2・11「建国記念の日」反対!改憲・大軍拡NO! 競争・強制でなく、命と人権を守る教育を!
集会には、リアル・zoom参加あわせて、256名の参加がありました。どうもありがとうございました。
講演者の酒井隆史さまから、当日配布のレジュメとパワーポイントの掲載許可をいただきましたので、URLを紹介します。
配布レジュメ
https://drive.google.com/file/d/1mnSKJPss9d0yEcOoRDsITFaorJ-eQbMx/view?usp=drivesdk
パワーポイント(PDF版)
https://drive.google.com/file/d/1iBzgw4jk7ohvumBoje1T5rADp5Uy32rZ/view?usp=drivesdk
また、まことに不十分ではありますが、当日の講演メモをあわせて掲載しますので、参考になればうれしい限りです。なお、文責は志水にあります。間違った理解もあるかもしれませんが、その時はどうかお許しを!
◆2023.2.11 「資本主義の「略奪」的段階と天皇制」酒井隆史さん講演メモ◆
現在の天皇制をどうとらえるか、ひとつの視座を示したい。また、私たちは、今どのような状況にあるのか、資本主義というシステムについて考えてみたい。
どうも、“日本人は皇室を愛している”と思い過ぎているのではないか、今、天皇制への批判が低下している。
天皇制を「解釈労働」という観点から考えてみたい。
「一木一草に天皇制がある」といったのは竹内好であったが、今、それはちょっと違うのではないかと思っている。そろそろ根本から考えていかなければならない。
「解釈労働」とは、他者が何を望んでいるのか、考えるということだが、フェミニズムや人類学においてこの概念は発展してきた。
解釈労働において、ヒエラルキーがあるところでは、それは強いられて、苦労しながら他者の望みを慮るということになる。つまり、そこでは、解釈労働は、不均衡な関係で「下位」の人が「上位」の人の望みを考えるということになる。
男性優位社会では女性は男性の望みを考えて行動することが強いられる。
豊臣秀吉の出世のきっかけとなったという織田信長の草鞋をあっためておいた話というのは、解釈労働のいい事例だ。解釈労働を巧みにこなしたことによって出世する。上司と部下、教師と生徒、やくざ組織もそうだが、現象としてよく見られる。
解釈労働を容易にしているのは「暴力」だ。力の差がある時に、相手の思いを一切省略することができる。暴力をちらつかせることによってそれができる。
それがよくわかる例はドラえもんのジャイアンのリサイタルの話。ジャイアンは(下手な)歌をリサイタルを開きのび太たちに披露する。ジャイアンが怖いから集まり、歌を聞かざるを得ない。これはある種の暴力だ。のび太がリサイタルをやった場合、どうだろうか。誰も集まってこない。
官僚制は相手を考慮せずに命令を遂行することができる。例えば、野宿者の追い出し。官僚はただ淡々と遂行することができる。
解釈労働はいつもヒエラルキーを支えている。暴力として。
メディアも大衆も陛下の「お気持ち」を察しようとする。「お気持ち」いやな言葉だ。メディアが解釈労働の表現をしている。
韓国には「泣き女」という風習がある。葬式で代わりに泣く役目をする。儀礼的表現だが、これも解釈労働の一つ。
そして、2010年代を振り返るとそれ(解釈労働)を率先したのは知識人だった。最近の右翼は天皇への愛着を示すものは少ない(笑)
天皇の「お気持ち」に、愚かしくも知的正当性を与えているのは知識人だったのではないか。
眼中になくていつも考えている。恋愛において相手が憎いとういう感情は容易に好きだという感情に転換する。無視、眼中にない、そこには恋愛は存在しない。
こういうことは恋愛に限らず、支配されているにもかかわらずヒエラルキーの世界に閉じ込められる狭い社会で起こりうる。
敬愛の情は、実はタブーにより生まれる恐怖感に支えられている。天皇制にまつわるテロル。テロリズムが起ころうと、脅迫状がきたり、暗殺が起こっても、テロルの問題はわきに追いやられる。
暴力と敬愛を解釈労働という概念から考えた時、テロルへの歪曲した恐怖は、自発的に隷従することを選ばされる。まさに敗戦の時にはそうい場面が実際にみられた。
知識人が、自らの抑圧に加担する。ある種のマチズムがそこにある。暴力があるから怖い。私だった怖い。人々は天皇制に対して自由闊達にものが言える環境にない。
知識人はそこに理屈をつける。勝手に天皇の思惑を推察して、進歩的にも民主的にも転用可能。例えば「天皇は安倍を嫌っている」と。推察に推察を重ねて天皇の「お気持ち」を考える。すなわち解釈労働。これも天皇制にまつわる恐怖の暴力であり、恒常的にある。
マスコミも同じだ。恐怖感情がマスコミに天皇敬語表現をさせる。
かつて、網野善彦が、「日本史学者が『崩御』という言葉を使ったらおしまいだ」と言ったが、敬語表現はヒエラルキーを再確認する。
自由闊達に議論ができると仮定して、その時、人々はこの制度を受け入れて、今のような敬愛すなわち自発的隷従を続けるだろうか。
では、今、我々はどんな状況にあるのか?
