紫紺のやかた

紫紺のやかた

マリアンヌ・ウィルソン黒田さんの新聞記事を読んで

2021-04-12 16:49:48 | 回想
 今日は新聞の朝刊が休刊日だった。そのためではないが昨日4月11日(日)の読売新聞をじっくり読むことになった。1ページ目と32ページ全面に戦後の昭和24年に米国人の父とスウェーデン人の母との間に横浜で生まれたマリアンヌ・ウィルソン黒田さんの数奇な人生の記事があった。読売新聞 田辺里咲記者の記事です。読まれた方もいると思いますが、概略を述べてみます。
 父はマリアンヌさんが生まれる前に米国に戻りましたが、母はマリアンヌさんが生まれて1年後に病死したため養母に預けられました。母方の祖父がスウェーデンに戻る際、米国の父が戻って来るだろうとしてマリアンヌさんは日本に残されたのです。後で判ったことですが米国に戻った父は妻子と共に米国に住もうと考え国家承認を上院議員に訴えていて、手紙を母宛に出したのですがマリアンヌさんの養母が手元から離れていくのを恐れて焼いてしまったそうです。国際孤児となったマリアンヌさんが6歳の時、母の祖国スウェーデンが自国の孤児を日本に置いておけないとのことでマリアンヌさんの引き渡しを求める訴訟を起こしたのです。当時スウェーデンは児童に対する福祉に関しては強い関心と制度を持っていたためだと思います。スウェーデンに戻ることになったとはいえ、日本語しか話せないため当面日本に留まりインターナショナルスクールで語学を、大使館関係者の家でスウェーデンの生活様式を身に着けたのち、20歳の時にスウェーデンに渡り大学に進学したそうです。5年後日本にいる養母の体調悪化で日本に戻り、亡くなる前に先の父からの手紙の一件を養母から聞いたとのことです。

 ここまではこのブログ投稿の前置きの話で、マリアンヌさんは日本に留まり結婚して一児を設けましたが40歳の時、母の妹たちが母の眠る外人墓地にはるばるスウェーデンから訪れたのです。そして墓に花が手向けられているのを見て、マリアンヌさんが米国ではなく日本に居ることを察し、マリアンヌさんが墓地の管理人に託していた名刺から墓前で落ち合うことができたそうです。この時に祖父の母も日本人で、またその後祖母の母も日本人であることが判り自分には本当に日本人の血が入っていることを痛感したそうです。父も見つけられるのではと赤十字社等に調査依頼したマリアンヌさんはとうとう父が再婚して出来た異母弟を見つけ出し、父が生前日本に残したマリアンヌさんのことをいつも気にかけていたことを知らされたとのことです。マリアンヌさんは。現在71歳で葛飾区の外国人生活相談を員勤められているとのことです。

 この記事を読んで思い起こす出来事が頭に浮かんだ。25年程前になるが平成8年(1996年)の時、小学校を卒業して40年となるので記憶がまだかすかに残っている年齢でもあり同窓会をしようという話になった。同窓会と言えばやはり担任の先生の消息を知る必要があり、逗子小学校で5年と6年お世話になったS先生について調べることになった。ある同級生から昔確か家は佐島の方だったという情報が寄せられた。当時まだ個人情報がうるさい時期ではなかったので電話帳に名前と住所がかなり掲載され情報を得るための手段でもあったので、同姓のSさんに片っ端から電話を入れた。そして遠い親戚の方からS先生は佐島の専福寺に眠っているのを聞き出した。同窓4人で専福寺を訪ねS先生の墓を見つけ昭和46年12月15日没 60歳を確認した。遺族の方の住所連絡先は不明だった。寺で判っていても教えていただけなかったのかもしれない。その日、ご家族の方宛に連絡をお願いしたい旨の手紙を寺に託してきたが、同窓会の後だったと思うがS先生の娘さんがお墓参りに行かれた際にこの手紙を読まれ連絡をいただいた。奥様は健在で。田浦の娘夫妻の家で暮らしておられるとのことであった。
 テレビのヒューマンヒストリーを例にとっても昔から現在まで墓所や寺が人の縁をたどる場所であるのは変わらないと思う。同窓会は逗子海岸に面したJR逗子会館(今はない)だったが、この時遠くから来た同級生のため市政施行30周年を記念して作り替えた新市庁舎(昭和59年竣工)の屋上の記念タワーに上って逗子市内を見渡した記憶もまだかすかに残っている。(yoo)

