5.11集会ZAZAより11人目にアピールは、私、辻谷博子からです。私たちは人事委員会への不服申立を通して多くの方々と、教育をはじめとして社会で生起する様々なことを考えていきたいと思います。
憲法9条と「君が代」不起立
辻 谷 博 子
「君が代」斉唱時不起立。わずか1分足らず座った、ただそれだけで戒告処分、減給処分、そのうえ「警告書」なるものにはわざわざ3回目の不起立で免職ですよと書かれていた。カウント2回で定年退職、再任用は拒否された。それどころか非常勤講師さえもできなかった。「君が代」不起立の教員は、なにがなんでも学校から追い出し教壇には立たせるまいとする強い意思を感じる。では、一体なぜ?だれが?なんのために?そこまでして学校で「君が代」を絶対的なもの、つまり全員が起立して歌う神聖にして侵さざるべきものにしようとするのだろうか?
安倍政権のもと、改憲案が現実味を帯びてきた。96条改憲とは、まるで子供だましのような手口だ。ねらいが9条にあることは、戦後政治における自民党の党是であったのだから、だれが考えてわかることだ。自民党改憲草案がそのまま成立することはいくらなんでもないにせよ、9条が危ないのはひしひしと感じる!そうなって初めて見えて来た。「不起立」は、かつて軍国少女であった母から聞いた教育の恐ろしさに起因する、いわば過去からの投影であったが、それはそのまま未来に向けての投射、つまり戦争を二度としない、憲法9条を守る教育であったのだと。
私が憲法9条を習ったのは、たしか小学校6年生のとき。それを語る先生は誇らしげであった。日本は二度と戦争をしないと誓ったのよ、と。「戦争放棄」に象徴される日本国憲法、それは戦争で散々な目にあった日本人が情熱をもってその誕生を喜び、戦後の日本人が大切に育ててきたものではなかったか。
昨年、某放送局から君が代強制条例について取材を申し込まれたとき、その担当ディレクターはこう言った、「本来ならば、『日の丸』『君が代』の問題は、戦後、日本人一人ひとりが考えて来なければならなかった筈なのに、どうして学校だけにそれが閉じ込められてしまったのか、それを考える番組を作りたい」と。
確かに、戦争が遠のくにつれ「日の丸」「君が代」が戦争に結ぶついた歴史は忘れ去られてきた。私が教員になった頃、ベトナム戦争は日本の戦争責任を明らかにし、学校に「日の丸」「君が代」を持ち込むことなど考えられないことだった。「不起立」どころの話ではなかったのだ。それが式次第に入れられ多くの教職員、生徒は座るしかなかった。そして今、世間が戦争を忘れていくにつれ愛国心教育が再び大きく叫ばれるようになった。
軍隊がなければ国家ではないと考える政治勢力は厳然と存在し続けているのだ。そういう勢力にとって憲法9条改憲はいわば悲願、そして公教育で愛国心を養って初めて成就することを彼らはよく知っている。学校で子どもたちが「君が代」を歌うようになれば9条改憲はたやすい。だからこそ「不起立」なのだ。じゃあ、いつやるの?今でしょ!今が最も危ない時だ。たとえ処分されて再任用が拒否されても「不起立」は戦争をしない教育の証なのだから。