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日本近代文学の森へ 268 志賀直哉『暗夜行路』 155  謝れない謙作  「後篇第四 九」 その2

2024-09-03 15:10:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 268 志賀直哉『暗夜行路』 155  謝れない謙作  「後篇第四 九」 その2

2024.9.3


 

 謙作とお栄は、次の駅で降りた。駅には、末松から電話がかかっていたので、それに出たところ、直子は軽い脳震盪を起こしたらしいが、ケガはないとのこと。謙作とお栄は、京都行きの電車に乗って、引き返した。


 謙作はどうしてそんな事をしたか自分でも分らなかった。発作というより説明のしようがなかった。怪我がなく済んだのはせめてもの幸だったが、直子と気持の上が、どうなるか、それを想うと重苦しい不快(いや)な気持がした。


 謙作はなぜ直子を突き落としたのか自分でも分からないという。それを説明するには「発作」としかいえないと思う。癇癪の発作だ。癇癪は、突発的で理不尽なものだから、その発作なら、いちおう説明がつく。しかし、その説明は、自分自身を納得させるには有効かもしれないが、他者を説得するにはどうだろう。

 お栄は、謙作の「発作」の原因が、自分にあるのではないかと気をまわす。


 「謙さん、何か直子さんの事で気にいらない事でもあるの? 貴方は前と大変人が変ったように思うけど……」
 謙作は返事をしなかった。
 「それは元から苛立つ性(たち)じゃああったが、それが大変烈しくなったから」
 「それは私の生活が悪いからですよ。直子には何も関係のない事です。私がもっと《しっかり》しなければいけないんだ」
 「私が一緒にいるんで、何か気不味(きまず)い事でもあるんじゃないかと思った事もあるけど……」
 「そんな事はない。そんな事は決してありません」
 「そりゃあ私も実はそう思ってるの。直子さんとは大変いいし、そんな事はないとは思ってるんだけど、他人が入るために家(うち)が揉めるというのは世間にはよくある事ですからね」
 「その点は大丈夫だ。直子も貴女(あなた)を他人とは思っていないんだから」
 「そう。私は本統にそれをありがたいと思ってるのよ。だけど近頃のように謙さんが苛立つのを見ると、其所(そこ)に何かわけがあるんじゃないかと思って……」
 「気候のせいですよ。今頃は何時(いつ)だって私はこうなんだ」
 「それはそうかも知れないが、もう少し直子さんに優しくして上げないと可哀想よ。直子さんのためばかりじゃあ、ありませんよ。今日みたいな事をして、もしお乳でも止まったら、それこそ大変ですよ」
 赤児の事をいわれると謙作は一言もなかった。


 謙作は、自分の苛立ちは「私の生活」が悪いからで、直子には関係のないことだと言い張るわけだが、直子の過ちを知らないお栄には、そういうしかないということだろう。しかし、案外これが謙作の本音なのかもしれない。

 直子が過ちを犯したことは事実だが、それはあくまで「過ち」であり、それを謙作は「許している」と思っている。いや、「許すべき」だと思っている。その上で、自分の中に起きた不快感を、自分だけの力でなんとか克服しなければならないと思っている。その心の中の作業においては、直子は「関係ない」のだ。自分だけの問題なのだ。自分だけの問題として取り組み、乗り越えたいのだ。

 謙作の中には、「しっかりしなければならない」という強迫観念がある。自分の出生にどんな暗い秘密があろうとも、それに負けまいとして生きてきた。だから、自分の周囲にどんなことが起ころうとも、自分は「しっかりした自分」を保持して、生きていかねばならない。直子が何をしようと、それが「過ち」に過ぎないならば、それを「許し」、そこから生じる不快感をなんとか自分の力で払拭し、「しっかり」と生活しなければならない。決して、そこで、女遊びなどに走ってはいけない。

 直子の告白の直後に、当の直子に「お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる」と言い放った気持ちは、その後もずっと続いているのだ。この極端な「自己中心主義」。「自分さえよければそれでいい」という意味の「自己中心主義」ではなくて、何事も、「自分だけ」の問題として捉え、「自分だけ」の問題として解決しなければならないという、強迫めいた意識。これはいったいどこから来ているのだろう。

 これはあくまでもぼくの推測だが、やはりキリスト教道徳があるのではないだろうか。性欲の問題で、信仰を捨てた謙作だが、それでも、女遊びに明け暮れる日々から脱出しようとしてもがいた。信仰は捨てても、そこで植え付けられた厳しい道徳観念は、謙作の心に深く根をおろしていたのだろう。

 神の助けを借りなくても、自分のことは自分で始末する、そんな「しっかりした自分」を作り上げてやる、それが謙作のいわば「意地」だったのではなかろうか。

 直子は、駅長室に、末松と一緒にいた。

 

