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★「失われた時を求めて」を読む★ 第6巻・引用とコメント

2015-04-10 11:52:10 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第6巻・引用とコメント

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。



★「失われた時を求めて」を読む★3/19 今日は、第6巻31pまで。

▼第4編「ソドムとゴモラ 1」が始まる。「ソドムとゴモラ」というだけあって、いきなり、同性愛の話である。


★「失われた時を求めて」を読む★3/23 昨日は2ページしか読めなかったが、今日は、98ページまで。

▼人の名前がとっさに出てこない、ということについて考察している。突然、「読者よ」というような呼びかけが出てきて、ドキッとした。なんか、プルーストに直接語りかけられたような気がした。ちょっと長いが、気に入ったので、引用しておく。

〈「そういうことをいくらいわれてもと、読者はおっしゃるだろう、「その婦人の不親切をすこしもわれわれに納得させてくれはしない。それにしても、作者よ、あなたはこんなに長いあいだ立ちどまって道草を食ったのだから、ついでにもう一分だけあなたに時間をつぶさせてこういわせてほしい、──そのころのあなたのような若さで(もし主人公があなたでないとしたら、あなたの主人公のような若さで)すでに記憶が衰え、よく知っていた婦人の名前が思いだせないとはこまったことだね、と。」いかにも、読者よ、それはたいへんこまったことだ。そればかりか、あなたがお思いになる以上に悲しむべきことだ、とにかく、名前や単語が、思考のあかるい地帯から消えうせる、そしてもっともよく知っていた人々の名前さえ今後はそれを口に出していうことを永久に断念しなくてはならない、そういう時の到来のまえぶれがそこに感じられるとすれば。いかにも、それはこまったことだ、自分がよく知っている名前を見出すのに、若いときからそんなに苦労をしなくてはならないとすれば。しかしもしそのような欠陥が、知っているのか知っていないのかわからない程度の名前、きわめて自然に忘れられるような名前、しかも思いだすだけの労をとりたくないような名前にかぎって生じるならば、その欠陥も利益がなくはないだろう。「どんな利益かね?」それは、あなた、こういうこと、つまり病気だけが、平素何事もなければ人の気づかない種々の機構を、目立たせ、習得させ、また分解することを可能にするということ。毎晩、ベッドのなかへまるで大きな石が落ちるようにどっかりと倒れ、目がさめて起きるときまで死んだように寝る男、そんな男は、睡眠について、大きな発見はおろか、せめて小さな考察だけでも、やろうと思うことがあるだろうか? 彼は自分が眠るのかどうかもよくは知らない。多少の不眠は、睡眠を評価し、その暗黒のなかにいくらかの光を投入するために、無益ではない。欠陥のない記憶は、記憶の諸現象の研究をうながす非常に有力な刺戟とはならない。「やっとアルパジョン夫人があなたを大公に紹介してくれたのか?」そうではなかった、だが、まあうるさくいわずに、私の話をつづけさせていただきたい。〉第6巻91p



★「失われた時を求めて」を読む★3/24 今日は、第6巻117pまで。

〈貴族の好意というのは、その好意が向けられる相手の劣等感に芳香をそそぐのをよろこぶことなのであって、その劣等感をとりのぞくにはいたらないのである、なぜなら、劣等感をとりのぞいてしまえば、彼らの好意はもはや存在理由を失うであろうから。〉第6巻109p

▼結局、自分が大事、という「貴族」の本質。でも、貴族でなくても、これは同じかもしれぬ。



★「失われた時を求めて」を読む★3/27 今日は、第6巻196pまで。

〈……ただ私が言いたいのは、私は非常に人生を愛した、また私は非常に芸術を愛したということです。さて! いまこうして他人といっしょに生きるにはすこし疲れすぎてしまうと、かつて私が抱いた私だけの個人的な感情が、私にとってこれはすべてのコレクターのかたよったくせかもしれないが、非常に貴重なものに見えるのです。私は私の心を一種のかざり棚のように私自身にひらいて見せます、私は他人が知らなかったと思われるあの多くの愛を、一つ一つながめます。そしていま私が他のコレクションよりももっと強くひきつけられているこのコレクションについて、いわばその書物にたいするマザランのように、もっとも私のほうはなんの心配もなくですが、こういうのです、──そんなすべてとわかれるのはいやだなあ。〉第6巻178p