桜の頃 ④

2021-04-01 12:00:00 | 写真館
 小田原方面に出かけたので、もう一足伸ばして、今は盛りの桜で満開を期待して「小田原城」と「入生田」を訪ねてみた。朝8:30頃出発し、小田原城の南口に近いパーキングに駐車し、お堀を渡って南門から歩き始めた。「小田原」は古代、中世、戦国時代、近世、江戸時代、近代、現代に至るも歴史の古い町である。「小田原城」はその中で15世紀中頃に築城されたのではないかとされているが不明である。多々の経緯を経てきたが、1870年一旦廃城になり、関東大震災により全壊となるも、1960年5月廃城以来90年ぶりに「天守閣」が構築され昭和46年以降「常盤木門」「銅門」「馬出門」が完成された。各所でお城と開花を撮影することができた。
お堀端の桜と白鷺                            城址内・案内板
 
 「常盤木門」への渡り橋と桜
 
 お堀端より「常盤木門」と桜を見る。
 
 天守閣前広場
    
   
 天守閣前広場                                 北側より  

 
 天守閣と桜
 
 愛らしい「ソメイヨシノ」
 城址内に併設されている「こどもの遊園地」にやってきた。 
                           (ysa)


桜の頃 ⑤

2021-04-01 12:00:00 | 写真館
 城址公園内には天守閣などの史跡がある。又「こどもの遊園地」併設があり、豆機関車と三両客車編成で敷かれた路線を走り、思う間もなくトンネルをくぐって始発兼終着駅の単線2周乗車であった。このほかに子供用のバッテリーカー(ゴーカート)などの遊具があり、子供たちに人気があるようでした。
  
   機関車:D52-72号車
  
   園内軌道
  

  
   客車とゴーカートと桜の花  さらに走るとトンネルに入る。
  
   きてき一声トンネルへ
  
   先頭機関車がトンネルより現れた。

 今回は「桜の頃」がテーマでしたので天守閣ほか歴史探訪は次回に持ち越しとしました。
                             (ysa)
 

桜の頃 ⑥

2021-04-01 12:00:00 | 写真館
 小原城の花見客が大勢になってきたので、場所を変え「入生田の枝垂桜」見物に最後の力を振り絞って挑戦した。ここ入生田には「長興山紹太寺」という由緒ある寺院がある。徳川家光の乳母である「春日局」も眠っている。この寺院の境内、裏山に樹齢300年・高さ13m・周囲5mの枝垂桜があり、「かながわ名木100選」に選定されている。寺院より1km坂道を登ったところ迄、途中休みながらの登坂となった。しかし、情報は得ていたものの当の「枝垂桜」はすでに時を逸し、7割が新緑と変貌していた。僅かに花びらがチラホラお目にかかれた程度で 花は待ってはくれなかった!
  
   長興山紹太寺 正面と桜
  
   当の枝垂桜であるがすでに新緑が始まっていた
  
   右の夏ミカンが名残をとどめていた。
  ここの現状は堪能できなかったものの、その面影をまだ残してくれていた。10年位前だったかカメラ友達とここを訪れたことがあった。その時は満開で見頃であったので、その時の記録を掲載してみた。
    

       
         この写真が10年前、当時のある晴れた日に撮影したものです。                                                  まさしく「入生田の枝垂桜」                                                                  
     (この写真はフィルム・ネガをスキャンしたものです)
 
 思い出と共にひと時を過ごし、下り坂1kmをゆっくりと帰途に就いた。
                             (ysa)
【入生田駅について】
 小田急が箱根湯本までを走らせ、一方箱根登山鉄道は強羅から小田原までを運転させ、互いに軌間の違った車両を3線軌条にし運転させる路線である。この3線軌条は小田原から箱根湯本間でのみである。「3線軌条」は軌間の異なった2つの種類の電車を走らせる線路の敷き方である。軌間の広い方(1435mm)の登山鉄道電車が、軌間の狭い方(1067mm)を小田急電車が走る。したがって3本レールの内1本は共用レールとなる。ダイヤ改正で小田原~箱根湯本間が全車両小田急車両の乗り入れとなった為、3線軌条は廃止となったが、登山電車の車庫が「入生田」にある為、入生田~箱根湯本間1.9kmは既存のまま3線軌条として使用されている。      (以上)