紫紺のやかた

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一力 遼棋聖の囲碁世界大会優勝に思う

2024-09-09 23:21:51 | 回想
 囲碁の一力遼棋聖(天元・本因坊と合わせ三冠保持)が9月8日中国上海で行われた4年に1度の応氏杯世界選手権で中国の謝科九段に勝ち3連勝で優勝した記事が9日読売新聞夕刊一面に載っていた。世界大会で日本の棋士の優勝は19年振りとの事だった。
 碁を打たなくなってだいぶ経つが、地元校友会の囲碁クラブで稲門会との交流戦や三田会や白門会の方達と碁盤を囲んだことが頭に浮かんできた。


 コロナで久木の囲碁教室が休会となりその後再開もクラブ先輩が相次いで先立ってしまったためクラブが廃部になってしまった。

 囲碁は政治家や経済人の、また将棋は文化人の嗜みとのことで明治生まれの父から碁を教わって小さい頃から覚え、30代の頃は専門雑誌を毎月買ってかなり研究したことも思い出す。古本屋で昔の雑誌を見つければ入手したりしたこともあった。


 就職した会社の役員や管理職の人は年齢が20歳近くは離れていてかなり碁をする人がいたが、現在身近にいる私より10歳若い年代で囲碁をする人がいなくなってしまったのは残念に思う。
  
 なお新聞記事に一力さんの父親が仙台の新聞社河北新報社の社長をしていて本人も2020年に記者として入社したと添えられていた。この新聞社の名は東日本大震災の年に初めて知った名で、忘れかけていた記憶が蘇ってきた。
 逗子在住の宮城県女川出身の女性写真家Ⅿ.S.さんが女川の両親を写真店の建物ごと津波で失い父親に代わり被災した女川の子供たちを撮り続けているという河北新聞の記事紹介で、Ⅿ.S.さんに会いたくて河北新報社編集部に連絡を入れたこともあった。当時地元立教会主導で復興支援3大学グリークラブ チャリティーコンサートの準備中だった。一力さんの父親が確か立大卒だったと記憶している。
 昔鎌倉山の檑亭の庭に石の碁盤があるのを見て、誰か誘ってここで風流に酒を飲みながら碁を打ちたいと思ったこともあったが実現しなかった。逗子郵便局前の亀井児童公園の枯れてしまった藤棚の下の木のテーブルに今もステンレスで作った将棋盤が添えられているがここで将棋をしている人を見たことはない。(yoo)

喫煙者から受動喫煙者になって22年今思うこと!(その8)

2024-08-11 20:58:07 | 
 猛暑が続いていますが、皆様健康状態はいかがですか?水分補給、休養、栄養補給、運動、趣味活動をやられているかと思います。
 喘息、肺気腫の診断を下された医師から、詩吟や合唱など積極的に発声をすることを勧められた。
 それと前後して、市内の知人の誘いで、年末恒例の第九演奏会の合唱に誘われて、気楽に参加の意思を示してしまったが、医師の勧めもあり、やる気にスイッチが入った。すでに、初心者講習を結コミュニティーホールで2回受講した。初心者は、どうやら私だけであったようだ。高校の音楽の時間(55年ぶり)以来、何もしてこなかった。クラッシック音楽の楽譜を見て、まるで分らないことだらけで、都合の悪いことにドイツ語は、初めてで歌詞の読み方から始めた。大変なことに取り組んでしまったと思ったが、ドイツ在住のプロの方のネットでの講習を受けて、何とか読める(発音できる。)ようになった。あとはメロディーを覚え、遅れず、早からず合唱することと発声量を増やすことが必要だと思う。更にオーケストラやソリストとの兼ね合いを考慮し歌うことが重要になってくると思う。第九のパート別練習用CDを二種類購入して、練習をしている。12月まで練習、リハーサルが月1~2回あるので、おちこぼれないように努力して行きたい。
       2024.8.11       tko