▼病気で衰弱したスワンの述懐。

▼「マザラン」は、イタリア出身のフランス十七世紀の宰相(1602~1661)。死後多数の書物、美術品を残し、その邸宅が王立図書館(現在のマザリl ヌ図書館)になったのだそうです。註を見るまでは「マゼラン」のことかと思っていた。

▼「コレクター」か。なんだか、とても分かる気がする。そして「そんなすべてとわかれるのはいやだなあ。」というのも共感してやまない。



★「失われた時を求めて」を読む★3/29 今日は、第6巻237pまで。

〈われわれがじっと待っているとき、物音を受けとる耳から、その物音を検討し分析する頭脳まで、また頭脳からその結果を伝達する心情まで、といった二重の行程は、きわめて迅速なので、われわれはその時間を知覚することさえできず、じかにわれわれの心情できいているように思われるのである。〉第6巻225p

▼恋人を待つ時間についての記述。「時間を知覚する」とは、いったいどういうことなのだろうか。



★「失われた時を求めて」を読む★3/30 今日は、第6巻258pまで。「ソドムとゴモラ 1」が終了。

▼例の、両側クリップをつかって、コタツに寝っ転がってiPadで読むということを続けているのだが、読み始めて2ページ目ぐらいになるとたいてい寝てしまう。「読んでいる」と「寝ている」の境目があいまいで、読んでいるつもりで寝てしまっていると、話がぜんぜん関係ない方向へ進んでいて、目がさめて、あわてて軌道修正をするという、不思議な読書となっている。まるで、電車がポイントを間違えて別方向へ行ってしまうような、夢の中で別の文章が立ち現れるような、いかにも、プルースト的な読書である。今日も、およそ20ページ読むのに1時間もかかっている。



★「失われた時を求めて」を読む★3/31 今日は、第6巻280pまで。

▼「ソドムとゴモラ 2 第1章 心の間歇」が始まる。

▼夢の中で、死んだ祖母を探し求める描写は、どこか宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や「青森挽歌」を思わせる。

▼〈この物語には皮肉な観察が充満しており、すべての登場人物がつまらない見栄や醜い打算から出た言動を暴き出されているが、そうした辛辣な考察をいっさい免れているのは、祖母と母の二人だけである。そのことの意味は、最終第十三巻で明らかにされるだろう。〉「失われた時を求めて 7」鈴木道彦訳・集英社文庫版・「はじめに」より〉



★「失われた時を求めて」を読む★4/1 今日は、第6巻301pまで。

〈死は空しいものではない、死者はわれわれの上に活動しつづける、ということができる。いや死者は生者よりももっと活動している。なぜなら、真の実在は、精神によってのみひきだされ、それが精神活動の目的そのものであり、真に知ったといえるのは、われわれが思考によって再創造しなくてはならなかったものだけだからである。そういうものは日々の生活によってわれわれにかくされているものなのだ……〉第6巻289p

▼「読書」は「死者との対話」だと、誰かが言っていたが、それを日々実感している。



★「失われた時を求めて」を読む★4/2 今日は、第6巻309pまで。

〈私は、かつて私たちが祖母といっしょに散歩に出たときにヴィルパジリ夫人の馬車で通ったあの街道のほうへ、たったひとりで散歩に出かけた。照る日ざしにまだ乾いていないあちこちの水たまりは、あたりをまるで沼地のように見せていて、泥にまみれなくてはふた足と歩けなかったかつての祖母のことを私は思うのだった。しかし、その道に出ると、ぱっと目を射るばかりのまぶしさだった。八月に祖母とながめたときは、りんごの葉と畑らしいものしか見えなかった場所に、いまは見わたすかぎり、一面にりんごの花ざかり、しかもそれらの木々は稀有の絢爛を誇って、まだ見たこともないすばらしいばら色のサテンを日にかがやかせながら、裾をよごすまいと気をつけるふうもなく、泥のなかに、ダンス・パーティーの盛装で立っていた。海のはるかな水平線は、りんごの木々の向こうに、まるで日本の版画の背景のような効果をあたえていた。私が頭をあげて、花間にうららかな、強すぎるほどの群青をのぞかせている空をながめようとすると、花々はあいだをあけて、この楽園の深さを見せてくれるように思われるのだった。〉第6巻308p

