紫紺のやかた

紫紺のやかた

季節外れの高温で草木への影響を観察散歩して思う

2023-11-12 21:04:12 | 樹木観察散歩
 11月7日東京都心で最高気温が27,5度と11月としては100年振りに更新したというニュースがあった。今年は11月に入っても逗子文化プラザ地下駐車場前の家の夾竹桃の花やボランティア清掃をしている逗子郵便局前の亀井児童公園の百日紅の花もいまだ咲いている。この盛夏を代表する花に限らず、我が家の庭も毎年秋を感じさせる盗人萩や杜鵑(ほととぎす)は僅かに咲いただけで縞薄もお月見の時には茎も伸びず花を開いていなかった。木槿や芙蓉の花も10月終わりまで咲いていたが郁子(むべ)は実を付けず、何故か木通(あけび)が3個実を付けて色を濃くしている。
 亀岡八幡宮の銀杏は小さい木のみやっと葉が黄緑色になったばかりで。欅も少し赤みを帯びたが黒い実を付けた榎の葉はまだ緑のままだ。
 ブロック塀の木通の実

 11月8日立冬の日を迎え、この異常気象で樹木や野草の影響を観察しに妻と杖散歩で北鎌倉円覚寺に出かけた。風もなく暖かい良い天気の日だった。
 昨年11月に来た時には山門前の楓の紅葉が見事で多くの人が写真を撮っていた。今年は紅葉はまだで妙香池の周りの楓も緑色のままだった。ただ10月29日に行われた約60年振りの洪鐘祭(おおがねまつり)行事で使われた張子の洪鐘が展示されていたので見た。この国宝の洪鐘は江の島から勧進した弁財天をご神体として江島神社と円覚寺の弁財天が洪鐘祭で60年に一度出会うそうです。
 レプリカ(張子)の洪鐘

 宝物風入は3日~5日と終わった後だったが大方丈内に掲げてあった国の重要文化財の軸も見ている。中でも頭北面西で横たわる釈迦と四枯四栄の沙羅双樹で知られる「仏涅槃図」は釈迦が現在の私の年である80歳で亡くなる直前に、母親の摩耶夫人が天国から雲に乗って長寿の薬を持って見舞いに来る上段の箇所をじっくり見ました。薬袋は投げられ沙羅双樹の木に引っかかったという説があるそうです。摩耶夫人では 逗子に住んだ泉鏡花の養女で明大卒の泉名月さん宅を訪問した際に鏡花が傍に置いていたという厨子に入った摩耶夫人像の話を思い出す。
 鏡花が傍に置いた摩耶夫人像

 また大方丈裏で庭師が苔に水を撒いている場面と七五三の着物姿の3人の子供を母親?が写真に撮っているの情景に遭遇し、これらは昨年と大きな違いだった。

 そうは言っても目的の樹木と野草観察もしたので記しておきます。社務所入口からすぐ左手の桂昌庵(閻魔堂)前では赤い実をつけた棗(なつめ)か茱萸(ぐみ)のような木を見た。ついで隣の山野草で有名な松嶺院に入った。
 松嶺院は人の手が入って管理されている庭の雰囲気が強く植木鉢のムサシアブミの赤い実がすぐ目に入った。大きな植木鉢が多くあり変わった樹木も見たが地植えの花の盛りを過ぎた杜鵑(時鳥)が咲いていて名札のある野草は花も終わり枯れかかった葉を観察した。秋の暮れを思わせる雰囲気で藤袴の花や梅擬(うめもどき)の赤い実を見たりツワブキの蕾を見た後て石段の遍路みちを登った。途中ネリネの花を見て昨年男の庭師の方に教えてもらったことを思い出した。山頂の墓地入口の開高健の墓近くにある十月桜の花を見ると共に上から円覚寺境内を見下ろしている。坂本弁護士の墓でお参りした。亡くなった時に横浜弁護士会の会長だったⅯ.Y.女史は今も地元明大校友会会員で逗葉駿台会俳人の一人だった。また坂本堤弁護士は横高の十数期後輩であったこととⅯ.Y.女史のあと横浜弁護士会の会長になったのが横高の同級だったH.Y.君なので坂本弁護士というとすぐこの二人が頭に浮かぶ。随所で見られた野紺菊の葉脈も確認した。下の墓地に下る石段途中の崖に「拾翠巌佛」と記した江戸中期に作られた青銅の大日如来が据えられていて我が家の真言宗本尊でもあり、また“ひつじ・さる歳の守り本尊”と初めて知る説明書きに私も対象年なのでお賽銭を供えて傘寿まで生きられたことに感謝です。
 拾翠巌佛(青銅の大日如来)
 
