紫紺のやかた

紫紺のやかた

薄らぎかけた記憶❹

2023-08-14 11:14:07 | 追憶
  頃は太平洋戦争末期 S20年広島市に8月6日・長崎市に8月9日原爆が投下された日であった。悲惨な状況が今もって語り継がれ、なお世界にその時の状況を投げかけている。また丁度明日が「8月15日」終戦記念日にあたる。それに「沖縄慰霊の日(6月23日)」を加え「忘れてはならない4つの日」(宮内庁ホームページより)とされている。我々世代人は複雑な思いでいっぱいであろう。
 
 さて、この投稿は最後となったがカテゴリ「追憶」等へ振り返ることになる。一つ気になったことがある。それは現場勤務をしていた時四季を通じてヘルメットの着用で(そのせいかどうか解らないないが)中年以降私の頭の髪の毛が薄くなってしまった。これも遺伝や体質であろうと残念でならない。
 以後私の勤め人生活は「不動産事業部」に転身してから職種も変わり工事現場を預かる立場から技術営業の職種に変わり必要に迫られ「宅建」の資格も取得した。引き続き業務活動も軌道に乗り激動の時代15余年を段階ごとに無事部長職で乗り切るに至った。建設業は複雑な業種で常に技術を伴った経済的立場で携わる任務に立たされた。若かりし頃叔父の背を見ながら仕事をしていた時おぼろげながら自分の将来の進路を決める切っ掛けとなったのはこの頃ではなかったかとフト感じたことがある。
 多数の物件が抱えていた些細な諸事情も工事期間を経て新しい姿となり、代金引き換え と同時にすべての任務が終わる。個々物件の工事期間中の経緯は記憶に留めるに値しない。今から思い起こすに毎日が緊張の連続であった。終盤別に「不動産会社立ち上げ」との二足草鞋を履いていたがこの企業も今は立派に軌道に乗り営業活動を営んでいる。
 私は70才の声を聴く頃になった時この緊張した技術の世界を離れ、少し自分の時間を持ちたいと思うようになった。そしてお断りを申しわが勤め人生活にピリオドを打ちフリーとなったのでした。

 さて話題は変わり少し美談になるが最後に特筆すべき事項があった。私がサラリーマン生活にピリオドを打った頃ある事実を知りえたのでした。それは明大出身の女子都市計画建築家「M・S女史」の存在であった。ここで取り上げるのはおこがましいと思ったが、私と同姓でしかも同じ明治大学工学部建築工学科卒が何かの因果を感じざるを得なかったのでした。女史は私とは12~13才後輩にあたり建築工学科の歴史と存在を世に知らしめていると思った。現在も現役で会社経営の傍ら東大大学院の非常勤講師をも歴任し学問の世界を愛を持って地方都市の都市計画に取り組んでおられる。
 しかも建築学会賞や他の賞をも多々受賞されている。
 私が卒業後12~13年経た頃、女史は明大で学んでおられたと思うが、どの教授の下でどういった学び方をされていたか今更ながら興味の湧くところである。更に彼女を育て上げ世に送り出した教授陣に敬意を申し上げたい。正しくそこがスタート地点で以後は彼女の英知と努力の賜物なのでしょう。今後更なるご活躍を期待している次第です。
 
 また別件になるがM・S女子なる女史プロゴルファーも若くして近年彗星のごとく世に現れて活躍の場を得て昨年女子ゴルフツアー連続5回優勝を果たした。「尾崎ジャンボ」の門下生で以後海外にて活躍中であるが応援したいと思っている。女史プロゴルファーではあるが今後に期待の持てる悦材である。
 また私と偶然同姓で私が齧ったゴルフの縁の一寸した悪戯(いたずら)が何かの因果を齎(もたら)せたのかと感じざるを得ないのです。