尾道市にある生口島瀬戸田の新聞記事に思う

2024-08-11 17:20:11 | 回想
 今日8月11日(日)の読売新聞日曜版の「旅を旅して」に広島県尾道市にある生口島瀬戸田の記事が写真と共に掲載されていた。耕三寺の未来心の丘の写真は懐かしく記憶から蘇ってきた。
             右から2人目 故T.H.先輩

 夏は亡くなった人を思う時期でもあり、昨年1月に亡くなったT.H.先輩を思い出した。あれは17年前の2007年(平成19年)明治大学全国校友広島大会が開催された時に逗葉の地から13名が参加し、広島市内や倉敷そして山陽路を観光旅行したが、その際にT.H.さんの案内で“”しまなみ海道”をバスで旅し、T.H.さんの故郷瀬戸田の実家も訪ねたことが思い出された。



 
 新聞の記事に石井好子さんが1989年歌手として初めてこの島を訪れ、翌年ベルカットホールで「せとだパリ祭」を始めたことが記されていた。今年も7月15日に「せとだパリ祭」は開催され石井さんが島に残した遺産ははかりしれないと末尾に記していた。また石井好子さんはマスターズ水泳選手権大会(1987年台湾)で50m平泳ぎで新記録優勝されていたことも紹介がされていた。
 私が瀬戸田を訪れた時は石井さんのパリ祭や石井さんが水泳選手だったことも頭に無かった。ただ瀬戸田が平山郁夫画伯の生まれ故郷で蜜柑を栽培するT.H.さんのお兄さんのもてなしを受けたので暖かい果樹栽培に相応しい場所としての認識しか無かった。
 現在パリ・オリンピックが開催中なのでやはりフランスの新聞記事には目が行く。フランスのシャンソン歌手として石井好子さんや弟子の岸洋子さんや加藤登紀子さんは私の年代ではすぐ頭に浮かぶ名前です。かって明大クラスメイトのK.Y.君がフランス政府から農事功労章シュバリエを叙勲された時にお祝い会の案内状の発起人が石井好子さんだったように思う。パリ・オリンピックの開会式がセーヌ川で行われサン・ルイ島の名前が出てくれば逗葉地区のフランス菓子店と共にこの島に岸洋子さんが住んでいたことも記憶から蘇ってきた。岸洋子さん歌う「夜明けの歌」はカラオケ会で故K.B.女史が持ち歌にしていて広島大会でも倉敷の珈琲エルグレコで一緒に撮った写真が残っている。私も当時63歳で現在の腰が曲がった状態は想像できない。

 私と同年生まれの加藤登紀子さんはシャンソンコンクールで優勝して褒美にフランスを旅され帰国して待っていたのは、シャンソンではなく歌謡曲だったそうです。登紀子さんの歌は同年のよしみで以前はカラオケ会でよく披露したが最近は歌わなくなっているが昔聞いたドーナツ版のレコードは残っている。          (yoo) 

