※「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大阪事務局の松田さん(中学教員)のパブリックコメントをご覧ください。
いじめ、問題行動に対する取組について意見を書きます。
大阪市教育振興計画(改訂素案)では、「第1編大阪市の教育改革、第2章教育改革の推進、第3改革に向けた施策の内容、5学校サポート改革」の項(P17~P18)で、「いじめ・問題行動に毅然とした対応をとるための制度をつくります」として、以下の取組をあげています。
「いじめについては、すべての学校、すべての教員が『いじめは生命をもおびやかす行為であり、人間として絶対に許されない行為である』という強い認識をもち、他人の心身の痛みがわかるような豊かな心を育てなければなりません。そのために、いじめた側の児童生徒に対する更生プログラムを策定し、①解決に向けた学校内での加害児童生徒への指導とその保護者への協力要請、②警察やこども相談センターなど関係機関と連携した学校内での指導、③出席停止の活用や教育委員会・警察等と連携した学校外(サポートセンター等)での指導、④犯罪が疑われる場合には、保護観察、児童自立支援施設・少年院送致等の処分に向けた、被害届の提出などの法的手続きといった対応を段階的に示し、児童生徒の状況に改善が見られるまで指導・対応に取り組みます。」
また、「第2編今後3年間で取り組む施策、第2章施策の内容、第1子どもの自立に必要な力の育成、2道徳心・社会性の育成」の項では、以下のような取り組みをあげています。
「幼児期から小・中学校を通じた義務教育修了までの期間に、基本的な道徳心・規範意識を培い、例えば、『人に親切にする』、『嘘をつかない』、『法を犯さない(ルールを守る)』、『勉強する』など、社会で生きる上で身に付けておかなければならない普遍的な事柄についても明確化して繰り返し指導します。」「併せて、いじめ・不登校・児童虐待などの課題を抱える子どもを支援するセーフティネットを充実します。」「学校園で認知したいじめについて、解消に向け対応している割合を100%にします。」「また、たとえ軽易な事案であっても毅然とした指導を行うため、加害児童生徒に対する更生プログラムの策定、いじめの調査等を行う第三者専門家チームの派遣、教職員向けのマニュアルの作成を進めます。」
このいじめ問題に対する取組の方針は、子どもに対しては、「いじめをしたら、損だ」ということを身にしみさせる、教員に対しては、いじめに対処しないと責任が問われる状況をつくるということです。この方針では、教職員が「いじめ問題」に取り組むのは、自らの責任が問われないためであり、市長を初め、教育行政の「指導」とは、できていないことの責任を問うことだけです。教職員ひとりひとりが、どのようにして『いじめは生命をもおびやかす行為であり、人間として絶対に許されない行為である』という認識を得ていくのかというプロセスは、まったく想定されていません。また、いじめている側の子はなぜそうなっているのかということを真剣に問い直すことも必要ありません。
中学校教員としての自分の経験から考えていることを書きます。いじめる側の子は、「困った子」ではなく、「困っている子」です。自分が満たされていない状況に置かれています。それは、自己責任と言えないものがほとんどです。勉強は全く厳しい状況で、家に帰ってもひとり、という生徒が、遊び相手がほしいため友達を強引に遊び相手にさせる。友達にも、クラブ、勉強その他いろいろ都合があるので、遊び相手を確保するには、その子には力しかないのです。その関係は、やがて使い走りをさせる、させられるという関係となり、我慢できなくなった子が反抗して、命令していた子が殴った段階で、教員が何かあったと感じます。このとき、普段から、いじめている側の子の事情も理解した上で、頑張れよという励ましのことばをかけるような関係が教職員とその子の間に築けていれば、暴力をふるうという行為、力で友達を支配する行為がどれだけ駄目なことか、話したとき、聞いてくれます。また、教職員がいじめている側の生徒に一定受け入れられている状況ができている時にしか、いじめられている子は教職員に真実を話してくれません。なぜそんなことをしてしまうのか全く考えようともせず、自分の責任逃れのために、こんなことをするとお前が損をするぞとしかいわない教職員に、だれが本当のことをいうでしょうか。加害者の子は被害者の子に口封じをし、いじめはさらに陰湿化すると思われます。
大阪市教育振興計画(改訂素案)のいじめに対する方針は、今まで積み上げられてきた大阪の教育を壊し、いじめを陰湿化させるもので、反対です。
大阪では、野宿の方への襲撃事件が絶えず、昨年10月には、死に至らしめる事件も起きています。その事件を知った、この問題に関わり続けている方の感想を知りました。まず、私たち自身の受け止めが問われているということです。いじめ問題を考えるときに避けて通れない指摘だと思いますので、紹介させてください。
いったいいつまでくり返されるのか…。ホームレス問題の授業・教育の取り組みを、求めつづけてきたなかで、またも起こった襲撃事件。ついにまた死者が出てしまった現実。子どもたちの「ホームレス」いじめ・差別は、大人の無知と偏見の映しかがみ、社会の「無関心」という最大の暴力が、子どもたちの「襲撃」をうみつづけている。
いったい、どれだけの、いのちが、犠牲になれば、「無関心」は「関心」になるのか。
懸命に、路上で生きている、もっとも貧困な状態にあるひとびとが、この豊かな日本の、十代の子どもや若者によって、むしけらのように襲われ、殺されても、親は、学校は、教育は、世間は、まだ、スルーしつづけるのか。
いったいどうすれば、ほんきで、考え、本気で、動いていくれるのか。
親も、学校も、教員も、世間も、これが「ホームレス」差別でなければ、他の被差別の問題であれば、他の理由で、生きてる人が、襲われころされたとしたら、もっと真剣に、もっと重大に、もっと深刻に、もっと迅速に、もっともっと他人事ではなく、ほおっておけない問題だとは思わないか。大変なことが起こっていると、思わないか。なんとかしなくてはと思わないか。
子どもたちのまえに、大人がまず、「ホームレス」を軽視し、差別している。
学校でも、行政でも、ほかの被差別の問題であれば、たとえ、個人的に、興味も関心もなかったとしても、「人道的」に、「教育」に、無視はできない問題として、「取り上げざるをえなかった」のではないか??
「ホームレス」差別、だからこそ、「取り上げずにすんで」きたのではないか??
石を投げ手を汚すのは子どもたちだけど、石をなげさせてるのは、だれか?
変わるべきは、まず、大人。それも、「教育」にかかわる、大人がまず、無知から「知る」ことへ、
無関心から「関心」へ、そして、スルーから、「出会い」へと、変容していくこと。
子どもたちに「説教」している場合じゃない。
(中略)
子どもたちに語りつづけていく。路上でいのちを奪われた、仲間たちの無念とかなしみ。そして、もう二度と、だれも、加害者にも、被害者にも、なってほしくない。苦しみ哀しみのなかで、ねじまげられ、ふるえるいのち。きっとわかりあえる。敵ではない。いのちのぬくりもりをもった「人と人として」、出会ってほしい。
子どもたちを、信じたい。仲間たちを、まもりたい。