 最後に余談ですが北海道在住の孫娘は4ヶ月間お産の為逗子親元に滞在していたが母子とも元気で赤ん坊の方は6.2kgと成長も著しく、時折わからない声を発し微笑み愛想を振り舞う迄成長していたが、いよいよ7月4日妻子を待つ夫のもとえ帰省していった。以後時々スマホで写真を送ってくるが両親に少しずつ似てきた愛らしい動きも愛おしい。当分会えないが今度会えた時は可愛さも一入な事だろう。

以上でこの追憶は終わりと致します。ご一読ありがとうございました。(ysa)



薄らぎかけた記憶❸

2023-08-13 11:36:31 | 追憶
 私が所属していたSゼミ担当の杉山英男教授はその後東大名誉教授に転身ご活躍されていたが2005・2・18 享年80歳で不治の病に倒れこの世を去られたとのことであった。 学生時代束の間であったが私にとっては忘れられない2・3の思い出がある。思い出といえば授業以外にもあった。それは氏が明大研究室にみえるときは何時もゴルフのドライバー1本をケースに入れて肌身離さず持参されていたことであった。なんでも氏は「武蔵CC」に所属していてクラブ競技等で活躍され大層なゴルフ好きであったとのことでした。又当時師と私は個人的に懇談する機会が多少あって師は私に淡きロマンを与えて下さった事があったのです。ある時師は私に何を思われたか「吉祥寺に自宅があり若い娘がいるので君の下宿も近いし遊びに来ないか」と・・・私に声をかけられたのでした。当時私は中央線「高円寺駅」近くに下宿をしていた。私如き分際がと戸惑いを感じ環境の相違もあることで、このありがたいお話は私の胸に収めご無礼をしてしまった。ともかく私の当時の教授のイメージはこれと決めた決意についてはとことん追求頑張られる性格の持ち主だったように感じられた。外に師が私に目をかけて下さった優しさを思い出す度に私の胸は痛むこの頃です。ただ・ただ・・安らかにお眠りくださいと「合掌」のみです。
 尚、4年進学と同時に春季から就職活動も始まり東京都庁・建設部への勧誘もあったが世間情勢華やかかりし時代で私は施工の実態を知るためと他に意図するところもあって数多ある求人施工会社からM建設会社に就職を決めた。
                     
                        36年度<卒業記念写真>明大記念館前にて
 我々はS36年度卒業式を終え各自就職先へ巣立っていった。少人数の当ゼミ仲間も教授とお別れし、ほかの仲間と共に各々就職先(全国各地)へ配属となり、ばらばらの状態で連絡も途絶えた結果となってしまった。そして私のサラリーマン生活も人間関係の渦巻く世界へ旅立ったのです。私の就職先では新入社員から関東エリアの施工現場ドサ周りを強いられていた。
 勤めの傍ら建築士の受験資格(施工経験2年)を経て勤務状態困難な折であったが遇えて試験に挑戦した。私は当時、千葉県「茂原」であるビル建設の為出張していた。通勤不可能で現場事務所泊りをしていたが、丁度8・9月と猛暑の時期で現場員も各自交代で夏季休暇を取っていた。たまたま私はその代わりに当直を任されていて時も時台風時期で小型台風に見舞われたのです。夜間でしかも風雨をまとった台風が現場を襲ったのでした。工事途中で建物の周りには足場が設置され危険防止用のシートが張り巡らされていたが強風のためそのシートごと足場が揺れ吹っ飛ばされようとしていた。私は外に出て足場に登りそのシートの各所固定から外して回ったのです。真夜中体中びしょ濡れでまるで海水浴をしている状態でした。が暫くして風雨も和らぎ難を逃れたのです。一昼夜現場を預かる身としてはこの時ばかりは生きた心地がしなかった若かりし時の思い出があります。
 また一方では建築士資格取得を促進されていた。企業にとって建築士有資格者の数を増やすことも目的の一つだったらしい。まもなくビルも完成し私の現場勤務も都内に移動した。
 受験後結果待ちとなった頃、都内大井競馬場近くに広い敷地があり3棟のマンション建設に携わっていた。ある朝出勤すると管理事務所の管理官が事務所2階から大きい声で私に呼び掛けてくれた。「〇〇君一級建築士合格おめでとう」と何故解ったかというと後で私に朝日新聞を見せてくれて「ここに君の名前が載っているよ」と教えてくれたのです。当時の朝日新聞に全国合格者発表記事が載っていたのでした。今でも「国会図書館」に行けば当時の記事に出会えるかもしれません。間もなく手続き完了で賞状が届いた。
 一方私の勤務は暫く工事現場周りが続いたが、その後内勤設計・見積部へ移動となり建築物件の一連の流れを把握することとなった。
 入社初心は会社にあまり長居するつもりはなかったが世間情勢と資格取得御礼のつもりが居心地の良さもあってつい長居をしてしまった。そこでゴルフを覚え営業活動のまね事をするようになり初心の志も度超えやらこれら環境は私の人生に影響を及ぼすことになった。(ysa)


