yooさんの1964年の東京五輪の投稿を読ませていただきまして、大変懐かしくなり、筆をとりました。あれから57年の歳月の経つのが早いものかと感じています。私は、当時中学2年生の14歳でした。ヨット会場になった江の島ヨットハーバーは江の島を波の浸食から防ぐ目的もあり、ヨットハーバーが建設されました。建設工事会社は、スーパゼネコンのS建設、浚渫工事(港湾土木)大手のT港湾(現 T建設)、中堅ゼネコンのN建設、地場工事業者さんが突貫工事で仕上げて行った。
岩場で浅い海底を掘る為に、頻繁にダイナマイトを仕掛け発破作業が行われていた。それが連日続き、多くの住民が耳について離れなかったようでした。
しかしながら、地元民にとって良かったことがありました。今では水洗トイレは当り前になっていますが、高度経済成長期の中、首都圏でもいち早く下水道が整備されて、水洗トイレが設置されました。外国の方々を迎えるにあたり”おもてなし”をしたものと思われます。
但し、水洗トイレ設置には、それなりの個人負担があり、経済的に苦しい家は、バキューム式含む汲み取り式を選ばざるを得なかったようで経済格差が認められました。水洗式だと定期的に汲み取りを依頼しなくて良いし、排便の匂いも防げるのは大きなメリットのようでした。
それから、勇気ある若者が、発破した後に気絶した魚が浮き上がってくるのを取りに行く姿が見られた。今、思うと発破に巻き込まれたら生命の危険にさらされてもおかしくない状況であった。
又、現在の駐車場、ヨット置き場を埋め立てする為に、海底の砂や岩をバキューム機械で運び込んだ際に、魚介類が跳ね上がってきたのを島民は目ざとく取りに来ていました。特に、高級品のアワビは、先を争って取りに行った。
先の東京五輪で五輪音頭が作曲されましたが、その替え歌ではないですが、三波晴夫さんのヨット音頭なるものがありました。今でもありますが江の島の入り口の左側にある噴水の周りを地元の有志が盆踊りを楽しんで、五輪を盛り上げていた。江の島ヨットハーバーの防波堤にも国立競技場と同じように聖火台が設けられていて、湾内を照らしていました。
57年後の東京五輪は、コロナ禍の中、賛否両論あったが、官民の協力で何とか開会式を迎えることができた。このまま進行して行くことが望まれるところであります。
次に今回五輪の開会式のパフォーマンスについて触れてみたいと思います。
開会式のパフォーマンスをみんな驚いたかと思います。その驚きは、おおまかに見て二つあったかと思います。
一つは夜空に咲いた地球儀で、二つは動くピクトグラムだったと思います。
前者は、1,800個のドローンを使い、それぞれに照明器具がセットされて、はじめは平面的な動きで、それは参加各国、地域、難民チームをイメージして、照明が灯されていたが、最後は、ドローンを立体的に動かして、地球儀に仕立てたものだった。
アイデアを出すのも大変だったと思うが、1,800個のドローンを動かすのは大変高度な技術が必要だと思います。その解決策は、コンピュータを使ったシステムを作成したものと推察されます。そのプログラム作成に相当な時間と労力がかけられたものと推察しました。空間に映像を映し出す技術は稀にみる技術で高い評価が与えられるものと考えます。確かに、何か媒体がないとできないものと薄々わかっていても、実際、やるとなると考えこんでしまう。
後者は、普段我々が、目にするピクトプログラムは固定していて動かないですが、今回は、二人で動くピクトプログラムを体現したもので、これも今まで見たことがないものでした。
ここでピクトプログラムに触れてみたいと思います。これは1964年の東京五輪で世界の人々が多く来るので、トイレ等施設を誰でもわかるようにした図柄を世界で初めて考案したもので、大変評価されるものであります。それを、今回の五輪で更に進化させることができた訳であります。これも、世界に誇れるものと考えます。
これらを考えた人たちの内一人が、身近な人でした。私の家族の友人の関係者がその中心人物でした。
その方は、高校時代、神奈川県内の高校で野球をやり、卒業後、美術大学のデザイン科で勉強された方でした。学生時代に起業され、大変ご苦労されましたが、今回の東京五輪に大いに貢献されて今後の更なるご活躍が期待されるところであります。 tko