無くなった表具店の取り壊しに思う

2024-07-21 14:06:56 | 回想
 逗子市役所から逗子海岸方面への八幡通りにかって長谷川表具店があった。もう数十年店を閉めたままだったが、この7月に建物が取り壊されているのを見て昔の薄れかけた記憶が蘇ってきた。
 昭和50年代の中頃、家を新築した際に既に亡くなっていた母の位牌を納めていた古い仏壇も新しい仏壇に変えることにし高校の同級生の父親が経営する仏具店に依頼した。この部屋は居間兼仏間としたが当時お茶を習っていたので炉を切って茶室まがいの部屋でもあった。風炉と釜は繊維技術者だった父が岩手の工業試験所に行った際に南部鉄器の浅田薫山窯を訪ね依頼して入手したもので既にあった。
 風炉先は無かったのでどうしようかと思っていたところ、この長谷川表具店に置いてあるのが通りから見えた。売り物だったので購入したが、風炉先は表は無垢も茶色の裏は何か貼ってもらおうと思って入手前に父親がまだ健在で囲碁好きだったので左裏に春日紫雲の「勝負の心理」の文章と呉清源の写真、右裏に室町左門の「囲棊と友誼」の文章と二人の写真を貼ってもらった。両方とも昔の囲碁雑誌にあったものと思う。出来上がって当時良くできていると自己満足した思いが残っている。写真二人の人物は名前を入れていないので誰だったか思い出せないが文章とは関係なく逗葉地区とも縁のある人物だったと思う。お蔵入りで無用同然となった風炉先を改めて見て張った紙が長い年月剥がれもせず皺も起きていないので腕の良い職人だったことが判る。
 亀岡八幡宮の通りを隔てたところにもかって土屋表具店があって奥様は1年前迄1人建物の2階に住まわれていたが今は引っ越されて焼鳥の鳥一になっている。昭和60年代頃からか逗子では表具店や経師店の看板を見ることが少なくなった。障子や襖の張替えは必要でも依頼は「何でも屋さん」にお願いすることになり、最近網戸の張替えと合わせて障子もお願いした。襖を除き若い頃は自分でやったが高齢になりできなくなったのでやむおえない。
  八幡通りに有った店をふと思い出したので記しておきます。昔、横浜銀行よりからクボタカメラ店、おかね、土屋表具店、相模屋豆腐店、島森書店、永井タバコ店、珈師部コーヒー店、酒食処万紫味、青木旅館、スナック・ラスト倶楽部、田村靴修理店、浅田眼科、万紫味支店があり、踏切寄りから石橋工務店、山口屋酒店スリーエフ、フランス料理フランボアーズ(その前は酒場春)、秋山眼鏡店、京染店志ま三、内田写真店、川端菓子店、八百亮、アリレイナ美容室、山本自転車修理店、大竹食料品店、小坂橋建材(菊池タイル店?)、貸本友愛堂、萩原肉店、陰陽洞、鈴木屋(駅前のスズキヤの前身)などもあった。田村靴修理店、自転車修理店、大竹食料品店、菊池タイル店を知る人は80歳をとうに過ぎている人と思う。菊池タイル店で買った睡蓮鉢が今も裏庭にある。(yoo)


新しい紙幣に思う(1000円札・北里柴三郎)

2024-07-10 18:48:45 | 回想
 逗子海岸に立つとふと日本の明治維新以降の医学の歴史を感じることがある。ここは昔小坪村に属し東小坪の新宿海岸として漁師の拠点であり松の繁る人気のない海岸だったという。それが1885(明治18年)初代陸軍軍医総監の松本順により健康に良いということで大磯海水浴場が開設されると、新宿海岸でも1888年(明治21年)、田越川河口に旅館養神亭が開業し、翌年横須賀線逗子駅の開業によって新宿海岸周辺に別荘が建ち始めた。陸軍軍医の石黒忠悳(ただのり)らによって1892年(明治25年)頃より海水浴場として最適であると宣伝され、徳冨蘆花の不如帰の舞台となったこともあり、大正頃より逗子海水浴場として知られるようになった。
  逗子海水浴場を宣伝した石黒忠悳

 石黒忠悳は北里柴三郎とも深い縁のある人物だった。1885年(明治18年)ドイツのベルリン大学へ留学した北里は医者で細菌学者ロベルト・コッホに師事していた。1887年(明治20年)、石黒陸軍省医務局長はベルリンを訪問して北里に近代衛生学の父とも言われるペッテンコーファー(緒方正規、森鴎外の恩師)の研究室に移るように指示したが、コッホは石黒と面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを強調したので、石黒は移動命令を撤回したという。
  
            ロベルト・コッホ 
 1889年(明治22年)、北里は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年には破傷風菌抗毒素を発見し、さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。同年血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた北里でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。論文がきっかけで北里は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、これらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。もし石黒がコッホの意見を断ったら北里の大きな成果は生まれなかったかもしれない。

 北里はドイツ滞在中に、脚気の病原菌の発見を発表した緒方正規に対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定した。同郷で、熊本医学校では同期であった緒方は内務省衛生局では北里の上司だったことがあり、東京大学総長加藤弘之から「師弟の道を解せざる者」と激しい非難を浴びた。緒方とは私生活では良好な関係を保ったものの、これにより母校の東大医学部とは対立することになってしまった。時の日本では東大以外に伝染病研究ができる場所はなく、北里自身の日本での研究者生命を危うくすることを意味した。
     東京帝国大学医科大学学長、
                                 日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した緒方正規