薄らぎかけた記憶❷

2023-08-12 11:24:44 | 追憶
                     「一人静」
 ここで私の家系を少し振り返る。父は地銀Y銀行T支店銀行員・母は公立T小学校教員で私は姉弟3人の内長男として生まれ育った。父は第二次太平洋戦争に召集され満州(中国)にて終戦を迎え、父の所属していた軍隊一同は満州ハルピンに抑留中ソビエット軍に捕まり捕虜となった。不幸にも敗戦後大勢の隊員と共にソビエット・アバカン地方・コムナール収容所迄連行され服役中、父は戦病死し帰らざる人となった。のちに国から戦没者名簿が届きその由の紙切れの入った遺骨箱が届いた。そして戦没者一同靖国神社に祀られている。今も知らぬ土地に眠っているのだろう。私は時間的に余裕が出来た頃ヨーロッパ旅行をした際、偶然父の遺影が眠るアバカン地方上空をブリュッセル・サベナ航空で飛んだ。機内放送でアバカン地方上空を飛行中だということを知り機の窓から見ると遥か彼方に小さな街並みを確認したのです。こういった形でしか訪れられないのが悲しい思いであったが、ただ「安らかにお眠りください」と合掌するのみであった。
 終戦後我々家族は大黒柱を失った。祖父・祖母とも老齢となり田畑・山林・家屋資産を処分し叔父の下に身を寄せる生活となるも一方我が家族の方は子供3人の内姉と弟は終戦後の食糧難や疫病に遭遇し幼少のころ他界した。そして残された母と私のみが今後を余儀なくさせられたのです。尚、戦時中母は教職を一時休職し一家は父の実家に疎開していたが終戦後人手不足もあり昔お世話になった当時校長先生から御声がかかり再度教務に復職でき活路を得て母は頑張った。
 又母方の親戚が関東地方に在住していて偶々母の従妹の主人が明大卒の先輩でありA生命保険会社・地方支店長を歴任しているとか色々聞かされていた。その子息からも今もって手厚い賀状が届いている。その関連からか母は私の明大への進学を心強く応援してくれたようでした。
 
 そして母は60才で教職定年を迎え以後鎌倉にて私のもとで20年間余生を過ごし私が58才の時、母は2月11日「建国記念日」享年84歳でこの世を全うした。そして父・姉弟の眠る別世界に合流していることであろう。

 さて母が支援してくれた学生時代の思い出に戻るが
 ここで技術の道を選んだ私は 時代の進化に注目し 常に法律の変化やインフラにも敏感にならなければならない生涯の道が始まった。大学3年4年は将来に向けての専門科目のみで必要科目の単位取得等で忙しい日々が続いたが当時
工学部建築学科は(昼間部)総勢140人くらいの生徒数であった。4年生になってそれぞれの専門教授の下でゼミナールなる専門研究授業なる科目が設定され、希望者はその専門教授の下で授業を受け研究に励むこととなる。ゼミ数も12教授の専門分野の下で研究に励むことであった。又卒業設計といった特殊科目も設定されていて独自テーマを自由設定し8枚のケント紙に書き込み完成させ指定日に提出する1年間授業無しの必須科目であった。私は本来ならば建築デザイン・計画の道を歩みたかったが、ここでは将来の為に構造学の道を選んだ。私はSゼミに参加し構造専門授業を受けることにした。当時S教授は東大にも出入りがあり、忙しい暇をぬって東大まで招いてくださり研究課題を持ってよく参上したものです。そして秋には修学旅行なる1泊2日の「伊豆ゼミ旅行」があり、ささやかな宴会上で各自歌を歌うこととなった。私は何の歌を歌ったかは記憶に定かでない。この旅行も単位に含まれていた。(ysa)


