頃は太平洋戦争末期 S20年広島市に8月6日・長崎市に8月9日原爆が投下された日であった。悲惨な状況が今もって語り継がれ、なお世界にその時の状況を投げかけている。また丁度明日が「8月15日」終戦記念日にあたる。それに「沖縄慰霊の日(6月23日)」を加え「忘れてはならない4つの日」(宮内庁ホームページより)とされている。我々世代人は複雑な思いでいっぱいであろう。
さて、この投稿は最後となったがカテゴリ「追憶」等へ振り返ることになる。一つ気になったことがある。それは現場勤務をしていた時四季を通じてヘルメットの着用で(そのせいかどうか解らないないが)中年以降私の頭の髪の毛が薄くなってしまった。これも遺伝や体質であろうと残念でならない。
以後私の勤め人生活は「不動産事業部」に転身してから職種も変わり工事現場を預かる立場から技術営業の職種に変わり必要に迫られ「宅建」の資格も取得した。引き続き業務活動も軌道に乗り激動の時代15余年を段階ごとに無事部長職で乗り切るに至った。建設業は複雑な業種で常に技術を伴った経済的立場で携わる任務に立たされた。若かりし頃叔父の背を見ながら仕事をしていた時おぼろげながら自分の将来の進路を決める切っ掛けとなったのはこの頃ではなかったかとフト感じたことがある。
多数の物件が抱えていた些細な諸事情も工事期間を経て新しい姿となり、代金引き換え と同時にすべての任務が終わる。個々物件の工事期間中の経緯は記憶に留めるに値しない。今から思い起こすに毎日が緊張の連続であった。終盤別に「不動産会社立ち上げ」との二足草鞋を履いていたがこの企業も今は立派に軌道に乗り営業活動を営んでいる。
私は70才の声を聴く頃になった時この緊張した技術の世界を離れ、少し自分の時間を持ちたいと思うようになった。そしてお断りを申しわが勤め人生活にピリオドを打ちフリーとなったのでした。
さて話題は変わり少し美談になるが最後に特筆すべき事項があった。私がサラリーマン生活にピリオドを打った頃ある事実を知りえたのでした。それは明大出身の女子都市計画建築家「M・S女史」の存在であった。ここで取り上げるのはおこがましいと思ったが、私と同姓でしかも同じ明治大学工学部建築工学科卒が何かの因果を感じざるを得なかったのでした。女史は私とは12~13才後輩にあたり建築工学科の歴史と存在を世に知らしめていると思った。現在も現役で会社経営の傍ら東大大学院の非常勤講師をも歴任し学問の世界を愛を持って地方都市の都市計画に取り組んでおられる。
しかも建築学会賞や他の賞をも多々受賞されている。
私が卒業後12~13年経た頃、女史は明大で学んでおられたと思うが、どの教授の下でどういった学び方をされていたか今更ながら興味の湧くところである。更に彼女を育て上げ世に送り出した教授陣に敬意を申し上げたい。正しくそこがスタート地点で以後は彼女の英知と努力の賜物なのでしょう。今後更なるご活躍を期待している次第です。
また別件になるがM・S女子なる女史プロゴルファーも若くして近年彗星のごとく世に現れて活躍の場を得て昨年女子ゴルフツアー連続5回優勝を果たした。「尾崎ジャンボ」の門下生で以後海外にて活躍中であるが応援したいと思っている。女史プロゴルファーではあるが今後に期待の持てる悦材である。
また私と偶然同姓で私が齧ったゴルフの縁の一寸した悪戯(いたずら)が何かの因果を齎(もたら)せたのかと感じざるを得ないのです。
最後に余談ですが北海道在住の孫娘は4ヶ月間お産の為逗子親元に滞在していたが母子とも元気で赤ん坊の方は6.2kgと成長も著しく、時折わからない声を発し微笑み愛想を振り舞う迄成長していたが、いよいよ7月4日妻子を待つ夫のもとえ帰省していった。以後時々スマホで写真を送ってくるが両親に少しずつ似てきた愛らしい動きも愛おしい。当分会えないが今度会えた時は可愛さも一入な事だろう。
以上でこの追憶は終わりと致します。ご一読ありがとうございました。(ysa)