 駅長室では末松と直子と二人ぼんやりしていた。直子は脚の高い椅子に腰かけ、まるで訊問前の女犯人とでもいうような様子で凝(じ)っとしていた。
 「まだ医者が来ないんだ」末松は椅子を立って来た。
 直子はちょっと顔をあげたが、直ぐ眼を伏せてしまった。お栄が傍へ行くと、直子は泣き出した。そして赤児を受取り、泣きながら黙って乳を含ませた。
 「本統に吃驚(びっくり)した。大した事でなく、何よりでした。──《おつも》、如何(どう)? 水か何かで冷したの?」
 「…………」
 直子は返事をしなかった。直子は自分の身体(からだ)よりも心に受けた傷で口が利けないという風だった。
 「どうも、あれが実に困るんです。乗遅れるといって、四十分で直ぐ出る列車があるんですから、少しも狼狽(あわ)てる必要はないんですが、僅(わず)か四十分のために命がけの事をなさるんで……。しかしお怪我がないようで何よりでした」
 「大変御面倒をかけました」謙作は頭を下げた。
 「嘱託の医者が留守で、町医者を頼めばよかったのを、直ぐ帰るというので、そのままにしたのですが、どうしましょう。近所の医者を呼びましょうか?」
 「どうなんだ」謙作は顧みていった。
 「少しぼんやりしてられるようだが、かえって、直ぐ此方(こっち)から医者へ行った方がよくはないか」
 「それじゃあ、折角ですが、私の方で、連れて行きます。大変御厄介をかけ、申訳ありません」
 末松は俥(くるま)をいいに行った。
 謙作は直子の傍(わき)へよって行った。彼は何といおうか、いう言葉がなかった。何をいうにしても努力が要(い)った。直子の決して寄せつけないというような態度が、謙作の気持の自由を奪った。
 「歩けるか?」
 直子は下を向いたまま点頭(うなず)いた。
 「頭の具合はどうなんだ」
 今度は返事をしなかった。
 末松が帰って来た。
 「俥は直ぐ来る」
 謙作は直子の手から赤児を受取った。赤児は乳の呑みかけだったので急に烈しく泣き出した。謙作はかまわず泣き叫ぶまま抱いて、駅長と助役にもう一度礼をいい、一人先ヘ出口の方へ歩いて行った。

 


 毎度のことながら、巧い文章だとは思うのだが、ここでは、どうも「視点」が定まらない。この小説は第三人称の小説だから、謙作の「視点」一本で進むわけではないが、その都度、微妙に「視点」を移動させている。それが効果的な場面ももちろんあるが、ここでは、混乱のように感じてしまう。

 「ぼんやりしていた」直子のことを、志賀は、「まるで訊問前の女犯人とでもいうような様子で凝(じ)っとしていた。」と書くわけだが、ここは、明らかに「謙作の視点」をとっている。つまり「謙作にはこう見えた」という書き方だ。

 直子は「被害者」であり、「加害者」でもなければ、まして「女犯人」でもない。「訊問」されなければならないのは、わびなければならないのは、謙作のほうだ。それなのに、直子はぼんやりと、訊問を待っている、ように、謙作には見えるというのだ。

 それは、謙作が直子に対して、申し訳ないという感情に支配されているのではなく、むしろ難詰したい気持ちでいっぱいだったことの現れであろう。どうして、無理矢理乗ってこようとしたんだ、どうしてオレの言うとおりにしなかったんだ、と次から次へと出てくる非難の言葉を、ぐっと飲み込んでいるからこその「見え方」だ。

 それにしても、この「比喩」は、残酷な比喩で、志賀直哉という人の酷薄さを見せつけられる気がする。

 その一方で、お栄の言葉にも返事をしない直子を、「直子は自分の身体(からだ)よりも心に受けた傷で口が利けないという風だった。」と書く。ここは、「謙作の視点」とは微妙にずれる。むしろ、直子の気持ちを汲んでの「見え方」である。このずれかたが、どうも気持ち悪い。すっきりしない。

 謙作は直子の「傷」をもちろん感じ取っているのだ、悪いことをしたと思ってはいるのだ、ということかもしれないが、そこがこの後に生きてこない。それが「混乱」と感じる理由である。

 とにかく、謙作は「悪いことをした」と思っているのかもしれないが、それが態度に、言葉に出ない。素直に、「すまなかった。癇癪を起こしてしまって。どこか痛くはないか。大丈夫か。」と言えばいいのに、それが言えない。

 むしろ、駅員の言う、非難がましい言葉こそが、謙作の心に共感をもって受け入れられる。謙作も同じことを思っていたに違いない。直子が命を賭けたのは、「40分」のためではない。赤ん坊への「乳」のためだ。そのことの切実さを、謙作は理解しない。しようともしない。だから、謙作は直子から赤ん坊をむしりとるように受け取ると、乳を飲みかけだった赤ん坊を「かまわず泣き叫ぶまま抱いて」、「一人先へ」歩いていってしまうのだ。まるで、復讐をするかのように。乳なんかに拘るからお前はあんな目にあうんだ。赤ん坊なんて、これでいいんだ。そう、謙作の後ろ姿は叫んでいる。

 一言の詫びも言えないのは、「直子の決して寄せつけないというような態度が、謙作の気持の自由を奪った」からだというように書いてあるが、それでも、まず、直子をいたわる、心配する、わびる、言葉ぐらいは言えないわけではなかろう。そんなときに「気持ちの自由」なぞ、微塵も要らぬ。

 まあ、こんなふうに読んでくると、この謙作という男の今風に言えば「好感度」は、だだ下がりで、(今までだって、「好感度」は、低かったわけだが。)この男はいったいこの先どうしようというのだろうと心配になる。

 直子は、こんな男にどこまでついていけるのだろうか。それも心配になる。結論は、もう出ているのだが、それはそれとして、もうしばらく心配しながら、読んでいくこととしよう。

 

 

 

 

 


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