薄らぎかけた記憶❶~④

2023-08-11 11:41:27 | 追憶
                          我が家の庭にたたずむ「一人静」
 当ブログもネタ切れで自身の事しか書かざるを得なくなった。少し重い話になるが我が身の薄らぎかけた記憶を記すこととする。ブログに似合わず長文になったがご興味のある方のご一読をお願いします。 (ysa)
我がお上りさん人生
 私が生まれ育った地域は山口県徳山市で瀬戸内海(周防灘)に面して水浸深く徳山湾は戦前から日本海軍燃料廠が設置され各軍艦の燃料補給地であった。それが戦時中アメリカ軍の標的の地となり集中爆撃を受ける羽目となったのです。私共の母は教員であったが一時休職して一家は父方の実家に疎開していた。
その後暫くして父は徴兵され軍人として出兵していったのです。その後一年ぐらい状況のやり取りを母と続けていたが終戦と同時にそれも音信不通となってしまった。ある日終戦間近かになった頃、夕方徳山港は米軍の爆撃に見舞われ一面花火を見ているかの如く遠く山並に大爆撃を目の前にしたのです。てっきりこれは米軍の集中攻撃を受けたのだと一同不安に陥ったのでした。間もなく終戦となるも戦後の日本はどん底の境地から始まり我々には戦後に残されたされた哀れな生活環境が待っていたのです。
 また終戦後父の所属していた軍隊一同は満州ハルピンに抑留中ソビエッと軍に捕まり捕虜となった。
 これは成り行きでもあるが終戦後の文化・経済の貧困時代を経て私は高校を卒業し、母の親戚が鎌倉にあるのを気に一抹の不安はあったが生まれ故郷を離れ新天地を求めて上京した。
 俗にいう「お上りさん」であった。
 執筆中あの演歌歌手井沢八郎さんの歌った「ああ上野駅」の演歌が頭をよぎって離れなかった。受験の為上京した折や休暇中はよく国鉄の夜行列車「あさかぜ号」や「さくら号」に乗って12時間かけて1000kmの片道をよく往復帰省したのでした。正しく郷愁を持った「ああ東京駅」の思い出である。
 そして母の支援もあり花の都に活路を求めた。そのうち年月を重ねるごとに世情環境も向上してきた。私は入学と同時に人生進路が始まった。
 大学1・2年間は鎌倉市内で扇が谷一帯の宅地開発の仕事をしていた叔父も我々の境遇を理解してくれていたのか夏休みには良く呼んでくれて製図のアルバイトをさせてくれた。叔父は俗にいう個人デベロッパー。その叔父といえば三浦半島全域で建設業を営んでいた元M工務店の役職であったが世間情勢の煽りを受け会社が解散した際、鎌倉市内に在住していた関係で土地に精通していて独立して個人デベロッパーとなった人である。
 叔父の奥さんが偶々M工務店社長の縁続きで当時、時の人「石原慎太郎氏」のご婦人「典子さん」とも縁続きであった。そんな近い関係もあり当時叔父はことあるごとに「典子さん・典子さん・・」と独り言を言っていたような覚えがある。私は何のことだかわからぬまま聞き流していたように思う。(ysa)

