映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

シルクロード旅行(その2)新疆ウイグルの意味

2011-06-20 16:22:36 | 舞台は東アジア・中国
2シルクロード旅行(2)新疆ウイグルの意味

今回旅行会社のツアーで行った「シルクロード旅行」往路は先ず上海、西安と乗り継いで、
新疆ウイグルの首都「ウルムチ」から始まる。
朝一番観光バスに乗って、現地案内人の最初の紹介話は「新疆」の「彊」という文字の説明。
これはよく分かった。

この地名は清の乾隆帝が、この地で勢力を伸ばしたジュンガル部を滅ぼし「新しい領土」という意味で名付けたもの。

この疆の字形が昔からあったのかどうか知らないが、確かにこの字は「新疆ウイグル」全体の地形を旨く表している。

左の弓偏は弓(武器)でもって西域からの侵入を防ぐという意味、右の旁は三本の「一」が三つの山脈を表し、
その間に「田・・・平地、人間が行き来する土地」を挟んでいる。

なるほどこの地は・・・北にアルタイ山脈(モンゴル国境)、南に崑崙山脈(チベット自治区との境)がそびえ、
ほぼ真中に天山山脈が走る。
そして北のアルタイ山脈と天山山脈の間にジュンガル盆地、天山山脈と南の崑崙山脈との間にタリム盆地が広がる。
現在中国では、ジュンガル盆地のある北側を北疆、タリム盆地のある南側を南疆と称している所以である。


しからば「ウイグル」は何処から来たか。ガイドさんに質問しても難しそう、
大急ぎで手持ちの書をあっちこっち突き合わせてみると・・・。


 ○ 現代ウイグル人の祖先は、古くから自らをアルタイ山脈から南下した「テュルク(トルコ)族」と称し、
   中央アジアに散った諸族と共通の文化圏を有していた。一方で中国側からは「西域」と呼ばれ、
   政治的・経済的な交流もあり、漢代と唐代にはその支配下に置かれた時期もある。
 
 ○ 唐代後期、テュルクの中核集団だった「ウイグル人」が「トクズ・オグズ=九つの姓」を連合し、
   744年東突厥を破り「(東)ウイグル王国」を建てたとされている(中国名鉄琭?)。

 ○ 13世紀、モンゴル帝国の勃興によりその支配下に組み込まれるが、チャガタイとその子孫、
   更にその後はモンゴルの末裔オイラート部やジュンガル部の支配に服するが、
   統治者も住民も緩い民族名称しかもたず、民族自決、国家意識は育たない。
 
 ○ 18世紀1758年、清のジュンガル部征服にともなってその支配下に入り、清朝側からは
   「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、「新しい領土」を意味する「新疆」などと呼ばれた。

 ○ ロシア革命後、中央アジア進出を果たしたソビエト政権は、「民族別の自治」を掲げ、
   西トルキスタンでも遊牧集団やオアシス都市住民の間に無理矢理「民族的境界区分」を引いた。
   1921年、西トルキスタンで、「露清イリ条約」の際にロシア領に移住したタリム盆地出身者が、
   古代のウイグルという呼称を復活させ、自らこれを名乗ることを決定した。

   この呼称が清朝統治下の東トルキスタンにも広がり、この地の「ウイグル改称運動」がおこった。
   この改称運動は、盛世才政権のもとで受け入れられ、1934年、省府議会が正式にこの呼称を採用、
   「維吾爾」という漢字表記もこの時に確定、現在に至っている。


今後、この地が中国、中華民国の中で、どういう「自治」を獲得、維持してゆくかどうかは全く不明であるが、
原住民たるウイグル人たちが、彼らの歴史を正当に誇り、

例えばモンゴルの勃興より前に、一世を風靡した「ウイグル帝国」を描く映画の如きもの、
あるいは東西トルキスタンの交流ぶりなどを世界にアッピールしてゆく必要があろう。

私は全く勝手に「トゥーランドット」というオペラは、この一例と位置ずけているのだが・・・。

(あのオペラの場面=宮殿は北京・紫禁城とされているが、内容からしてその必然性は全然なく、
 長安や敦煌としても何らおかしくはないと思うが、如何であろうか)

(了)

コメントを投稿