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★「失われた時を求めて」を読む★ 第5巻・引用とコメント

2015-04-10 11:23:19 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第5巻・引用とコメント

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。




★「失われた時を求めて」を読む★2/25 今日は、第5巻14pまで。

▼「ゲルマントのほう 2」のはじまり。祖母の病気と死が語られる。この小説のひとつの「よみどころ」だという。

▼祖母が発作を起こしたとき、シャンゼリゼで出会った医師のE…教授が、「エレベーターのボタンを押したがるマニア」だという記述があって思わず笑った。まるで、バスの降車ボタンを押したがる3歳児ではないか。「エレベーター」が珍しかったころは、大人もまた3歳児のような「マニア」であったのだ。



★「失われた時を求めて」を読む★2/26 今日は、第5巻34Pまで。

〈…そして、内心こんなことを自分に反問するにいたった、ホメロス時代から大して進んでいるわけでもない芸術と、たえまない進歩の状態にある科学とのあいだに、われわれがつねに設けるあの区別には、なんらかの真実があるのだろうかと。もしかすると、芸術は、その点では普通に考えられているのとは反対に、科学に似ているのかもしれなかった、独創的な新しい作家はいずれもおのれに先だった作家を乗り越えて進歩をとげるのだ、と私には思われてくるのだった。〉第5巻32P

▼「私」は、最近の作家の書くものが、何だかよく分からないと言いながら、いや、そうではない、芸術も進歩するのだと考えるわけである。当時は、芸術は「ホメロス時代から大して進んでいるわけではない」と普通には思われていたという記述が、なんだか面白い。今も「普通に思われている」からだろうか。


★「失われた時を求めて」を読む★2/27 今日は、第5巻62pまで。

▼「ゲルマントのほう 2 第1章」が終わった。祖母の死の場面は、まるで、音楽である。すばらしい。



★「失われた時を求めて」を読む★2/28 今日は、第5巻81pまで。

〈時間が雑談でまぎれると、人はもう時間をかぞえなくてすむし、時間を見ることさえなく、時間は消えてゆく、そして突然、われわれの注意のまえに時のすばやい手品師がふたたびあらわれるのは、時がわれわれの目をのがれさってからうんと遠いところにきた時点においてなのだ。しかしわれわれがひとりでいると、頭を占めている気がかりが、時計のひんぱんで一本調子なチク=タクの音を伴い、まだかなたにあってたえず待たれる瞬間を前方へ前方へと連れさりながら、友達にまじっていたらわれわれがかぞえもしなかったであろう時間を、一分ごとに分割させる、というよりは増加させるのである。〉第5巻71p

▼時間に関するこういう経験は、おなじみのものだ。「時間をかぞえる」「分割する」、これらが時間を長く感じさせる。とはいえ、今のぼくにとっては、どう過ごそうと、時間はただ「矢のように」過ぎ去るばかりだが。



★「失われた時を求めて」を読む★3/2 今日は、第5巻130pまで。

〈私はほとんどどの家屋にも不幸な人たちが住んでいることを知って、胸を痛めさせられるのだった。こちらでは妻がその夫にあざむかれることでたえず泣いていた。あちらでは立場がその逆であった。またべつのところでは、はたらき者の母親が酔っぱらいの息子にひどくぶんなぐられながら、その苦しみを隣近所の人たちの目にかくそうとつとめていた。およそ人類の半数というものは泣いていた。そして私がそういう人たちを知ったときに見てとったことは、不貞の夫または妻にも(彼らがそうなったのは当然要求されるべき正当な幸福が拒まれたからでしかなく、彼らは自分の妻または夫以外の人なら誰にでも愛嬌よく誠実にふるまっていたのであって)もっともな点があるのではないかと私が考えたほど、もはやがまんがならないひどい状態に彼らがいたということだった。〉第5巻111P

▼「およそ人類の半数というものは泣いていた。」とは、言い得て妙である。やっぱり、人類というものは、古今東西、ちっとも変わってないんだなあ。

 


★「失われた時を求めて」を読む★3/3 今日は、第5巻149pまで。

▼今日別れたiPadでの最後の読書。それはそれとして。

〈私はステルマリア夫人がどんなことを書いてきたかをつかむのに一瞬とまどった、その内容は、彼女がぺンを手にしていたあいだはそれを変えることも可能であったろうが、いまは彼女からひきはなされていて、きめられた道をひとりでたどる運命にあり、彼女としてはもうそれをいっさい変更することができないのだ。〉第5巻145p