「ゴルフと私」回想 ❸

2023-04-18 19:08:27 | 追憶
                                 「茶葉畑のうねり」
 これは「ゴルフと私」の関わりの話です。
❸-1 「ゴルフと私」に関して言えば、最初は健康の為にと始めたゴルフですが今では私にとって切っても切れない関係になってしまった。その魅力に取りつかれ私の脳裏を駆け巡っている。昔齧った趣味と合わせ一緒に相手をしてくれるものがゴルフとなった。フリーになってからレッスンプロで友人の主催する「鎌倉PG」でのコンぺに誘われて参加したりして結構楽しんでいた。
 先日、戸棚を整理していた時一枚の額入り表彰状が出てきた。それは主催者が手書きで書いてくれた「3回連続優勝」したときの表彰状でとても懐かしかった。同時にスコアーの集計表が出てきたので当時の状況はどうであったのだろうと思い起こしてみると(〇年12/9・GROSS-88 〇年・GROSS-89 〇年・GROSS-87 HDはそれぞれ19・17・15)が優勝した時のスコアーであった。大した自慢にもならないと思った。

❸-2 最近 TV CS 262チャンネルでゴルフ専用の放送を見ている。その中で「一人ゴルフ」という男子・女子プロゴルファーの一人プレー放映を見ているがとても感銘を受けている。正しく私にとってはイメージトレーニングになるに違いない。
また、つい一週間前千葉県にある某ゴルフ場での上井プロの一人歩きゴルフ一時間放送を見た。素晴らしいフィールドにマッチした素晴らしいハウスとコースでのプレーであった。コースの途中に瀟洒な茶屋があり抹茶と和菓子を嗜んでいたシーンもあった。いずれにしてもコース造りにもこだわりを感じずにはいられなかった。最もプロはD飛距離300Y飛ばせるしその中で余裕のラウンドを満喫していた。私にしてみれば涎の出る光景でもあった。
 出演者は「一人ゴルフはコースの中を一人おしゃべりをしながら歩くことが出来てとても楽しいものだ」とのコメントを残している。ただし、トータル・スコアは今一とのことである。国内有名なゴルフ場を使用していることもありその都度私の趣向を後押ししてくれている。ゴルフはフィールドの自然環境が舞台で季節の天候や風雨の影響を伴うスポーツだ。しかも「終わってなんぼ」のスコアー結果が自分に付いてまわる過酷なスポーツなのだ。色々なルールの下に毎回終了後にスコアー結果を自己評価する自分自身との戦いでもある。プロたちがGROSSの世界でプレーしている姿を見ていることは私にとって確かにイメージ・トレーニングに繫がる。私はこの魅力に取りつかれて離れられないのかもしれない。

❸-3 私はある時このイメージ・トレーニングを実証できないものかと思うようになった。対応してくれるゴルフ場を捜しているうち「一人ゴルフ」に対応してくれるゴルフ場にめぐり合ったのでした。正午よりスタートしハーフラウンド(1~9H)ではあるが約2時間くらいで楽しめる仕組みだ。開場後60年余りを経たオールドコースはかってプロゴルファーであった陳清水プロが設計したゴルフ場である。なんでも設計施工の傍ら自分でブルドーザーを操りコースを完成させたとのことだ。プロの設計から完成へのこだわりが窺える。1910年生まれの氏はすでに29年前故人となられた。一方このゴルフ場は経営者も世代変わりし一部改良を加え今も立派に活動している。そして我々ゴルファーに「安心したゴルフと奥深さ楽しさ」を提供してくれている。
 この魅力にドップリ浸かって離れられないのかもしれない。最後、今振り返るに健康のためにと始めたゴルフであるが縁あって企業関係者の恩恵を賜り私の人生へ幅広い世界と楽しさを提供してくれた。ただし、営業人生については今一との思いがしてる。
 今ではすべてに感謝の気持ちいっぱいである。これらの敬意を忘れず心身共に余裕が出来たら引き続き仲間と1R同伴プレーを楽しめればと思っている。
 以上 「ゴルフとわたし」回想 は終了と致します。(ysa)

    フランク永井さんが歌った演歌「西銀座駅前」
     ③ ABC・XYZ
       若い二人は ジャズ喫茶
       一人の俺の 行く先は
       信号燈が 知ってる筈さ
       恋は苦手の 淋しがりやだ
              いかすじゃないか 西銀座駅前
                   end→