映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

シルクロード旅行(5)莫高窟の秘密

2011-07-08 15:43:20 | 舞台は東アジア・中国
5、シルクロード紀行(5)莫高窟の秘密

シルクロードや敦煌について不勉強だから仕方ないのだが、単純な疑問。
「砂漠の中の美術館」と言われる莫高窟・・・何故あんな辺鄙な山の窟の中で、あんなに多くの美術財=壁画や彫像などが創作され、鎮座されるに至っているのか。
その成立ち、あるいはその歴史的意味につき納得できる答えが欲しい。

敦煌への道中、柳園からの悪路、
バスのガイドが「敦煌は仏教が中国へ伝わるメインゲートでいわばメッカの役割を果たす。遠路遥々ここに辿り着いた人々は、改めてその苦しかった旅呈に思いを致し、これからの旅の安全を祈って、仏画や仏像を寄贈する気持ちになった」などという。それはそれで一応の答えだが、もうひとつピンとこない。

しかし今回、いくつかの窟を目の当たりにし、多彩な絵や像を鑑賞し、なんとなく分かってきた。これは鳴沙山壁の「美術品ブース=窟の分譲地」ではないか。

そして最後の方になって、156窟の「張議潮出行図」を見て疑問が氷解した。これはここを訪れた貴族や商人、僧侶たちパトロンの「美術コレクション」ではないか。

ちょっと説明が要る。
この図に出てくる「張議潮」については井上靖の「敦煌」に分かり易い注解がある。
それによると・・・「8世紀とり吐蕃の支配下にあった河西地方で、9世紀の半ば、敦煌の土豪張議潮は町の有力者たちと謀って吐蕃追放の実をあげ、沙州(敦煌)と瓜州(安西)を手に入れた。これを唐朝に報告すると唐朝は彼を沙州防禦使に任じ、さらに851年沙州に帰義軍がおかれると、彼はその節度使に任ぜられた。」とある。

・・・だからこの「出行図」は張議潮が唐の使節から任を受ける晴れ舞台、彼はその晴れ姿を莫高窟のブースに残そうとしたに違いない。そして権力と金を尽くして、唐の有力美術家を呼んだに違いない。

(更に付け加えると、小説そして映画になった「敦煌」の史実面の結末・・・
「張議潮の死後、その地位は子孫が受け継ぐ。しかし、900年には唐から任命された張承奉がその地位を奪い、前唐朝滅亡後は、後唐時代に入ると「曹議金」が任命される。以後8代に亘り曹氏の支配が続き、やがて曹賢順の時代に西夏に滅ぼされる」)

要は莫高窟は「美術品の寄贈・陳列のブース」の集積地、従って美術館なのだ。

敦煌という最果ての地に縁があった人達
・・・中国政権に寄り添いつつ、あるいは反発しつつこの地を治めた軍人や官僚たち、合従連衡を繰り返す近隣の豪族たち、東西交易で財をなした商人たち、巡行の旅僧たち、この地の風景や文物に憧れた美術家たちが、何か自分の存在証明を残したい願望、あるいは一皮むけて、仏教に帰依する気持ち。金に糸目はつけない。そういう気持ちで美術に向かった。

・・・どこの国でも、権力者や金持ちは最後は藝術に辿りつき、美術品を集めたりするものなのだ。

それはそうと、敦煌中心地のロータリーに大きなシンボル像が出来て、その名は「反弾琵琶像」・・・反り返って背中で琵琶を弾いている、いわば元祖「イナバウアー」ポーズ。

このデザインは莫高窟の壁画からきているということだったが、現地でいくつかの窟を見て回って驚いた。仏画の中には「飛天」が多く描かれている。特に唐代のものは、ほとんどといっていいほど総てに飛天が飛んでいる。仏教画の人気キャラクターなのだろう。
従って街のロータリーの像のモデルはどの窟のものか、いろいろ説があって一定しない・・・112窟説、110窟説、327窟説など・・・させる必要もないのだが。
(了)

コメントを投稿