▼ステルマリア夫人は、「私」とのデートを断る手紙を書いてきたのだが、その手紙を「私」が使者から手渡された時の感想が、この文章である。「手紙」と「メール」との違いは、単に、「時間」の極端なまでの差異だけではないような気がする。「いまは彼女からひきはなされていて、きめられた道をひとりでたどる運命にあり」というところが、「メール」では実感を伴わない。「運命」も短縮されたものである。



★「失われた時を求めて」を読む★3/6 今日は、第5巻215pまで。

〈ひとたびエルスチールの諸作品に面と向かうと、もうそれだけで、私はすっかり晩餐の時刻を忘れてしまった。ふたたび私はバルベックでのように、自分のまえに、あの未知の色彩の世界の諸断片をもつのだった。そうした世界は、この偉大な画家独特のものの見方の投影にほかならず、彼の言葉では全然言いあらわしえないものであった。全部がたがいにその質をおなじくする彼の数々の絵画で被われた壁の各部分は、一つの幻灯からつぎつぎに出てくる光の諸映像のようで、幻灯は、この場合、画家の頭脳とでもいうべく、ただ人間を知ったというだけでしかないかぎり、また言いかえれば、着色の原板がまだはめこまれない以前の、ランプにかぶさっている幻灯器を見ただけでしかないかぎり、幻灯のふしぎさを推測することはできなかったであろう。〉第5巻192p

▼「幻灯」の比喩が魅力的。こう考えると、「作品」もまた違った見え方をしてくるかもしれない。

〈彼の描くそうした「いやなもの」を受けつけない人たちは、自分たち社交人が愛しているシャルダン、ペロノー、その他多くの画家たちを、エルスチールが讃美していることに奇異の念を抱くのであった。彼らには了解できなかったのだ、エルスチールが現実をまえにして(ある種の探求にたいする彼独特の好みをあらわしつつも)シャルダンやペロノーとおなじ努力をやりなおしているということを、したがって、彼が自分だけのために仕事をすることをやめているときは、それらの画家たちにおける、自分とおなじ種類のくわだて、自分の作品を先どりしたような幾種類もの断片、そうしたものを讃美する、ということを。しかも社交界の人たちは、彼らにシャルダンの絵を好ましくしているもの、すくなくとも抵抗なしにながめさせるもの、すなわちあの時のパースペクティヴというものを、エルスチールの作品の場合には考慮に入れないのであった。しかしながら、最長老となって生きている人のなかには、生涯をふりかえって、アングルの傑作だと判断した一つの作品と、いつまで経ってもいやなものとして残るであろうと思われた作品(たとえばマネの『オランピア』)とのあいだの越えがたい距離が、歳月の遠ざかるにしたがってだんだん縮小し、二つの画面がそっくりおなじように見えたことがあった、とつぶやく人もあったであろう。しかし世人はどんな教訓もとりいれない、それはみんなが一般的な考察にまでおりてゆくことをやらないからであり、また過去に前例のない経験に直面しているといつも思いこんでいるからである。〉第5巻193p

▼こうした記述は、美術についてのそれなりの知識を要求される。「エルスチール」は架空の画家だが、「シャルダン」や「ペロノ−」は、そして「アングル」も「マネ」ももちろん実在の画家。貴族のサロンに招かれて、その屋敷に飾られている「エルスチール」の作品に「私」が晩餐会のことも忘れて見入ってしまう場面だが、ここは一種の美術評論となっている。

▼だから、「失われた時を求めて」を「本当に」読むなら、「註」も全部読まなくてはならない。そういう時にiPadでは非常に不便なので、ときどき、集英社文庫版や岩波文庫版の註を見ている。が、見ないですっ飛ばしていることも多い。

▼さしあたっての今回の読書の目標は、「全巻の通読」だから、いわば「下見」のようなものである。

 

★「失われた時を求めて」を読む★3/7 今日は、第5巻237pまで。

〈そうだからといって、ゲルマント氏が、あるいくつかの面で、ひどくありきたりでなかったわけではなく、またあまりにも裕福な人間のもつこっけいさ、なりあがりでもないのになりあがりそっくりのうぬぼれを、彼がもっていなかったわけではない。しかし、官吏や司祭が、彼らをささえている力、フランスの官庁やカトリック教会のカによって、彼らの凡庸な才能が無限に増幅されるのを見るように(あたかも波がその背後を圧する海の全体によってそうなっているように)、ゲルマント氏もまた、べつの力であるもっとも正しい貴族的礼儀にささえられていた。〉第5巻220p

