留めるに値しない。今から思い起こすに毎日が緊張の連続であった。終盤別に「不動産会社立ち上げ」との二足草鞋を履いていたがこの企業も今は立派に軌道に乗り営業活動を営んでいる。
 私は70才の声を聴く頃になった時この緊張した技術の世界を離れ、少し自分の時間を持ちたいと思うようになった。そしてお断りを申しわが勤め人生活にピリオドを打ちフリーとなったのでした。

 さて話題は変わり少し美談になるが最後に特筆すべき事項があった。私がサラリーマン生活にピリオドを打った頃ある事実を知りえたのでした。それは明大出身の女子都市計画建築家「M・S女史」の存在であった。ここで取り上げるのはおこがましいと思ったが、私と同姓でしかも同じ明治大学工学部建築工学科卒が何かの因果を感じざるを得なかったのでした。女史は私とは12~13才後輩にあたり建築工学科の歴史と存在を世に知らしめていると思った。現在も現役で会社経営の傍ら東大大学院の非常勤講師をも歴任し学問の世界を愛を持って地方都市の都市計画に取り組んでおられる。
 しかも建築学会賞や他の賞をも多々受賞されている。
 私が卒業後12~13年経た頃、女史は明大で学んでおられたと思うが、どの教授の下でどういった学び方をされていたか今更ながら興味の湧くところである。更に彼女を育て上げ世に送り出した教授陣に敬意を申し上げたい。正しくそこがスタート地点で以後は彼女の英知と努力の賜物なのでしょう。今後更なるご活躍を期待している次第です。
 
 また別件になるがM・S女子なる女史プロゴルファーも若くして近年彗星のごとく世に現れて活躍の場を得て昨年女子ゴルフツアー連続5回優勝を果たした。「尾崎ジャンボ」の門下生で以後海外にて活躍中であるが応援したいと思っている。女史プロゴルファーではあるが今後に期待の持てる悦材である。
 また私と偶然同姓で私が齧ったゴルフの縁の一寸した悪戯(いたずら)が何かの因果を齎(もたら)せたのかと感じざるを得ないのです。

 最後に余談ですが北海道在住の孫娘は4ヶ月間お産の為逗子親元に滞在していたが母子とも元気で赤ん坊の方は6.2kgと成長も著しく、時折わからない声を発し微笑み愛想を振り舞う迄成長していたが、いよいよ7月4日妻子を待つ夫のもとえ帰省していった。以後時々スマホで写真を送ってくるが両親に少しずつ似てきた愛らしい動きも愛おしい。当分会えないが今度会えた時は可愛さも一入な事だろう。

以上でこの追憶は終わりと致します。ご一読ありがとうございました。(ysa)