 下の墓地から戻る途中に唐種招霊(からたねおがたま)の花がこの時期咲いていたので驚いたが、庭を管理されている女性の方から別名唐招霊(とうおがたま)のこの花はバナナの香りがしますと説明を受けた。嗅いでみたが判らなかったが考えてみると味わってもバナナの香りなど確認したことはなかった。妙香池の上の釈迦の歯が安置されている国宝舎利殿は3日早ければ拝観できたが入れず、奥の山野草で知られる黄梅院に入った。
 黄梅院は人の手を入れない雰囲気を保っている庭で、山を背にして地面に潤いがあり風当たりも少く日当たりもある場所で早春の草木観察も好きだが季節を通し風情がある。背の高い秋明菊や杜鵑はまだ花の見頃で、花をとうに過ぎた二人静がきれいな葉を残し、苔も瑞々しく縮笹(ちぢみざさ)も見られた。
千両・万両・実葛(さねかずら)・梅擬の赤い実や黄実千両、茶の木や椿の白い花や蝋梅の黒っぽい実も目にした。




 帰りに佛日庵で一服したがここでもネリネ花を見た。竜胆(りんどう)の花がちょうど見頃で、黄梅院や佛日庵では樹木と野草は異常気象の影響を受けていないように感じられた。

 
 北鎌倉駅改札前の「やま本きそば」で“盛りそば”を食べて帰ってきたが、3時間半ほどの杖散歩だった。八重咲の酔芙蓉の花もどこかで咲いているのを思い出したが芙蓉と違い開花時期が短い花として11月咲いているのは異常だった。(yoo)

中学校の同期会で傘寿を祝いました

2023-11-03 09:43:27 | 回想
 逗子中学校の第10期(昭和34年・1959年3月卒業)の同期会である有志鷹取会を11月2日(木)魚佐次ビル5階の「逗子の海畑marche太陽」で行った。参加者は男子5名、女子4名で昨年より2名増えた。13時から14時半までビールで乾杯の後、予約していた「地魚刺身5種(イシガキダイ・ブリ・クロムツ・メダイ・カンパチ)と地野菜の天ぷら盛ランチ」を口に入れながら歓談となった。

 この同期会は明大卒のY.S.君ら仕事の関係で出会っていた4名が昭和58年・1983年に、皆40歳になったので、仕事で忙しいとは思うが女性も家事からそろそろ解放される年になったので逗子中の同期会をしようということになって、参加できそうな人に声をかけて「鷹取会」と名づけ第1回から第4回を数人で開催したことに始まるという。その後H.A.君が昭和62年5月に100名程の名簿を作成して案内を出し第5回を中華街華正樓で開催し、私はこの時案内が来て初めて参加している。
 逗子中卒業後30年経って沼間中学校が開校したのでそれまで沼間小を卒業すると逗子中に進学が基本だった。旧沼間神武寺トンネル(拡張前)はまだ無く、通学路が神武寺の山越えの生徒も多かった。
                卒業当時の逗子中学校校舎 

 山一つ隔てた場所に昭和30年開校の県立逗子高校(女子高)があり、私の卒業時1年前から男子も受け入れるようになり鷹取会メンバーで逗子高校に進学した者もいた。この逗子高校は今年3月末で無くなり、同じ県立の逗葉高校と一緒になり4月より逗葉高校の地で県立逗子葉山高校となった。

 仕事で忙しく毎年1回の鷹取会にはなかなか参加できなかったが、第10回の平成4年・1992年6月に塔ノ沢 環翠楼での一泊鷹取会は参加し思い出に残っている。環翠楼は昔箱根駅伝の際に明治大学の学生の定宿だったそうで宿で働く女性の方たちは紫紺の前掛けをして明大の学生を応援したという。宿の広間には一時私が暗記していた陶淵明の漢詩「帰去来辞」の額が掲げてあり、故人となってしまったが葉山に住んだ明大卒のT.N.先輩と後日ここに泊まって一緒に朗詠できればと長年思っていた。
         31年前の塔ノ沢 環翠楼での鷹取会
(左から1番目が会長だったY.T.君・2番目が久里浜の例会場主K.H.君) 