 北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いたそんな北里の危機を救ったのが初代内務省衛生局長を務めた長與専斎と緒方洪庵の適塾時代からの盟友・福沢諭吉である。福澤諭吉は全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、長與専斎54歳、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳であった。
  
 鎌倉海水浴場の恩人 長與専斎      明治24年頃の福澤諭吉

 1908年(明治41年)コッホが来日した際に北里柴三郎等が建てた記念碑が稲村ケ崎にあって見ている。しかし元々ここに建てられたのではなく、眺望の良い霊山山(りょうぜんさん)に霊山園と呼ばれた公園があって、コッホを案内し、のちに記念碑をそこに建てたが記念碑は1983年(昭和58年)結核菌発見100年を記念し、鎌倉市医師会によって稲村ヶ崎に移転された。なお稲村ヶ崎と霊山山は一体で山続きだったが関東大震災で崖崩れが起こり山の形が変わってしまい、1928年(昭和3年))に丘陵開削工事で分断され切通し(現R134号線)が開かれた。成就院の裏山に位置する霊山山に移転を留める石碑があると聞き一度行きたいと思いつつ実現していない。
                 稲村ケ崎に建つコッホの記念碑
 霊山山より移転を留める石碑

 北里柴三郎は伊東に広大な別荘を構え千人風呂と言われた温泉プールを造り一般に公開して温泉療法を実践したが、葉山にも別荘があり郷土誌葉山第8号に「北里柴三郎の別荘」として矢嶋道文氏が書かれている。(yoo)




新しい紙幣に思う(5000円札・津田梅子)

2024-07-08 13:33:30 | 回想
 かなり昔になるが毎年6月になると鎌倉市長谷にある成就院に紫陽花の花を見に行っていた。石段の上から紫陽花と共に見る鎌倉の海岸は趣きがあったし、ここから極楽寺切通しを通って極楽寺に行き境内を拝観、気が向けば江ノ電の線路沿いに歩いて稲村ケ崎に出ることもあった。成就院の紫陽花の木が大幅に切られてしまってからこのコースを歩くことはなくなってしまった。
 稲村ケ崎の音無橋のほとり、江ノ電の線路より小高い場所に津田梅子の別荘があり、この跡地近くに立って相模湾を眺めたことも記憶に残っている。 


 梅子は明治4年に船上で7歳を迎え岩倉使節団に同行してアメリカに留学、18歳で中等教育までの11年間の留学を終えて帰国した。帰国後職もなく、9年後に再度3年間の大学留学をして帰国後に女子英学塾(後の津田塾大学)を創設し女子の高等教育に生涯をかけている。
     

 稲村ケ崎のこの別荘が終焉の地で昭和4年に64歳で亡くなった。近くの姥ガ谷に能登生まれの哲学者西田幾多郎も別荘を持って昭和8年から住むようになり昭和20年終戦2か月前にここで亡くなっている。二度目の西田夫人の山田琴さんは梅子の奨めでアメリカに留学、卒業後女子英学塾の教授を務め、津田別荘で幾多郎と出会い結婚したという。
 新紙幣の前の肖像は女流歌人樋口一葉でその前は東京女子大学初代学長を務めた教育者の新渡戸稲造だった。新渡戸も津田別荘の近くに住んでいたことを知って訪ねたことを思い出す。島本千也さんの「海辺の憩い(湘南別荘物語) 」という本を入手して湘南の別荘を探しながら散歩した時代が思い出される。この本は末尾に協力者として中学の恩師黒田康子の名があり今も手元にある。
 逗葉の地に津田梅子の話を未だ聞いていないが、岩倉使節団に一緒に加わり終生交流があった山川捨松が帰国後大山巌に嫁つぎ鹿鳴館の華と言われたが先妻の若くして亡くなった娘が不如帰の浪子のモデルになっていることを思うと披露山下の海に建つ不如帰の碑に捨松と津田梅子をふと連想したのも遥か昔になってしまった。

