雨多則爛
五月雨に入江の菖蒲(あやめ)みがくれて引く人なしに朽ちぬべきかな
半紙
【題出典】『摩訶止観』
【題意】 雨多則爛 (雨多ければすなわち爛れ)
雨が多いと朽ちる
【歌の通釈】
五月雨に入り江の菖蒲が沈み隠れてしまって、引き抜く人もなく朽ちてしまうのだろうよ。(止観の止ばかりを修していると、如来のお導きもなく朽ちてしまうだろうよ。)
【考】
止観修行において、智恵なく、心を鎮める「止」ばかりを修していては、雨が多すぎると草が朽ちるように、仏性を得られない。これを、五月雨に沈む菖蒲が誰に知られることもなく朽ちていくという、「菖蒲」の歌に仕立てて詠んだ。適度な雨と日を得ることによって、菖蒲が美しく咲くように、心を止むことと、智恵の心で観ずることをバランスよく両立することによって開悟することができるという。
【語釈】
○止観 「止」とは、心を静止させ、鎮めること。「観」は、正しい智恵によって対象を観ずること。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
●
書き忘れたが、この「寂然法門百首」には、古今和歌集のような「部立て」(分類)がある。「春」「夏」「秋」「冬」「祝」「別」「恋」「述懐」「無常」「雑」の部立ての中に10首ずつ配されていて、全部で100首となる。したがって、この14番目の歌は、「夏」で、「五月雨」が詠み込まれているわけである。
「心を鎮める」ことは大事だが、鎮めすぎると腐っちゃうよ、というのは、とても分かりやすい。時に静かに「内省」し、そして時に外界に「正しく」目を向けること、このバランスが大事だという。そのことを、梅雨時の空のもとに咲く菖蒲にたとえて、美しい。ここでいう「菖蒲」というのは、今でいえば「アヤメ」のこと。菖蒲湯に入れる「菖蒲」ではない。
バランスが大事とはいうものの、いざ実践となると、これがなかなか難しい。外に出て活動するか、家に引きこもるか、どうしても、そのどっちかに偏ってしまう。昔から理想の生き方として「晴耕雨読」というが、それもこういう考えから出てきているのかもしれない。晴れたら、耕さないまでも外に出る。雨がふったら本を読まないまでも、家にいてウダウダする。それが、自然の中に生きるということでもあり、修行の形としても理にかなっているということだろう。