本日1月26日(水)読売新聞朝刊に“目白大 胎中教授語る”として「早大政経出の元関脇 笠置山」の記事が掲載されていました。今年は早大創設者の大隈重信没後100年ということも記事の中にあり、以前明早ラグビ―観戦会の際に早稲田に敬意を表し護国寺にある大隈重信の墓所を訪ねたことを思い出しました。明大出としては早大の記事も気になりますが、≪笠置山≫が出てきたので思い出すことがあり投稿します。
(明早ラグビ―観戦の前に護国寺の大隈重信の墓を訪問)
昔、戦前のことですが逗子で大相撲の巡業場所があったことがあり、その証拠として亀岡八幡宮社殿の左右に大相撲の板番付が掲げられていました。長い歳月の末に字は目視では判読できなくなっていて何時の頃か故U総代が将来復元の意図もあって社務所の倉庫に2枚とも保管となっています。
実ははU総代より年上の田越橋傍で豆腐屋をしていたⅠさんが小学校に上がる前、父と一緒にこの巡業場所を見に行ったと話してくれたことが有りました。記憶の良い方で今も市内で会う機会がありますが、当時逗子に来た力士は聞い時のメモによると常の花、玉錦、笠置山、安芸の海、前田山、佐賀の花、相模川等の名前がありました。全員来たかはわかりません。
( 笠置山) (安芸ノ海)
小学校に上がる前なのでその時名前を覚えたわけではなく、成長の過程で誰かに言われて記憶になっていったのではと思いますが、常の花、玉錦、安芸ノ海、前田山は横綱となり、佐賀の花は大関になり、笠置山と相模川は関脇となりましたが、逗子場所が何時だったか(昭和12年頃か?)確認できていないことと2枚板番付が有ったので2回行われたのかも判らないので逗子に来た時の位置は板番付が復元した暁には判明するのかなと思っています。どういう訳か逗子市の歴史資料の中にこの大相撲の逗子巡業場所の記録が見当たりません。
特に笠置山は常の花、安芸の海と共に出羽海部屋であり早大卒で秀ノ山親方としてテレビ解説も大学卒業前後聞いた記憶があるため強く記憶に残っていました。笠置山が部屋の後輩の安芸の海に双葉山の連勝を止めたお膳立て役をしたことを胎中千鶴教授の新聞記事で知りました。
早大相撲部は1917年創部ですが明大相撲部は1905年創部と12年先に出来ていて明大側も現在の春日野親方(元関脇栃の和歌)、二子山親方(元大関雅山)他の方が頑張っています。
明大卒に早大卒の方を含め大相撲逗子巡業場所に興味を持たれた方がおられれば、調査いただき将来この板番付が復元され笠置山の名が浮かび上がるのを願っています。なお逗子巡業場所の開催した場所は逗子1丁目にあった稲垣牧場だったことは判っています。
「激動期の日本逗子を語る---元逗子に市立博物館をつくる会発行」より
笠置山は興行色の強い巡業場所に自分のあるべき姿を見つけづらかったと胎中教授は述べているので、板番付復元を喜ぶかは判りません。しかしなぎさ通りにある文具店の故Ⅿ氏(娘さん明大卒)からも小学校を早く終えて見に行ったと聞いていましたので地元にとっては好ましい事とは思います。(yoo)