大きなシステムの変容の話で、雑駁な話になるが、我々は今どこにいるのか、について考えてみたい。
今、資本主義が、コロナを契機として持続可能?というときになって、とめどのない分極化が世界的にもますます明らかになってきた。
資本主義は、もはやその正当性を担保していた3つの約束、すなわち、①次世代はより豊かになっている ②テクノロジーが豊かさをもたらす ③中産階級を分厚くすることで社会を安定化させるーー果たせなくなっている。
ごくごく一部の富裕層はコロナ感染までをも利用して冨を得ようとする。資本主義はますます「略奪的」になっていく。
社会の冨を動きをすべて監視して、あらゆる隙間からも税金を吸い上げる。あらゆる情報を手に入れ、人びとは丸裸にされ、支配層はますます黒塗りの闇にいく。あの手この手を使い「記録」を残さないようにする。
そしてたとえば、メガイベントのようなかたちで、巨大な冨の再配分が起きている。すなわち上位の人びとでシェアし合う。その反面、例えば、ワールドカップでは移民労働者が6500人も亡くなっている。
資本主義の「略奪的段階」に入ったといえる。
ネオリベラリズムとはなんだったのか?近年のネオリベラリズムの研究がたどりついたおおよその結論では、ネオリベラリズムは「市場原理主義」でも「経済理論」でもなく、「市場」 や「経済」のイメージや論理(もどき)によって社会全体を再編成しようとする「政治的プロジェクト」であるとわかった。
そこで優先されるのは、「効率性」でも「生産性」でもなく(その点では、ネオリベラリズムはすべて失敗してきた)、いまとは異なる世界を希求する可能性の感覚を窒息させることである。その点で、日本はネオリベラリズム劣等生ではなく、最優等生といえる。
いまここで、①ネトウヨ的ヒエラルキー(日本型極右ネオリベラル型)ヒ エラルキーと、②天皇制的ヒエラルキーをわけてみる
みかけとしては、①は分極化/排除/暴力、②包摂/人道/非暴力、という ふうに提示される(まったくそこに内容が対応していないわけではない)
しかし、形式として、機能としては、みてきたように、暴力によるヒエラル キーの保全、そうしたヒエラルキーへの日常的な慣れ/自明化(よくいわれる日本社会にはあちこちに○○天皇が生まれる、タブーの形成(事実、真実の減価)といった点で、②が①の基盤を与えつづけるといえる。
暴力的雰囲気の蔓延がヒエラルキーをつくり、「切り捨ててよい人間」「死 んでいい人間」を振り分けていく、マイノリティへの暴力の激化、高齢者は 自死すべきといった論調の出現などがそれだ。
ヒエラルキーをつくりたい衝動が、日本のいまのネットインフルエンサーなど (ひろゆき、メンタリストDaiGoなど)を生み出している。
タブーをつくり、テロル環境を恒常的なものとし、こうしたヒエラルキーを自明のものとするよう、天皇制は機能している。
しかし、これらはすべて、限界に直面した現代世界の亀裂を直視しないところ、あるいは先延ばし(「わがなきあとに洪水よ来たれ」)の生んだ、過渡期の現象だ。
世界的には、若い世代の気候危機への強烈な危機感とそれにもとづく行動の展開がみられる。アメリカにおいても、若い世代の半数以上が、ポスト資本主義を望むという状況がある。
アメリカの「アンチワーク」運動、中国の「寝そべり族」といった、洋の東西を問わず、コロナ禍を契機として、現在のシステムから逃避していく動きがみられる。韓国ではMZ世代。暴力に裏打ちしないヒエラルキーのない社会欲求が世界的に起こっている。
暴力に裏打ちされない、ヒエラルキーのない世界を、率先して実現させ、ありうるものとして提示していくことが必要なのではないか。