 
 かって勤務先が三井コンツエルンの設立者で茶人の益田孝とゆかりが深い箱根強羅公園前に保養所を建てたことがあったが益田孝の実の妹が津田梅子、山川捨松と共に岩倉使節団に同行して留学期間を終えて帰国した3人のうちの一人永井繁子だったことも記憶を蘇らせて追記しておきたい。

 
 永井繁子後の瓜生繁子は日本最初のピアニストと言われているが、山川捨松後の大山捨松と共に津田梅子の終生の理解者であり女子英学塾の設立協力者であった。(yoo)


男性の健康料理教室の卒業パーティ

2024-07-07 18:53:08 | 健康によい料理教室
 2019年9月から、逗子市の国保健康課主催の料理教室に参加してから、早5年経過した。一定の講座を修了した後、自主グループの会(男性の健康料理教室 OB会)も参加させていただいた。
 最初は、管理栄養士の国家資格のある市役所の職員のレクチャーを受け、消費期限、賞味期限の違いなど基本的な事柄はもとより、健康な食生活を送るために、調理前の手指を洗うなどことこまかにご教授いただいた。
 料理実践の場所は、池子の保健センタの調理室で、料理講習をして、ほとんど料理しなかったメンバーが自分で料理できるようになった。参加理由を一部の方からは、配偶者に勧められたとか、中には奥方が勝手に申し込みしたという方もおりました。
 コロナ騒ぎで、12回の講座が残り2回の講座が中止され、終了証をいただいた。ちょっと大げさな話だが、第二次世界大戦末期の大学生が、兵員不足で4年を待たずに卒業とされ、戦争に行かされたことをイメージした。
 今回のパーティの参加者は、受講生の他に講師を務めていただいたW会の方、市の管理栄養士の方をいれて8名でした。
 受講生は、習った料理を二人前持参して、バイキング形式で行った。それぞれの料理は、自主的に選んで、作った。
 料理内容は、和風ハンバーグ、あんかけ焼そば、チャーハン、筑前煮、ラフテ、酢豚だった。
 幹事役のご自宅を開放していただき、会話と料理とカラオケを楽しんで、あっという間の2時間が過ぎた。
 男性は仕事を引退した後、地元との接点が少ないので、こうした市の料理教室開催は、健康な料理を覚えることは元より、地元に溶け込む良い機会だと
思う。卒業式なるこのパーティは、知り合いになれたもの同士の今後の仲間として、逗子市内で仲良く暮らしていけるものかと考えている。
以上
       2024.7.7  tko




新しい紙幣に思う(10000円札・渋沢栄一)

2024-07-06 10:06:16 | 回想
 新しい紙幣が7月3日に発行されて昨日5日(金)みずほ銀行に両替に行ってきました。両替機は全て新券の表示がされていて7人程並んでいました。今まで両替機で並ぶのは多くても3人程だったのでやはり新券を手にしたい思いの表れかなと思いました。
 5000円札と1000円札の新券を入手して家でじっくり見ました。紙幣の見る角度を変えると肖像が正面から横向きに変わる印刷技術には驚きです。10000円札はまだ入手していませんが40年間採用された福沢諭吉から渋沢栄一に変わりました。12年前の平成24年4月に地元校友会のバス旅行で飛鳥山公園に寄り渋沢資料館、旧渋沢庭園、紙の博物館を見たことを思い出しますが、今年4月妻の父母の墓参りに埼玉県行田市に行った際、駅に深谷市出身の渋沢栄一が新しい10000円札の肖像になった見本写真を添え、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の案内チラシが置いて有りました。

