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日本近代文学の森へ (208) 志賀直哉『暗夜行路』 95  下品な女 「後篇第三  六」 その2

2022-01-18 14:21:43 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (208) 志賀直哉『暗夜行路』 95  下品な女 「後篇第三  六」 その2

2022.1.18


 

 謙作がお栄に未練を感じて、ぐだぐだ考えているところへ、お才が帰ってきた。


 お才という女が大きな風呂敷包を抱え、俥で帰って来た。瘠(や)せた脊(せ)の高い、そして顔に険のある案外年をとった女だった。謙作は最初から不快(いや)な印象を受けた。
「こちら、謙さん?」こう一度お栄の方を向いて、「私、才。初めてお眼にかかります」こういって年に似合わぬ蓮葉(はすっぱ)なお辞儀をした。
 そしてお才は眼尻に小皺(こじわ)を作り、色の悪い歯ぐきを露わし、笑いかけ、臆面もなく親しげに謙作の顔へ眺め入った。謙作は参った。お才に好意のある事が感じられるだけになお、彼は一種圧迫を感じた。とにかくお才は彼の想像以上に下品な女だった。
 彼は自分の好悪感が、そのままにお栄で、働かない事を歯がゆく思った。余りにそれがお栄にはなさ過ぎる気がした。そしてこんな女と一緒に何かしようというお栄の気が知れなかった。
お才は風呂敷を解き、何枚かの華美(はで)な女着物を出して見せた。何(いず)れも古着らしく、何所か垢染(あかじ)みていた。お才は時々、
「これがね……」こんな風にいって、起ってそれを自分の胸に当てて垂らし、お栄に説明した。


 実に見事な描写力である。こんなところは、小津安二郎の映画じゃなくて、溝口健二の「赤線地帯」なんぞを思い起こさせる。「お才」は、もちろん、杉村春子だ。「背が高い」という感じでは、浪花千栄子のほうがいいかもしれないが、彼女にはこの「下品」な感じは出せないかもしれない。

 「顔に険のある」の「険」は「性格がとげとげしいこと。顔つきや物言いなどにとげとげしさのあること。」(日本国語大辞典)の意だが、あまり最近は使わないような気がする。

 瘠せて背が高くて、顔に険がある女──謙作の「好悪感」は全開で、「不快」だと判定する。謙作の面目躍如だ。

 「年に似合わぬ蓮葉なお辞儀」というのが、どういうものだかよく分からないが、これも杉村春子がうまく演じそうだ。首をちょっと傾けて、ちょこんと頭をさげる。そんな感じだろうか。この「蓮っ葉」という言葉もほぼ絶滅しかかっているが、調べてみると面白い。

 「蓮っ葉」は「蓮葉」の転じたもので、「蓮葉」とは、もちろん、「蓮の葉」のことだが、そこから後の意味がずらりと並んでいる。「日本国語大辞典」では、
(1)浮薄なこと。軽はずみなこと。軽率なこと。言動につつしみがないこと。また、そのさま。
(2)特に、女性の態度・動作が下品で軽はずみなこと。浮気なこと。また、そのさま。
(3)服装、つくりなどが軽薄なまでに派手であること。また、そのさま。
(4)「はすはおんな(蓮葉女)」の略。
となっている。どうして「蓮の葉」からそんな意味が生じてくるのかは、どうも諸説あるようだが、「日本国語大辞典」には、二つの語源説が紹介されている。
(1)蓮葉商いから。蓮葉商いは盆の供物の物盛りに使う蓮の葉のようにその場かぎりの際物商いの意〔すらんぐ=暉峻康隆〕。
(2)ハスハ(斜端)の意か〔大言海〕。


 どちらもイマイチ説得力がないが、「蓮葉商い」から来ているのだとすると、「軽薄さ」が中心的な意味となるだろう。

 「お才は眼尻に小皺(こじわ)を作り、色の悪い歯ぐきを露わし、笑いかけ、臆面もなく親しげに謙作の顔へ眺め入った。」となると、もうとまらない。これでもかとたたみかける「不快感」だ。そして「下品な女」ととどめを刺す。

 謙作は、その自分の感受性が、そのままお栄のものではないことに歯がゆさを感じる。オレがこれほど下品だと思っているのに、どうしてお栄はそう思わないのだろう? という謙作の思いは、謙作の心のありかたの本質をついている。

 謙作は、滅多にない忌まわしい出自を持つが、それを知ったのは最近のことで、それまでの20数年というものは、金持ちの坊ちゃんとして育ってきたのだ。それに対して、お栄は、謙作の祖父の妾だった女だ。それ以前には、どういう境遇にあったかは分からないが、社会の底辺をさまよってきたのかもしれない女なのだ。その二人が「同じ感受性」を持ちうるはずがない。そんなことは、ちょっと考えれば分かることなのに、謙作は、考えようとしないし、考えたとしても、たぶん想像がつかない。


 謙作は少し疲れてもいたし、その場にいにくい気持もし、挨拶して一人二階へ上がって行った。そして彼は床の中に寝そべりながら、今、抱えて来た、東洋美術史稿の挿画(さしえ)を見た。古い時代のものが殊になつかしかった。中には今度の旅で見て来たものもあり、今までになく彼はそれらに惹き入れられた。こうして自分には今までになかった世界が展(ひ)らけて来、そして結婚によって新しい生活が始まるだろう、など考えると、彼の胸には静かな幸福な気持が自然に湧き上って来た。それにつけても、今階下(した)で何か小声で話している二人を想うと、丁度反対な世界が今、お栄に展らけつつあるのではないかという気がし、このままにしていていいのだろうか、という気がした。
 久しぶりで、自分の寝床はよかった。暫くして彼は燈を消し、快い眠りに沈んで行った。


 謙作とお栄の「違い」は、過去においては明らかだったが、また将来においてもまた明らかであることを謙作は感じる。

 「丁度反対な世界が今、お栄に展らけつつあるのではないかという気がし」どころではない。「丁度反対な世界」がどんな世界であるかは、謙作にはだいたいの想像はつくはずなのに、「このままにしていていいのだろうか」という程度の心配でしかない。そしてその心配は、謙作の「静かな幸福な気持」を寸分も乱すことなく、謙作は「快い眠り」に沈んでいくのだ。

 翌朝起きてみると、お才はもう出かけて、いなかった。話はどんどん進んでいて、謙作は「こう、どんどんと事が運びつつあるのを見ると今更どうもならない気がした。」ということで、結局のところ、謙作は、お栄のために親身になることもなく、傍観者たるにとどまるのだ。

 

 


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