▼この後も美しい描写がつづき、「心情の間歇」はふいに終わる。

▼ここにも「日本の版画」が出てくる。プルーストは、よほど日本の美術に関心があったのだろう。



★「失われた時を求めて」を読む★4/4 今日は、第6巻355pまで。

▼段落が終わるところまで読もうと思うんだけど、ぜんぜん段落が終わらないので、途中でおわり。一文ごとに段落変えるような現代小説とは大違い。


★「失われた時を求めて」を読む★4/5 今日は、第6巻363pまで。

▼今日は、孫が遊びに来ていたので、ちょっとだけ。


★「失われた時を求めて」を読む★4/6 今日は、第6巻370pまで。

▼また途中で寝てしまった。



★「失われた時を求めて」を読む★4/7 今日は、第6巻390pまで。

〈人間の器官は、それの必要度が増すか、減じるかにしたがって、萎縮するか、強力に、敏感になるかする。鉄道というものができてから、汽車に乗りおくれまいとする必要が、われわれに分を勘定に入れることを教えるようになった。それにひきかえ、古代ローマ人にあっては、彼らの天文学ははるかに大ざっぱであったのみならず、生活自体もまたはるかにのんびりしていたから、分の観念どころか定時の観念すらほとんど存在しなかった。〉第6巻384p


〈……だから、上品な社交界で、小説家や詩人に出会うことはめったにないのであって、すべて小説家とか詩人とかいった最高の存在者たちは、口にしてはならないことをずばりといってのける人たちなのだ。〉第6巻390p

 


★「失われた時を求めて」を読む★4/8 今日は、第6巻421pまで。

〈嫉妬は、病的な疑惑の系統に属するものなので、それを一掃してくれるのは断言のほんとうらしさよりも、むしろ断言の力強さである。それにまた、われわれをうたがい深くすると同時に信じやすくするのが恋の特性であって、われわれは愛するひとをむしろ他の女よりも早くうたがい、愛するひとが否認することにむしろたやすく信を置くのである。貞淑な女たちだけがいるのではない、ということが気にかかる、それに気づくといってもいいが、そうなってくるには、恋をしてみなくてはならないし、貞淑な女たちがいることをねがう、言いかえれば、いると確信するにも、恋してみなくてはならない。〉第6巻399p

▼プルーストは実にいろいろなことを教えてくれる。いずれにしても「経験」が大事ということか。そういう意味では、文学を理解するには、ぼくは、あまりにも「経験」が不足している。ナゲカワシイことである。



★「失われた時を求めて」を読む★4/9 今日は、第6巻436pまで。

〈すらりとして色の青白い一人の若い美女を私は浜辺で見かけたのであったが、彼女の目は、その中心のまわりに、非常に幾何学的にきらめく光線を放射しているので、彼女のまなざしをまともに受ける人は、星座を見ているような気がするのだ。私は彼女がアルベルチーヌよりも数等美しい、アルベルチーヌをあきらめたほうがどんなに賢明であるかしれない、という考にさそわれるのだった。といってもこの若い美女の顔は、ひどく下品な人生、応接にいとまのない卑俗な方便、といったものの見えない鉋にかけられていたのであって、顔の残りの部分にくらべるとそれでも上品に見えるその目さえ、貪婪(たんらん)と欲望とにしかかがやいていなかったのであった。〉第6巻430p

▼プルーストは日本のアニメを先取りしているみたいだ。

▼さて、これで第6巻も読了と相成った。

 



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