▼こういうことってよくあるなあ。「地位が人を作る」とよく言われるが、それは「地位」がその人の本質を変えるのではなくて、こういう事情によるのかもしれない。いや、実に納得である。


★「失われた時を求めて」を読む★3/9 今日は、第5巻299pまで。

〈ノルウェーのフィヨルドを見物に行くために、レストランでの百の晩餐会や昼餐会、その倍にもあたる「お茶」の会、その三倍にもあたる夜会、この上もなくきらびやかなオペラ座の月曜日やテアートル=フランセの火曜日などの特別興行を、いさぎよくすてさってもいいという考えかたは、クールヴォワジエ家の人々には『海底二万海里』とおなじほど不可解なものに思われたが、同時にまたこの小説のような解放感と魔法の力とを彼らにつたえたのであった。〉第5巻292p

▼ヴェルヌの『海底二万海里』がここに出てくるとは思わなかった。『海底二万海里』が「解放感」を与える小説だという言及も興味深い。



★「失われた時を求めて」を読む★3/11 今日は、第5巻352pまで。

▼フランス語の「ダジャレ」は、さすがに、訳が分からん。でも、フランス語にも「ダジャレ」があるんだなあ。

▼集英社版の第1巻「まえがき」で、訳者の鈴木道彦は次のように言っている。
「本巻の読者は、これから長い旅ににも似た物語のなかにはいってゆかれるわけだが、訳者としては、何はともあれ最終巻までつきあってくださることを希望している。とくに第三、四篇(この翻訳の第五~八巻)には、ときおりやや冗長な描写も出てくるだろうと思われるが、そのような部分は多少とばし読みをしてもかまわないし、……(中略)……こうして第五篇(翻訳の第九巻)までゆけばしめたもので、あとは筋も引きしまり、運びも早くなって、そのまま大団円に到達するはずだし、そこから振り返れば、冗長に思われた第三、四篇の意味も見えてくるはずである。」

▼つまり、ぼくが今読んでいるあたりは、かなり「冗長な描写」が多いということだ。ここであきらめてはダメよと、鈴木道彦先生はおっしゃるわけで、その言葉を信じて、めげずに読もうと思う。


★「失われた時を求めて」を読む★3/12 今日は、第5巻382pまで。

〈この人は、想像力に欠けているくせに、ほしがる気持は人一倍強い人間のすべてがそうであるように、こちらの飲んでいるものに目を見張り、自分にもすこし飲ませてもらえないかとたのむ種類の男なのである。それで、毎回アグリジャント氏は、私にあてがわれる分量に食いこみ、私のたのしみをそぐのであった。というのも、そんなフルーツ・ジュースは、のどの渇きを癒すに十分なほどたっぷり出されるわけではけっしてないからである。果物の色のこのような味覚化にも増して人をあきさせぬものはないのであって、果物はこれを煮つめることによって花の季節に逆もどりするように思われる。ジュースは、春の果樹園のように深紅色であったり、果樹の下を吹く春風のようにきわやかな無色であったりして、一滴ずつそのかおりを吸ったりながめたりできるのに、アグリジャン卜氏は、それをじっくり味わう私をかならずさまたげるのであった。〉第5巻358p

▼フルーツ・ジュースは、当時は珍しい飲み物だったのだろうか。今のように「飲み放題」の時代では、こんなにも「夢のような飲み物」として描くことなんて到底できない。

▼こういう男っているとは思うけど、小学生どまりかなあ。そういえば、小学校の給食に、時々でてきたデザート──レーズンと、リンゴやミカンの小さく切ったものを甘いミルクであえたようなもの──が、まさに「のどの渇きを癒すに十分なほどたっぷり出されるわけではけっしてない」ものだったことを思い出す。「のどの渇き」というより「味覚の渇き」だったけど、ああ、これ、どんぶり一杯食べたいと思ったものだ。ミルクの嫌いな女の子が、「これあげる」なんて言ってこようものなら、天にも昇る気持ちだった。

〈「なんですって! あなたはオランダ旅行をなさったのに、ハールレムにいらっしゃらなかったの?」と公爵夫人は大きな声でいった。「まあ、十五分しか余裕がおありでなかったとしても、ぜひごらんにならなくてはいけなかった、とびっきりのものですのに、ハルスの作品は。私こう申しあげたいくらい、ハルスの作品がもしそとに展示されているとしたら、それを電車の屋上席から立ちどまらずに見ることしかできない人でも、かっと大きく目を見ひらかなくてはいけないって。」
 この言葉は私の勘にさわった。芸術の印象がどんなふうにわれわれのなかで形づくられるかを認識していない言葉のようだからであり、またこの場合、われわれの目はスナップをとる単なる記録装置だという考をふくんでいるように思われたからである。〉第5巻378p