 逗葉の地に渋沢栄一を記念する跡は無いようですが、明治35年の1月8日の日記に下記の記述があるそうです。

渋沢栄一 日記  明治三五年 (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 晴
午前七時半寝ヲ離ル、昨夜ノ雨沢樹上ニ在ルモノ凍テ雪トナリ、群樹悉ク銀ノ如ク頗ル奇観ナリシ、蓋シ朝来寒気ノ厳ナル識ルヘキナリ、八時朝飧ヲ畢リ少時読書ス、十時八分発ノ汽車ニテ葉山ニ赴ク、大船ニテ汽車ヲ転シ、逗子ニ到テ汽車ヲ下リ、腕車ヲ僦テ行ク、此日強風車中帽ヲ吹飛サレン事ヲ恐レ、常ニ手ヲ以テ之ヲ護ス、逗子ヨリ壱里余ニシテ葉山ニ達ス、桂総理大臣別荘ニ抵ル、主人家ニ在リ、暫クシテ小村外務大臣・林駐韓公使来会シ、韓国借款ニ関スル将来ノ処置ヲ協議ス、林公使ハ頻ニ第一銀行ハ此際速ニ海関抵当ヲ以テ、三百万円ヲ貸付スルノ約ヲ締結セラレン事ヲ勧告ス、桂・小村二氏モ之ヲ賛成ス、依テ予ハ彼ノ李容翊ノ企望ニ依ル借款ニシテ、政府又ハ其他ニ於テ資金ヲ調成スルノ目的確実ナルニ於テハ、第一銀行モ亦決意スヘキ旨ヲ答フ、種々談論ノ末、来ル十一日迄ニ決答スヘキヲ約シテ去ル此日本店佐々木氏ヨリ仁川尾高ノ来状ヲ送致ス、蓋シ今日ノ談判ニ関係大ナルコトアルヲ以テナリ、午後四時前桂氏別荘ヲ辞シ、逗子停車場ニ抵リ、途中一書ヲ裁シテ佐々木氏ニ送ル、明後十日第一銀行重役会ヲ開クヘキ事ヲ通知スル為ナリ、四時三十分逗子発ノ汽車ニテ林公使ト同乗シ、大船ニテ分袂シ六時大磯着、長生館ニ投宿ス、諸井恒平ヨリ書状来ル

*5000円札と1000円札は後日投稿予定です。(yoo)

喫煙者から受動喫煙者になって22年今思うこと!(その7)

2024-07-05 21:12:23 | 日記
 五月の連休中、咳や痰で1週間静養し、医師による点滴もやり、大きな症状は治まったが、それ以降も咳がたまに出ている。かかりつけの医師からは、そのうちに治るといわれたが、一向に治る気配がなかったので、呼吸器科の医師に診察~検査を行ってもらった。セカンドオピニオンを初めて求めた。その結果は、前記の後遺症もあるが、30年間喫煙したことが原因だと指摘された。一日、3箱60本吸っていた。内訳は、午前中、午後、夜飲み屋でそれぞれ1箱ずつだった。恩師のS教授からは、たばこは大人として吸うのは当たり前だと言われたこと、仕事でのコミュニケーションツールだとして、30年間も吸い続けた結果が喘息、肺気腫(これが進んで行くと肺がんになる)になってしまった。後悔しても何もならない。親戚の叔父は、酸素ボンベを携帯したり、義父は吸入器で薬を摂取していたのを見ていたが、自分は大丈夫だと思っていたが・・・・・・!
 二日前から、一日2回の吸入器を使用し、就寝前に薬を一錠飲む羽目になってしまった。皆様方の周りで、喫煙家がいましたら、将来のリスク回避の為に、禁煙を勧めてください。
                                                                           以上 tko
                                                  2024.7.5


冬眠していた長ナスの根(その3)

2024-06-28 18:03:31 | 野菜つくり
 いよいよ梅雨入りしましたね。その2では、冬眠していた長ナスが花をつけたことをお話ししました。
 昨日、様子を見に行ったら、ナスの実に成長していました。更に、その奥にもう1個成長していていました。もちろん、次に結実する花たちも数個ありました。 何も作業せずにナスの実が収穫でき、楽をしましたが、これは不労所得(果実)と言うべきものかなと思う。
 長ナスの根の話はこれで終わりますが、この不労所得に味をしめたので、年末になったら今年の新規のナスの根を保存しようかと思う。
                    以上 tko
                       2024.6.28