※大阪市教育振興基本計画案へのパブコメは昨日締め切られました。当ブログで、お寄せになったパブコメを紹介していきたいと思います。
今後、橋下大阪市長は、パブリックコメントは終えた、教育委員会との協議は終えたと、市議会提案してくるものと考えられます。
大阪の教育が、この大阪市教育振興基本計画(素案)通りに行われればどうなるのか、さらに議論を深めていきたいと思います。
◎「具体的な目標」が、全国学テを基準にした数値目標のオンパレードであることに対する疑問
「素案」の「施策分野ごとの具体的な目標」には、学力だけでなく、運動や体力、PTA活動、家庭での生活、心の問題等、あらゆる項目を数値目標化し、成果を競わせる内容となっています。しかもその数値目標の基準が「全国学力テスト」の結果を3年間でどこまであげるかに特化しています。「全国学テ」という結果の一面を全ての基準に拡大し、その数値に完全に縛られることになります。これでは「全国学力テスト」至上主義、うすっぺらい教育観のあらわれではないでしょうか。なぜ、「全国」との比較なのでしょう?市長は大阪を個性ある独立性のある地域にしようとされているように聞いています。だとしたら、他と数値で競う必要はないのでは? 後でどうにでも操作できる数値など、意味があるとは思えない。
何より、子どもたち、また指導する先生方の個々の能力は数値で表すようなものではないと思います。競うか競わないかは個人の考え方で、その多様性こそ育むべき能力ではないでしょうか。
数値をもとに国の基準に押し込めては、他の個所で言う「グローバル人材」が育成されるとは思えません。明治期に教育が庶民にまで行きわたるようになったのは、真に個の能力を高めるためだけでなく、「お国」のために働く人間を作るためでもあったと認識しています。その結果、先の大戦まで多くの命が無駄に失われていきました。「個」が、尊重されていなかったからです。
「数値」は親や教育界を表面的に納得させるツールでしかありません。多様な能力を秘めた子どもにとって、一般化した数値で判断されることは、「暴力」でもあります。いじめや自殺、授業妨害、校内暴力など、現在、教育現場が直面する多くの問題は、大人社会の都合で「管理」対象とされている子どもからの「私」をよく見て!というメッセージだと思います。教師にしても、成果を競わされては、人と人として生徒に向き合うことができるか疑問です。それぞれが個々の能力を高め自分の生き方を確立するのに、国家や行政が決めた競争目標で囲うのは、真に子どもを思う教育ではないと感じます。
教育目標が、私たち子どもをもつ親に納得できる具体性をもつものになるよう、再考願います。