▼ハルスというのは、オランダの画家フランス・ハルスのこと。「とにかく一瞬でも見ればいいのだ。」といった「芸術鑑賞」の態度は、今でも多く見られるところ。われわれの目はカメラではないのだ。肝に銘じたい。



★「失われた時を求めて」を読む★3/13 今日は、第5巻402pまで。

〈しかし、私にとっては、ゲルマント氏やボーセルフイユ氏にとっての「家柄」のようなものは、そんなにたいせつではなかった、その件で二人が交していた会話のなかに、私は詩的なたのしみしか求めようとはしなかった。彼らのほうでは、そんなたのしみを知ることなしに、それを私にもたらしてくれるのであった、あたかも農夫や水夫が、耕作や潮流のことを話しているときのようなもので、彼らがそこに美を味わうことができるにはあまりにも生活に密着した現実であるそうした耕作や潮流から、私は自分に即して美をひきだす役目をひきうけるのであった。〉第5巻400p

▼「あまりにも生活に密着している」と美を味わうことができない、ということだろう。「家柄」をめぐる貴族たちの俗な会話からでも「詩的なたのしみ」を引き出すことができる。つまり「会話」の意味から離れて、「言葉」あるいは「表現」そのものに面白みあるいは美を見出すということなのかもしれない。

▼「書」も、書かれている言葉・文字の「意味」から離れると、そこに「美」がある、ともいえるわけだ。


★「失われた時を求めて」を読む★3/14 今日は、第5巻428pまで。

〈拡大鏡にかけて見ると、私に愚劣だと思われたゲルマント夫人の判断のいくつかも(たとえば電車からでも見る必要があるくらいだというフランス・ハルスの絵についての判断なども)、異常なほどの生気と深さとをもってくるのだった。それにまたこの高揚は、すぐに低下したとはいえ、全然無分別なものであったわけではないことをいっておく必要がある。われわれが軽蔑しきっていた人間も、われわれの好きな少女と縁つづきであり、その少女に紹介してもらえる人間であるということであれば、永久にだめだと思ってしまうことにもなりかねなかったありがたさや好感もそこでわいてくるから、その人間を知っていてよかったと思うことのできる日がいつかくるのと同様に、後日かならず何かをひきだせると思えないような話合や交際は一つもないのである。電車から見ても興味をひくに足る絵だとゲルマント夫人が私にいったそういう考はまちがっていたが、それでも真実の一部をふくんでいたのであって、それがあとになって私に貴重なものになったのであった。〉第5巻423p

▼そういうものなのかもしれない。芸術の見方ひとつとっても、人間の成熟にしたがって、その考えは変わるのだろう。「あとになって私に貴重なものになった」とあるが、それが語られるのはいつだろう。こういう書き方が、「失われた時を求めて」には多い。



★「失われた時を求めて」を読む★3/15 今日は、第5巻451pまで。

〈話したいという欲求は、単にきくことだけをさまたげのではなく、見ることもさまたげる、そしてそんな場合に、外的環境の描写が欠けているのは、すでにそれが内面状態の描写となっている証拠である。〉第5巻429p

▼こういう人って知ってる。ま、ぼくもそうだけど。カラオケでも、「歌いたいという欲求」は、他の人の歌を「きくことをさまたげる」。


★「失われた時を求めて」を読む★3/17 今日は、第5巻486pまで。

〈それにまた、この町にあっては、おなじ一つの中庭に面して窓が向かいあっているその家屋と家屋のきわめて近いことが、一つ一つのガラス窓をいつもしめさせていて、その窓枠を額ぶちのように見せ、その内部では、一人の料理女がゆかをながめながらぼんやりしていたり、またはもっと奥に一人の少女が、陰のなかでほとんどはっきり見わけられない魔女のような顔の老婆に髪を梳かしてもらったりしている、そのようにして、一つ一つの中庭が、隣りあう家屋に住む人にとっては、間隔が物音を消すとともに、しめきった窓の長方形のガラス・ケースのなかに入れられた人物の無言の身ぶりを透かして見せながら、ならべてかけた百のオランダ派絵画の展覧会場と化するのである。〉第5巻464p

▼「この町」は「ヴェネチア」のこと。

 


★「失われた時を求めて」を読む★3/18 今日は、第5巻436pまで。

▼第5巻読了。「ゲルマントの方 2」が終了。明日から、第6巻「ソドムとゴモラ1」が始まる。とうとう、半分読んだことになる。

 


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