シルクロード紀行(6)河西回廊と嘉峪関
中華世界から外の世界への第一歩、シルクロードへの出発点となる地域がいわゆる「河西回廊」。
・・・・・当初、漢の武帝がBC111年に置いた河西四郡(武威、腸液、酒泉、敦煌)が始まりとされ、
11世紀には、河西五州(上記夫々が涼州、甘州、粛州、砂州とされ、新たに安西に瓜州が置かれた)として再編成された。
このことが頭にあると、当初、旅行会社のシルクロードツアーで「嘉峪関ヘ行きます」というと
「何それ」ということになり、ちょっと知っている人なら「酒泉じゃないの」と聴き返すことになりかねない。
確かにシルクロードと言えば時代的には「唐」が主役なのに、
嘉峪関は唐滅亡後600年を経て、明の時代、1372年に建設された新参都市。ちょっと格が違う感じ。
しかし地理から理解しよう。嘉峪関は河西回廊が一番狭くなっているところで中華防衛上の重要地。
嘉峪関城とその北8キロの「懸壁長城」、南7キロの「長城第一雄関」を結んだラインを守れば酒泉盆地以東は安泰というわけ。
そもそもこの「関」は明代、西から迫る「ティムール軍」に対する防衛拠点として築かれた。
が、ティムールの東攻めは遅きに過ぎた。彼は東へ向かう直前に老衰で死去したという。
確かにここは南は祁連山脈、北は龍首山と馬鬃山に面し、万年雪やゴビ砂漠、「西域」「砂漠」を一望できる絶景地。
「嘉峪関」は周囲733mを高さ11mの城壁に囲まれ・・・東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備える。
関の南北は万里の長城とつながり、城壁の隅角部には櫓が設けられている。
この関=城内建造物は、万里の長城の関の中で唯一建設当時のまま残されたものと言われ、見どころ満点。
「懸壁長城」は最も傾斜面、最高斜度45度の長城で、元気な観光客はウォーキングに精を出す。
中国はここをテーマパークの一つとして整備する計画があるらしいが、
面白かったのは、城壁の麓に設置された「シルク・ロードに縁の深い人物、六体の石像群」。
この六人は・・・、①先ずは張騫に始まり、②霍去病、③玄奘、④マルコ・ポーロ(馬可波羅)と続く。
ここまではいいのだが、⑤次に来るのが左宗棠(さそうとう1812~1885)・・・彼は清代末の武将、
新疆ウイグル地区の反乱を平定し、ロシアとの「イリ条約」交渉に参加したり、中国のシルクロード奪取に功績代の人。
⑥そして最期が、何と林則徐・・・彼は阿片戦争でイギリスに立ち向かったことで有名だが、
一時西太后に疎んじられて新疆、それもアルタイ山脈麓、現カザフスタン国境の街「イーニン」に流さていたことがある。
そこで開拓事業に励んだとかで、現地には「イリ林則徐記念館」があるという。
この最後の二人の配列には、現代の中国政治を反映しているようで、思わず苦笑い。
井上靖氏がこれを見たら、なんというのか、想像を逞しゅうする。
(了)
中華世界から外の世界への第一歩、シルクロードへの出発点となる地域がいわゆる「河西回廊」。
・・・・・当初、漢の武帝がBC111年に置いた河西四郡(武威、腸液、酒泉、敦煌)が始まりとされ、
11世紀には、河西五州(上記夫々が涼州、甘州、粛州、砂州とされ、新たに安西に瓜州が置かれた)として再編成された。
このことが頭にあると、当初、旅行会社のシルクロードツアーで「嘉峪関ヘ行きます」というと
「何それ」ということになり、ちょっと知っている人なら「酒泉じゃないの」と聴き返すことになりかねない。
確かにシルクロードと言えば時代的には「唐」が主役なのに、
嘉峪関は唐滅亡後600年を経て、明の時代、1372年に建設された新参都市。ちょっと格が違う感じ。
しかし地理から理解しよう。嘉峪関は河西回廊が一番狭くなっているところで中華防衛上の重要地。
嘉峪関城とその北8キロの「懸壁長城」、南7キロの「長城第一雄関」を結んだラインを守れば酒泉盆地以東は安泰というわけ。
そもそもこの「関」は明代、西から迫る「ティムール軍」に対する防衛拠点として築かれた。
が、ティムールの東攻めは遅きに過ぎた。彼は東へ向かう直前に老衰で死去したという。
確かにここは南は祁連山脈、北は龍首山と馬鬃山に面し、万年雪やゴビ砂漠、「西域」「砂漠」を一望できる絶景地。
「嘉峪関」は周囲733mを高さ11mの城壁に囲まれ・・・東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備える。
関の南北は万里の長城とつながり、城壁の隅角部には櫓が設けられている。
この関=城内建造物は、万里の長城の関の中で唯一建設当時のまま残されたものと言われ、見どころ満点。
「懸壁長城」は最も傾斜面、最高斜度45度の長城で、元気な観光客はウォーキングに精を出す。
中国はここをテーマパークの一つとして整備する計画があるらしいが、
面白かったのは、城壁の麓に設置された「シルク・ロードに縁の深い人物、六体の石像群」。
この六人は・・・、①先ずは張騫に始まり、②霍去病、③玄奘、④マルコ・ポーロ(馬可波羅)と続く。
ここまではいいのだが、⑤次に来るのが左宗棠(さそうとう1812~1885)・・・彼は清代末の武将、
新疆ウイグル地区の反乱を平定し、ロシアとの「イリ条約」交渉に参加したり、中国のシルクロード奪取に功績代の人。
⑥そして最期が、何と林則徐・・・彼は阿片戦争でイギリスに立ち向かったことで有名だが、
一時西太后に疎んじられて新疆、それもアルタイ山脈麓、現カザフスタン国境の街「イーニン」に流さていたことがある。
そこで開拓事業に励んだとかで、現地には「イリ林則徐記念館」があるという。
この最後の二人の配列には、現代の中国政治を反映しているようで、思わず苦笑い。
井上靖氏がこれを見たら、なんというのか、想像を逞しゅうする。
(了)
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