 この鷹取会も平成26年・2014年の例会の際に長年勤めたY.T.会長他幹事からこれを最後にしたいとの申し出があったがK.S.君、H.A.君に私と女性2名が新たに幹事となって2020年の東京オリンピックまでは続けることになった。第30回の令和元年・2020年10月開催した時に東京オリンピック迄との申し合わせで(1年延期になったが)これまでの幹事さんに感謝して終了となった。しかしやはり同期で会いたいという人もいて、生徒会長だった多摩市から参加のN.N.君の後押しもあって令和2年から毎年11月有志鷹取会と名前を変えて行なっている。昨年は久里浜の定例会場主のK.H.君の体調不良で場所を逗子に移したが、その後11月末にK.H.君の訃報が届き、今年はK.H.君を偲ぶ話と同期の者の消息および参加者の80歳の傘寿を祝うこととなった。

 歓談の中でテレビ放映されていた牧野富太郎の弟子が大谷茂校長だったこともあり神武寺山が羊歯の宝庫である話が出て、私からはやはり逗子中といえば神武寺が連想されるので薬師如来を本尊とする天台宗のこの寺の境内に薬師草の花を昔見た話をしている。また逗子駅周辺にあった旅館8か所程、映画館4か所、本屋4か所など記載の古い商店街マップが配布され見て昔を思い出したり、また有志鷹取会でも参加常連のH.A.君から逗子中校歌と作曲家信時潔の話が出たのでこの機会に触れておきたい。

 グーグルやヤフー検索で『あまねし平和』と入れるだけで逗子中学校校歌が出てくるのは意外と知られていません。
  • 海はひたす 半島の緑 富士はそびゆ なぎさのかなた 太平洋の 波音聞けば 世界と共に あまねし平和 われ等 若き世代なり 誇れ逗子中
  • 友はしたし 信愛の天地 雲よ風よ 花さくところ 自由は広し 身も健やかに 祖国の朝へ 輝く知性 われ等 若き世代なり 競え逗子中
 作詞:土岐善麿(哀果)、作曲:信時潔(のぶとききよし)。土岐の父は僧侶で信時の父は牧師だったそうで、この二人は一緒に多くの学校の校歌を作っていた。
 土岐は早大卒で若山牧水や北原白秋と同級で、読売新聞社会部長の任にあった1917年(大正6年)、東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝徒歩競走」を企画し、大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっているそうです。箱根駅伝が1920年(大正9年)に読売新聞主催でスタートし途中戦中戦後5回中止となったが来年は100回目を迎える。
 信時は幼い時から讃美歌に親しみ東京音楽学校に入り留学から帰国後に教授、山田耕筰とは作風、経歴、戦後の処し方も異なるが同世代の作曲家でした。山田耕筰はご存じ明治大学校歌の作曲者で、信時潔は慶應義塾塾歌を作曲していますが明治大学とは縁がなかったようです。信時は万葉の長歌から選んで「海ゆかば」を作曲していますが、この歌は戦時中準国歌と言われ、同じ歌詞で早稲田大学校歌を作曲した雅楽の家に生まれた東儀鉄笛(とうぎてってき)も別の「海ゆかば」を作曲し軍艦マーチの一部に使用されていると聞いていますがどの部分か知りません。

 そういえば戦後GHQ(連合軍総司令部)の指令により、暫く「日の丸」掲揚が全面禁止となり「君が代」の国歌も日本政府が音楽教科書から自主的に削除した後に作詞:土岐善麿、作曲:信時潔で「われらの日本」という「君が代」に代わる歌を作り何年か前の先輩は学校で歌ったそうです。この人たちの中には戦前「君が代」を2番まで歌った人もいました。私が逗子小学校に入ったときは横須賀市立逗子小学校で既に「われらの日本」を歌う時代は過ぎていました。また3年先輩までは入学時逗子町立逗子中学でしたが逗子は1954年に市となり来年は市制70周年を迎えます。

 逗子は横須賀海軍関係者が多く住んでいたことと、大戦時日本周辺に敷設された数万個の機雷を除去する必要から、戦後旧海軍軍人達による機雷掃海による航路啓開業務の必要性から海軍の多くの人は指揮官をふくめ職を失うことなくそのまま残りその後の海上保安庁に引き継がれました。私の中学校の頃は「丸」という日本海軍の軍艦を記した雑誌があったり、他の雑誌記載の小松崎茂の戦艦イラストにワクワクした時代でした。

 会場の「太陽」を出て、そのまま帰った者、二次会を「珠屋」組と「レモン」組に分かれましたが、レモン組は飲み足りない者5名で17時頃まで歓談となった。背の曲がった者2名、杖利用2名いて、私は背が曲がって1年前から杖利用の身ですが数年前より同じ状態の同期が参加しているので暫くは私も大丈夫かなと思います。(yoo)