今日は新聞の朝刊が休刊日だった。そのためではないが昨日4月11日(日)の読売新聞をじっくり読むことになった。1ページ目と32ページ全面に戦後の昭和24年に米国人の父とスウェーデン人の母との間に横浜で生まれたマリアンヌ・ウィルソン黒田さんの数奇な人生の記事があった。読売新聞 田辺里咲記者の記事です。読まれた方もいると思いますが、概略を述べてみます。
父はマリアンヌさんが生まれる前に米国に戻りましたが、母はマリアンヌさんが生まれて1年後に病死したため養母に預けられました。母方の祖父がスウェーデンに戻る際、米国の父が戻って来るだろうとしてマリアンヌさんは日本に残されたのです。後で判ったことですが米国に戻った父は妻子と共に米国に住もうと考え国家承認を上院議員に訴えていて、手紙を母宛に出したのですがマリアンヌさんの養母が手元から離れていくのを恐れて焼いてしまったそうです。国際孤児となったマリアンヌさんが6歳の時、母の祖国スウェーデンが自国の孤児を日本に置いておけないとのことでマリアンヌさんの引き渡しを求める訴訟を起こしたのです。当時スウェーデンは児童に対する福祉に関しては強い関心と制度を持っていたためだと思います。スウェーデンに戻ることになったとはいえ、日本語しか話せないため当面日本に留まりインターナショナルスクールで語学を、大使館関係者の家でスウェーデンの生活様式を身に着けたのち、20歳の時にスウェーデンに渡り大学に進学したそうです。5年後日本にいる養母の体調悪化で日本に戻り、亡くなる前に先の父からの手紙の一件を養母から聞いたとのことです。
ここまではこのブログ投稿の前置きの話で、マリアンヌさんは日本に留まり結婚して一児を設けましたが40歳の時、母の妹たちが母の眠る外人墓地にはるばるスウェーデンから訪れたのです。そして墓に花が手向けられているのを見て、マリアンヌさんが米国ではなく日本に居ることを察し、マリアンヌさんが墓地の管理人に託していた名刺から墓前で落ち合うことができたそうです。この時に祖父の母も日本人で、またその後祖母の母も日本人であることが判り自分には本当に日本人の血が入っていることを痛感したそうです。父も見つけられるのではと赤十字社等に調査依頼したマリアンヌさんはとうとう父が再婚して出来た異母弟を見つけ出し、父が生前日本に残したマリアンヌさんのことをいつも気にかけていたことを知らされたとのことです。マリアンヌさんは。現在71歳で葛飾区の外国人生活相談を員勤められているとのことです。
この記事を読んで思い起こす出来事が頭に浮かんだ。25年程前になるが平成8年(1996年)の時、小学校を卒業して40年となるので記憶がまだかすかに残っている年齢でもあり同窓会をしようという話になった。同窓会と言えばやはり担任の先生の消息を知る必要があり、逗子小学校で5年と6年お世話になったS先生について調べることになった。ある同級生から昔確か家は佐島の方だったという情報が寄せられた。当時まだ個人情報がうるさい時期ではなかったので電話帳に名前と住所がかなり掲載され情報を得るための手段でもあったので、同姓のSさんに片っ端から電話を入れた。そして遠い親戚の方からS先生は佐島の専福寺に眠っているのを聞き出した。同窓4人で専福寺を訪ねS先生の墓を見つけ昭和46年12月15日没 60歳を確認した。遺族の方の住所連絡先は不明だった。寺で判っていても教えていただけなかったのかもしれない。その日、ご家族の方宛に連絡をお願いしたい旨の手紙を寺に託してきたが、同窓会の後だったと思うがS先生の娘さんがお墓参りに行かれた際にこの手紙を読まれ連絡をいただいた。奥様は健在で。田浦の娘夫妻の家で暮らしておられるとのことであった。
テレビのヒューマンヒストリーを例にとっても昔から現在まで墓所や寺が人の縁をたどる場所であるのは変わらないと思う。同窓会は逗子海岸に面したJR逗子会館(今はない)だったが、この時遠くから来た同級生のため市政施行30周年を記念して作り替えた新市庁舎(昭和59年竣工)の屋上の記念タワーに上って逗子市内を見渡した記憶もまだかすかに残っている。(yoo)